トーストを口に運びながら熊野が「僕は今日出かけなきゃいけないので、金子くんは宇佐木にでも構ってもらってくれ」と言って颯爽と去っていく。「珍しいな、あいつが自分から外に出るなんて」と乾が呟いた。
今日は土曜で、宇佐木は仕事が休みらしい。
「じゃあクロ、俺と遊ぼうか」
「なにするの」
「何がしたい?」
うーん、と金子は首をひねる。そうしている間に乾は仕事に出て、深波は「おいら今日は家帰んなきゃいけないからー」と迎えに来た家の人間に連れていかれてしまった。
「何もしたいことない。宇佐木の手伝い、する」
「そうかい? ありがたいな」
宇佐木は立ち上がり、「じゃあ来てもらおう。おいで」と手招きする。
水色の小さめな車に乗り込んで、宇佐木がエンジンをかけた。助手席に座りながら「どこに行くの?」と金子は尋ねる。「実家……って言うのかな」と宇佐木は言葉を濁した。
三十分ほど車を走らせてたどり着いたのは、寂れた小さな教会だった。
「伯父がここで神父をやっていてね。一年と少し前に亡くなってしまってから、俺が管理だけしている状態なんだ。暑くなってきたから草が伸びてきたな」
「草むしり、するの?」
「手伝ってくれるだろうか」
「うん」
宇佐木は金子に軍手を差し出した。それを受け取りながら、金子は「やることがわかってることって好き。この前の野球も、わかってきてから楽しかった」と話す。「わかるよ」と宇佐木は頷いた。
「宇佐木は学校の先生なんでしょ?」
「そうだよ」
「なんの先生?」
「国語だ。国語は好きかい?」
「おれ、本を読むのは好きだったよ。一番好きな授業は、音楽」
「音楽はいいよなぁ。ノーミュージックノーライフだ」
それからは黙々と草をむしり続けた。三十分くらいで汗がにじんできて、金子はそっと額を拭う。「疲れてきたら、中に入って休んでいていいよ」と宇佐木は言った。まだあまり疲れてはいなかったが、金子は教会の中が気になって視線をそちらに移す。
「中を見てもいい?」
「もちろん。鍵は開いているよ」
ドキドキしながら軍手を外して、重い扉を開いた。
こじんまりとした小さな教会ながら、天井が高い。ステンドグラスから差し込まれた色とりどりの光に目を奪われる。綺麗だ。
教会は、神様に祈る場所だと聞いたことがある。ということは、神様がここにいるのだろうか。
「宇佐木、」
「どうした?」
「神様はどこにいるの」
ふっと虚を突かれたような顔をした宇佐木が、しばらく考えるそぶりを見せた。それから「ここにはいない」と答える。
「俺は聖書を読んだことがないからわからないけれど、教会にはいないと思う」
「そうなんだ。じゃあ、どうして祈るの?」
「さあ……。少なくともこの教会のことは、神様も見ていないと思うな」
いないんだ、残念。
そう思いながら金子は教会の中に入る。厚い絨毯が敷いてあって、足音は響かない。光を追いかけるように、奥へ奥へと歩いて行った。
不思議なことに、一面絨毯が敷かれていない場所があった。つるつるの白い大理石が見えている。触ったらひんやりした。
「床を触るのは感心しないな。汚いぞ」
後ろからそう言われて、金子は思わず飛び跳ねる。
宇佐木が参列席に座って、「掃除もろくにしていないのに、随分綺麗だ」と呟いた。
「おれも、草むしりするね」
「いや、俺も休憩しようと思ったところだ。お茶を飲むかい?」
「おれ、まだ何もしてないよ」
「何もしてないということはない。お前がやっていたところは本当に綺麗になっていた。仕事が丁寧だね」
座ってごらん、と宇佐木は言う。促されるままに、金子は宇佐木の隣に座った。
「神様がここにいたら、どうするつもりだったんだ?」
「……相談したいことがあった」
「それは神様じゃなければダメかな。たとえば俺とか、今ちょうどお前の隣にいて、ちょうど相談に乗りたいと思っていたところなんだけど」
金子は少し考えて、「宇佐木でもいいよ」と言う。宇佐木は目を細め、「光栄だ」と笑った。
「熊野さんって、殺し屋なの?」
「…………。それは、誰が? いや……深波か」
顎に手を当てた宇佐木が、「思っていたのと違ったな。まあ、でも……そうか。避けては通れないか」と渋い顔をする。
「深波は、あの子は少し悪戯好き過ぎるところがあるから、あまり真に受けてはいけないよ。こと壮汰に関しては度が過ぎることもある」
「じゃあやっぱり、嘘なんだ」
「いや、それは事実だ」
「事実なの!?」
びっくりして大きな声を上げると、教会の内部で反響した。
「うん。まあ、事実だ。俺から言うのもなんだけれど、でも嘘をつく場面でもないだろう。あいつはそういうことを生業にしている」
驚いて開いた口が塞がらない金子を見て、宇佐木は「騙されたと思うかい? まあ、そういう重大な事実は“言わない”だけで詐欺みたいなものだよな」と肩をすくめる。
