Marionetteは眠らない
「しばらく海には出ないの?」
「ああ、船員の長期休暇と船の修復作業も兼ねて、収穫祭が終わる頃まで停泊するつもりだ。いつまでも商会の代表が船に居続ける訳にもいかないからな」
季節はまだ春先だ。収穫祭まではざっと半年近くある。
「龍水商会としては他の船が動いているから問題はない」
「そう言われたら、僕は他の商船を見たこと無いかも」
船員たちにたっぷりの報酬を与え、暇を出す。次の出港が収穫祭後なので、晩夏くらいには一度フランソワの元に次の乗船契約を結びに来ることだろう。
ただ龍水が未だに船に乗るのは、現場の雰囲気を忘れないためだ。書類上では報告されない些末な出来事、小さな流行にもアンテナを張り巡らせるためだ。
当時は若く独り身だった船員たちも、今では所帯を持つものも多い。彼らの奥方からは揃って「亭主元気で留守がいい、しっかり稼がせてやってくれ」とのようなことを言われているものの、当人達だってたまには家族の元に帰りたくなるだろう。多分。揃いも揃って気が強い奥方達が旦那に向かって何を言うのかはわからないが。
代わりに元から別宅として購入していた屋敷に帰る。
寄港した際にしか帰らない家ではあるが、ハウスキーパーが仕事をしているからかホコリ一つ残ってはいなかった。
広々とした明るい室内は貴重なガラスが何枚も使われており、圧迫感がない。射し込んでくる陽の光は既にオレンジ色に染まっていた。
「ここが龍水の家?」
「そうだ。今日からは俺と貴様の、だがな」
キョロキョロと物珍しそうに室内を見ている羽京は龍水の言葉に何度か瞬きを繰り返すと、両手で赤く染まった頬を包んで隠した。
「龍水が仕事している間、この家を探検しててもいいかな」
「構わないぜ。だがこの時期は案外陽が沈むのが早いからな。敷地から出るのはやめておけ」
「わかった、今日は建物の中だけにしておくよ」
溜まりに溜まった龍水商会の書類。
一つずつ目を通して片付けていく。
室内が真っ暗になった頃、ノック音が聞こえた。
「龍水、夕飯は作ったけど食べる?」
「もうそんな時間か」
とろ火にかけられている大鍋からは湯気が立ち上っている。食欲を刺激する匂いに、すっかりと忘れていた空腹が呼び戻された。
大きめの具材がゴロゴロと入ったホワイトシチュー。
「貴様が作ったのか?」
「うん、龍水の口に合うといいんだけど」
フランソワ以外の味付けを初めて知った。
美味しい
「はっはー!愛する妻の手料理を味わうことが出来るとはな」
「いちいち龍水は大げさだよ……。おかわりはまだあるからたくさん食べてね」
羽京は大げさだと呆れているが、龍水にとっては本当に感動すべき事だ。生まれてからこの方、温かな家庭料理を食べたことはない。冷めきった料理と広いテーブル、そして聞こえてくる策謀が龍水にとってのありふれた食事風景だったからだ。
舌を火傷するほど温かい料理が出てくることも、ましてや料理人が嬉しそうに食事する様を眺めてくることもない。
龍水がおかわりを要求すると、羽京は嬉しそうにシチューをよそっていた。
「残りの書類を片付けてくる。もう少しかかるから、先に休んでいてくれ」
柔らかなベッドの中央にぽつんと所在無さげに座っている羽京は、何度もシーツの具合を確かめている。
「どうした、眠れないのか?」
龍水が声を掛けると羽京はびくりと肩を震わせていた。
愛する妻は長い船舶生活で疲れているだろう、と考えた龍水なりの気遣いだったのだが、どうやらずっと起きて部屋に帰ってくるのを待っていたようだった。
「………………龍水」
重苦しい雰囲気の中、羽京は気まずそうに口を開く。一度、二度と視線を彷徨わせた後、瞳を伏せて言葉を選んでいるように見えた。
「あの……だめだったらごめんね」
突然の謝罪の言葉に龍水は、瞬きをしながらジッと羽京を見つめてしまった。何を言い出すのか、と龍水が尋ねるよりも先に、胡乱な気配を察知したのか羽京は慌ててギュッと龍水を引き止めるように服の裾を掴んでいた。
「僕は全然平気だよ!口とか手でなら何回かしたことあるから!でも……あの人は性欲薄かったみたいだし…あんまり上手くできないかもしれなくて……」
もにょもにょとまとまりのない言葉達から察するに、羽京は夜の営みについて話をしているらしい。
龍水の調べでは羽京の元夫は頻繁に売春宿に出入りしていた形跡がある。とは言えそこまで伝えるつもりは更々無い。わざわざ元夫の不貞など、愛する妻に伝える必要もないからだ。
渋い顔で黙り込んだ龍水の表情を勘違いしたのか、羽京は大きな瞳を潤ませながら縋るように身を乗り出してきた。
龍水が買い揃えた高級な石鹸の匂いが羽京の体温と混じり合い、甘い香りとなって伝わってくる。耳が良い妻にバレないようにと龍水は小さく喉を鳴らしたつもりだったが、それは飢えた獣の唸り声のように室内に響き渡った。
「だから、その……こういうのは初めてだけど、できる限り頑張るよ」
愛する妻から放たれた言葉の内容が上手く咀嚼できない。
