悪魔が完全に沈黙したことを確認し、ブランはふっと息を吐く。
返り血を手の甲で拭っていると「ねえ」と背後から声をかけられた。ブランはひどく疲れていたので、それに上手く反応できずゆっくり振り向いた。若い女が立っていて、「それ」と悪魔の亡骸を指さす。
「死んでるの?」
再度悪魔を見おろし、ブランは小さく頷いた。
疲れていた。その場に腰を下ろしてぼうっと休憩してから、次に何をすべきか考えたかった。
悪魔が現れたと通報を受けてこの島に直行したが、ブランが到着するころには甚大な被害を出していた。相手をした悪魔はそれほど強いわけじゃなかった。駐在の悪魔祓いが一人でもいればこうはならなかったものを。
女性はただじっとブランを見ている。できればどこかへ行ってほしかった。人と会話するような余力もない。
「あなた綺麗な目してるわね。悪魔祓いさん、出身はどこ?」
「……もう地図には載っていない村だ。聞いてもわからないと思うが」
ブランの顔を覗きこんでいた女性は顔を引っ込めて「そう」と何か考えるような沈黙を生んだ。それからブランの目の前に立ち、「ありがとう」と言う。
「私たちの島を守ってくれて、ありがとう」
瞬きをし、ブランは「仕事なんだ。君たちを守ることじゃなく、悪魔を殺すことが」と答えた。その返答に些か眉をひそめた女性が、ブランのことを頭から足先まで眺めまわす。それから肩をすくめ、「大変な仕事だわね」と言った。
「ねえ、あなた、夕飯はどう? シチューがたくさんあるわ。一人じゃ食べきれないくらい」
「いや……俺は、」
「本当にたくさんあるのよ。こんなに大きな鍋いっぱいに。捨てるわけにいかないし、食べていってよ」
勘弁してくれ、疲れているんだよ。そう言いたかったが、そんなことを言って波風立てることを考えるのもうんざりした。ブランは黙って手を引かれることにする。
家に上がる時、「ご飯にする? お風呂にする?」などと女性は笑って言った。何も答えないでいるブランを見て「選択肢ってないわね。今お風呂沸かすからそこ座ってて」と苦笑する。
汚れたジャケットを脱いで玄関に置き去りにし、ブランは座り込む。睡魔には抗えない。壁に背を預け、目を閉じた。
眠っていたのはほんの一瞬だと思うが、起きたときには女性がブランの顔を覗きこんでいた。「あ、起きた。よかった」と呟いて女性は立ち上がる。
「お風呂湧いてるから、入って。ごめんね、替えの服はうちのお父さんのだけど。よかったら」
ブランはのそのそと動き出した。
少しばかり仮眠をとったからか、女性の厚意に対する感謝の念が遅れて芽生え始める。礼を言おうかと思ったが、ブランが何か言う前に「バスルームは突き当り右の部屋よ。あ、ピンクのボトルは使わないでね、高いから」と女性は言ってどこかの部屋へ入っていってしまった。
この家は彼女しかいないのだろうか。女一人で住んでいる家にブランのような得体のしれない(悪魔祓いであることも証明したわけではない)男を上げるとは思えないが。
シャワーを浴びて体を洗ってから湯の張った浴槽に入る。ゆっくり入浴したのはいつぶりだろうか。ありがたい。考えれば考えるほど、先ほどまでの自分はどうかしていたなと思う。彼女にも随分冷たく接した。
風呂を出て、タオルで髪を拭きながら彼女が用意した服を着る。彼女の父のものだと言っていた。つまりここには、少なくとも彼女の家族が住んでいるはずだ。あるいは――――と考え、ブランは静かにため息をついた。
廊下に出て、灯りがついた部屋に吸い込まれるよう中を覗き込む。リビングらしい。ソファに座ったまま彼女が、ぼんやりと開け放した窓の外を眺めていた。ブランは少し迷ったが、潔く「お風呂ありがとう。助かったよ」と言いながら中に入る。
夏の終わりの虫の声が聞こえた。彼女が「……静かだわ。この辺の人たちはみんないなくなっちゃったのかしら。みんなちゃんと避難できているといいけど」と言うので、ブランは黙る。今回の件で救えなかったものは、あまりにも多い。
「世界が滅んだみたい。どうする? 知らないうちに世界が滅んでいたら」
「“どうする?”って……」
「私たち以外みんないなくなっちゃってたら。それでもあなた、悪魔を殺す?」
「…………。もしそうなったら、俺が生きている意味は一つもないな」
不意に彼女はくすくす笑って窓を閉めた。ブランはなぜ彼女が笑っているかわからず当惑する。
「あなたさっき、自分の仕事は守ることじゃなく殺すことだって言ったわ」
「ああ」
「でも世界が滅んで誰もいなくなったら、生きてる意味が一つもなくなるわけでしょ? それって矛盾しているわ。ならあなたの仕事はどうあれ《《あなた自身》》の存在意義って、“守ること”よね。殺すことじゃなくて」
ブランはぽかんとし、ただ彼女を見ていた。何か反論しようとしたが、彼女の言葉を覆すような言葉は出てこない。彼女はソファから立ち上がり「私、カエデって言うの。よろしくね」と言った。ブランは眉をひそめたまま「ブランだ」と名乗る。
「シチューあっためてあるから持ってくるわね。座ってて」と歩いて行ってしまった。
数分後、湯気が立ち上る皿を持って彼女は登場した。いい匂いがする。
「白いね」
「クリームシチューは初めて? 今ご飯も持ってきますからね」
皿を覗き込んだままブランは、牛乳かな? と首をかしげた。「牛乳入りのシチューとライス……」と少し難しい顔をする。
ライスも並んだところで、カエデは「いただきます」と手を合わせた。ブランもそれに倣って手を合わせてから、スプーンを手に取る。