「この事実を前に、お前は選ぶことができる。拒絶するか否か。もちろん拒絶すべきところだとは思うが……だが、」
「……おれ、他に行くところないよ」
「うん、そうだろう。少なくとも他に居場所を見つけるまではお前に選択肢はないだろう。だからこればっかりは申し訳ないが、一旦呑み込んでもらえないだろうか。他に取れそうな手立てというと、壮汰の方を追い出すことだが、それは許してもらえないかなという下手な交渉しかできない」
「許すとか、許さないとか、おれが決めることじゃないと思う。宇佐木はどうして家に殺し屋がいることを許しているの?」
「友達なんだ。それに、共犯と言ってもいい」
「宇佐木も殺し屋ってこと?」
「俺は教師だよ、ただの。でも知っていてあの家に住まわせているんだ。十分に共犯と言えるだろう」
どうして? と再度尋ねたが、宇佐木は困った顔をしただけだった。
金子は仕方なく膝を抱える。
「|壮汰は心底穏やかで、優しい男だよ」
「そういう人は、殺し屋とかにはならないんじゃないかな。わからないけど」
「そうだな。本当にそうだ……。だから何を言っても無駄だよな。あいつはどう転んでも擁護できやしない、殺し屋だ」
さて、と膝を叩いた宇佐木が「もうひと踏ん張りして、昼になったら帰ろう。昼食はどこで食べようか。壮汰はお前にファストフードばかり食べさせているらしいな。今日は蕎麦でも食べようか?」と微笑んだ。
家に帰ってすぐシャワーを浴び、金子はリビングを覗く。すでに深波が帰ってきていて、クッションに沈みながらテレビを見ていた。深波に気づかれないように遠くに座ったのに、「おかえりー」と深波はこちらを見もせずに言う。ただいま、と金子は小さな声で応えた。
「どこ行ってたん?」
「教会……。宇佐木の、おじさんの、とこ」
「へえ。おいらも行ってみたいんだよね。どんな感じだった?」
「……綺麗だった。色ついたガラスがキラキラしてて」
「ステンドグラス? いいじゃん」
シャワールームから出てきた宇佐木がリビングに入ってきて、深波はようやく起き上がり宇佐木の方を見る。
「おいらも連れてってよ、宇佐木家の教会」
「お前は草むしりを手伝ってくれるのか?」
「うげー……。ちょっと連れてってくれればいいだけなのに」
「子供が行って楽しいところじゃないよ。教会ならもっと立派なのがたくさんある」
ちぇっ、と言いながら深波はまたテレビに向き直った。宇佐木は肩をすくめ、テーブルのいつもの席に座る。
そうこうしているうちに乾が帰ってきた。
「おかえりー、乾さん。クロすけと宇佐木さんはデートしてきたらしいよ」
「今日一どうでもいい情報だな。デートなんて好きに行けばいいだろ」
「おかえり、義文。お疲れさま」
何も言わずに片手をあげて、「お前らもうシャワー浴びたのか?」と尋ねる。「風呂沸いてるぞ」と宇佐木が浴室を指さした。
「じゃあ風呂入るわ。……熊野は?」
「まだ戻ってきてないけど」
「まあいいか。風呂出たら飯な」
「やった~。お腹ぺこぺこです」
数十分待っていると、乾が浴室からキッチンに直行する音がする。
金子は静かに立ち上がり、キッチンに顔を出した。
「なんだ。つまみ食いするようなもんはないぞ」
「ねえ、乾」
「今日の飯は何か訊きに来たのか? 待ってれば食卓に並ぶぞ」
「熊野さんって、殺し屋なの?」
「あー? んなふざけたことをお前に吹き込んだのは深波か? まあ、あいつしかいないわな」
「乾は信じてないの?」
「殺し屋なんて職業はねえよ。大方、ヒモみてえな暮らししてるあいつを揶揄して言ってんだろう」
あっさりと乾はそう言った。「まあ、怪しいのは怪しいけどな。素性が知れないのは確かだから、反社ではあるのかもしれないが……」とため息混じりに続ける。
「まあ、そうだとしたらオレは出るとこ出なきゃならんし、そうでないことを祈るばかりだが。お前は熊野を疑っているのか?」
「うーん……」
「疑った方がいいわな。あんな風に連れてこられたら、そりゃあ」
「でもおれ、熊野さんのことは好きだよ」
「メンチカツとどっちが?」
「……。くまのさん」
「結構悩んだな」
乾は手を叩いて、「揚げ物をするから出ていけ」と言った。
キッチンを出た金子は、少しモヤモヤしながらリビングに戻った。
玄関のドアが開く音がして、見に行くと熊野が靴を脱いでいるところだった。金子は今までのモヤモヤなど忘れてしまって、「熊野さん!」と駆け寄る。
「おっすー、ねこちゃん。いい子してた?」
「してた! してた!」
玄関に上がった熊野が金子の頭を一瞬撫でて、「よっすー、もしかしてちょうど飯ですか? ラッキー」とリビングに入っていく。
「おう、熊野。お前帰ってこねえと思ってお前の分ねえよ」
「嘘じゃん」
「嘘だ、手を洗って来い」