腹が減っていたのだろう、抵抗はなくそれをすぐに口に運んだ。
「!! うまい……」
「そう? よかった。本当に死ぬほど余ってるからたくさん食べて」
彼女もスプーンを動かしながら「そういえば」と口を開く。
「さっきあなたの職場の人から、あなたの携帯に電話があったけど」
「なんだって?」
ハッとする。そういえば携帯電話はジャケットに入れたままだった。
彼女はなんでもないように「あなたはしばらく休みに入ると言っておいたわ」と言った。ブランは呆然として、「頼んでないが……?」と彼女を見る。
「だって、疲れているみたいだったから」
「だとしても勝手に何をしてくれているんだ」
「電話してきた人、すごく優しかったわよ。『へえ~~~あのブランがねぇ……』みたいな感じで」
「完全に誤解を与えているじゃないか。クソッ、電話をかけ直す」
悪戯が成功した少女のように笑ったカエデが「無駄よ。携帯は私が持っているから」とブランの携帯電話をひらひらと掲げた。「返してくれ」とブランはこめかみを押さえる。
「まあまあ。とにかくシチューを食べ終えてから考えたらどうなの。おかわりは?」
「……いただきます」
カエデは携帯電話を自分のポケットに突っ込んで、ブランの皿を持っていった。
さてどうしたものか、とブランは考える。カエデには感謝しているが、携帯電話は返してもらわなければならないし、今もどこかで悪魔被害が生まれているなら急行しなければならない。
ほんの数分遅れて間に合わない命がある。この島だってそうだ。ほんの数分。ほんの数分で、もっと――――
「さっきの話だけど、」
またあたたかいシチューを持ってきたカエデが、藪から棒に話し始める。「さっきの?」とブランは当惑した。
「もし知らないうちに世界が滅んでたら、って話」
「ああ、あれ」
まだ続いてたのか、とブランは空咳をする。そういう思考実験じみた話は苦手だ。
「あなたは大切な前提条件を一つ忘れているわよ」
「前提条件?」
「“私たち以外みんないなくなっちゃってたら”って言ったでしょ?」
「ああ、言っていたね」
「つまり、まだ私がいるわけよ」
テーブルに肘をつきながら彼女はブランを見て、「あなた以外に頼れるものがない私が一人、まだここに残っているわけ」と口角を上げる。
「ってことは『俺が生きている意味は一つもない』になるにはまだ早いでしょ? 私がいる限り、あなたは私を守るために力を尽くすべきよね」
「それは……そうだね。その通りだ」
「だから、結婚しましょう、私たち」
ブランも片肘つきながら、「仮定の話だよな」と首をかしげた。「仮定の話は終わったわ。というか、世界が滅んだらなんてつまらない話自体がもう終わっているわ」と彼女は言う。
「……君と交際していた記憶がないけど」
「じゃあ、交際しましょう」
何か言いだしたな、と辟易としたブランが「なぜ?」と尋ねる。彼女は平然と「“なぜ?”ってことないでしょう」と瞬きをした。
「私はあなたに『結婚しましょう』と提案したけれど、あなたはそれを『交際した覚えがない』という理由で却下した。だから私は『交際しましょう』と再提案した。それで? これを却下するのならその理由を述べるのはあなたの方だと思うけど。何か交際できない理由があるの?」
ブランは眉を顰める。
彼女と交際できない理由だって?
出会ったばかりだから……? なら、数日後、数か月後には交際を開始できるということか? ブランには今現在そのような関係の人物はいない。では、彼女と交際できない理由が何かあるのだろうか。
「……ない」
「なんですって?」
「別に、ない」
「ない? ないですって? それ本気で言ってるの?」
「なんで君が正気を疑っているんだ。疑いたいのは俺の方だ。俺は何か騙されてるのか?」
「信じられない。危なっかしい人だと思ったけど、ここまでとは思わなかったわ」
「君の本意でないならどこに進もうとしてるんだ? 俺は今何を経験しているんだ」
彼女はなぜか呆れた顔をして、「あなた知らない女に家に連れ込まれて、何が入ってるかもわからない料理を食べて、挙句の果て交際を迫られたら『交際できない理由は《《ない》》』ですって? 押しに弱いにもほどがあるわよ。そんなんでよく生きてこられたわね」とまくしたてた。ブランは彼女が何を言っているかわからず、黙ってちょっとのけぞる。
「いいわ……いいわ、しましょう、交際」
「どうして俺が言い出したみたいになっているんだ。大体俺は“交際できない理由はない”と言っただけで君と交際するとは言ってない。そもそも急になんだ。普通、この状況でそんな話にはならないぞ」
「そうでしょう? 普通そういう反応が最初に来ると思うんだけど」
彼女は椅子の背もたれによりかかって、静かに息を吐いた。
テーブルを挟んで、ブランとカエデは相手をじっと見る。今さらに、相手が一体何者なのか、その形を確かめるような沈黙があった。
また彼女が乗り出すようにテーブルに肘をつき、頬杖をつく。ブランのことをしげしげと見て、「シチューのおかわりは?」と尋ねた。ブランは迷ったが、「自分で持ってくる」と立ち上がりかける。
ねえ、と彼女が言った。
「その分じゃ、あなた遅かれ早かれ変なのに引っかかるでしょうね」
「余計なお世話だ」
「どうせ引っかかるんだから、私にしておきなさいね」
ブランが振り返ると、カエデは笑っていた。
「ちなみに私が作るビーフシチューもなかなかのものよ」と言うので、ブランはかなり心が揺らぎながら「とりあえず携帯は返してくれ」とだけ訴えた。