「いえーい」
スキップで手を洗いに行った熊野を横目で見ながら、金子はリビングに戻る。
「熊野さんどこ行ってたのー!?」と深波が声を張り上げて訊いた。洗面所から熊野が「散歩!!」と答える。「どんだけ時間かかってんの、散歩に」と小さく深波が呟いている。
手を洗い終えた熊野がやってきて、「お腹すいた。まだ?」と図々しく椅子に座った。
揚げたてのメンチカツを運んできた乾が熊野を小突く。離れたところでテレビを見ていた深波も駆け寄ってきて、「メンチ? コロッケじゃない?」と確認した。
「なんで? コロッケ嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、メンチだと思ってコロッケだったら残念な気持ちになるじゃん!」
「ガキだな」
椅子に座った深波がフォークを握り締める。苦笑しながら宇佐木も箸を持った。
「さて、いただこうか」
「いただきまーす!」
「これ何? 早いもの順?」
「人数分あんだろ」
「人数分あるということは、必ずしも早い者勝ちであることを否定するものではないよね?」
「否定するものだよ」
金子も箸を伸ばしてメンチカツを手に入れる。「その大きいの僕の!」と言い出す熊野に、「オレが作るものに、大きいとか小さいとかいう不均等はない! なめるな!」と乾が怒る。
どこか困ったような、そのくせ嬉しそうな顔で笑っている宇佐木が見えた。
「早く食べないとなくなる、かも」
「元気だなー。美味いか?」
「うまいよ! 食べた方がいいよ」
真剣に金子はそう言う。実際、熊野なんかは冗談で言っているんだろうが、深波は本気で人のものをとりそうな顔をしている。
ようやくメンチカツに手を付けた宇佐木が、「うわっ……」と目を見開いた。
「美味い……!」
「遅いぞ、反応が」
「誰がいくつ食べるかの話をさっきしていたか?」
「していない。人数分ある」
「じゃんけんで決めようじゃないか」
「お前もかよ」
自分の分を食べ終えたらしい深波が「じゃんけんで決めるなんて! 熊野さんが可哀想だと思わないの? 今まで一度だってじゃんけんで勝てたことがない熊野さんが!」と言い出す。「じゃんけんでそんなに勝率が偏るわけがない。僕が今まで負け続けていたのは、今日この日のためだ」と熊野が腕まくりをした。
結果的に熊野が食べるはずだったメンチカツが、金子の皿に載っていた。なんだかよくわからないが得をした。
お腹いっぱいになってしばらくリビングでウトウトしていたが、みんなが部屋に戻るタイミングで金子も立ち上がった。歯磨きをしようと洗面所に行くと、ちょうど熊野が風呂に入るところだった。
「熊野さん……」
「よ、ねこちゃん。寝ぼけて歩いてると危ないぞ」
金子は瞬きをし、静かに口を開いた。
「殺し屋なの?」
「誰が? 僕?」
「うん」
「僕はね、テディベアだよ」
少し考えて、金子は「あのね、熊野さん」と物申す。
「テディベアって職業じゃないよ。どちらかというと在り方だよ」
「在り方?? 哲学だなオイ」
ふっと息を吐いた熊野が「深波になんか言われたの?」と尋ねた。金子は頷いて、「深波は……熊野さんが殺し屋で、深波の両親を殺したんだって」と言う。
熊野はどこか視線を金子から外しながら、何か考えている様子だった。それからまた金子を改めて見つめ、「僕はテディベアだから、そんなことしないよ」と答える。
「じゃあ、深波の言ってることが嘘なんだ」
「深波くんの言ってることは、嘘じゃない」
「そんなわけないよ。どっちかが嘘だよ」
「金子くん、生きていれば“どっちの言ってることも嘘じゃない”という場面は往々にしてある。今がその時だ」
「…………? ……。……わかった」
「わかった? すごいな君は。僕はもう自分で言ってて何がなんだか」
言いながら熊野は肩をすくめた。「まあ、そんなに気にすることじゃないよ。君の新しい飼い主は、あくまで一時的なものなんだからね」と目を細める。
「歯を磨いたら部屋に戻ってくれよ。君がいる限り僕は風呂に入れないんだから」
「なんで?」
「服を脱ぎたいので」
脱げばいいのに、と首をかしげながら金子は歯を磨く。洗面所を出る時、熊野が「おやすみ」と言ってくれたので金子も「おやすみ」と言ってその場を離れた。
自分の部屋で寝そべりながら、金子は天井を眺める。
結局、どういうことかはよくわからなかった。熊野はそうではないと言うが、深波の言うことは嘘じゃないとも言う。めちゃくちゃだ。あんなにめちゃくちゃだと、もうどうでもいいかという気になってくる。
熊野の言うとおりだ。金子が熊野のペットでいることはあくまで一時的なことで、少なくともこの一時的な約束事で金子はもう一週間も食事や寝床を得している。それでいいのではないか。お互いの事情なんて知る必要はないのかもしれない。