普段なら恐ろしいほどによく回っているはずの思考能力が全て停止していた。呆けたように見つめていると、羽京は次第にしおしおと身体を小さく縮こまらせていく。
「うう……どうせ僕は年増でバツイチのくせに処女で面倒くさい人間だし……」
とうとう腕の中から逃れようと抵抗を始めたが、勿論それを許す龍水ではない。
「……はじめて」
「…………そうだけど」
「初めてと言ったのか」
「に、二回も言わないでよ」
「この俺が、貴様の、初めての男になると……?」
口に出してみると、ぞわりと薄暗い独占欲が胸の奥に渦巻いているのを感じる。細く長く息を吐いて、高ぶった感情を無理矢理抑え込んだ。
龍水自身は、今日この瞬間まで己が羽京の後夫である事をなんら気にしたことはなかった。後だろうが先だろうが関係ないし、自分が羽京にとっての『最後の男』であればいいからだ。
しかし、まさか『初めての男』というポジションがまだ残されているとは思ってもいなかった。大誤算だった。
龍水が暴れまわる独占欲を抑えつけようと片手で顔を覆っていると、羽京は何を思ったのか「ごめんね、こんな未亡人で」とさらに爆弾発言を投下してくる。
放っておけば龍水の目の前でストリップショーでも始めそうなくらいに思い詰めている羽京を宥めるように、シーツを強く握り締めている手の甲を撫ぜる。ネグリジェの隙間から晒されている白い首筋を極力意識の外に飛ばしながら、龍水は翡翠色の瞳を見つめた。
「貴様は充分魅力的だ。だが、今はまだその時ではない」
無理をするな、と言葉を重ねると、羽京はようやく龍水が言わんとしていた事を理解したようだった。ようやく解放されたシーツは握り締められていたからシワだらけになってしまっている。それでも羽京は手遊びのように、枕カバーの糊をぐにぐにと解すように触っていた。
「あ、はは……でもさ、こういうのはきちんとしないと……その……」
「また『夫』に愛想を尽かされると思ったのだろう、違うか?」
「………………うん」
ようやく本心を白状した妻の腰に手を回すと、警戒するように小さく跳ねた。普段の羽京ではありえないような、あからさまな拒絶反応だ。それは羽京自身もコントロール出来ないものだったのか、小さく頭を左右に振りながら「違う…大丈夫、龍水なら大丈夫だから…」と呟いていた。
「勘違いしてもらっては困るから先に言うが、貴様が赦すのであればその身体に隅々まで触れたいと常々思っている」
「だったら!だったら、大丈夫だよ、僕……」
それ以上言葉を続けようとしている柔らかな唇を人差し指で触れて抑える。それ以上自分を安売りするような発言を許容するわけにはいかなかった。
「隅々まで触れたいと思っているから、だ」
そう念押しをしたものの、羽京は納得していないのか、疑るような視線を龍水へと向けた。でも、と指先の下で唇が動く。
思った以上に羽京の心に根深く広がってしまっている『良き妻』としての認識に、龍水は内心で歯噛みした。本当に、前夫は羽京に碌でもないものばかり遺していったようだ。
「万が一、万が一だぞ? 貴様に恐怖心や後悔が残っていたら、拒絶されたとしたら、無理をさせてしまったら、恐怖心を植え付けてしまったら。俺は愛した妻よりも一時の我欲を優先させた事を、一生悔やんで生きるだろう」
「世界一の欲しがりなのに?」
「世界一の欲しがりだからな。頼むからこういう時くらい格好つけさせてくれ。これは夫としての矜持の問題だ」
真剣な顔つきで情けない発言をした夫の事が面白かったのだろう。顔を背けて笑っている羽京は肩の力が抜けていた。ひとしきり笑ったあと、ようやくベッドに潜り込む。安心しきった蕩けるような瞳で龍水を真っ直ぐに見つめると、小さな欠伸を零した。
「じゃあ僕は寝るけど、龍水も早く寝ようね」
「ああ、わかった。善処しよう」
「広いベッドなのに一人で寝るのは寂しいからさ」
「…………フゥン、やはり書類は明日に回して俺も寝るか」
「だめ、今日中って自分で言ってたでしょ」
ピシャリと
ぐぬぬ
後ろ髪を引かれながらも龍水は書斎へと戻る事にした。
扉が閉まる直前、室内からは小さく「おやすみなさい」という声が聞こえてきた。
羽京を一人にするまいと、急ぎの回答が必要な書類を片付けた所で切り上げる。普段ならば夜が明けても書類と格闘しているところだが、今回は途中で切り上げる事にした。
耳が良い妻を起こさぬように忍び足で廊下を渡る。重い扉をそっと開けると、室内の明かりは落とされていた。
部屋の中央にある柔らかなベッドに身を預けた羽京は、龍水が戻ってきたことも気が付かないほどに深く眠っているようだ。すうすうと小さな寝息が羽京の穏やかな眠りを示していた。毛布に包まり安心しきっている羽京の寝顔は、元より幼く見える顔立ちが故に庇護欲が沸き上がる。
龍水が隣に潜り込んで毛布を分け合うと、羽京は「んん、ぅ……」と僅かにむずがるような声を出したが、すぐに寝返りを打って規則正しい寝息へと戻っていた。
いつまでも羽京の寝顔を眺めていたいものだが、龍水には翌日も今回の航海に尽くしてくれた船員達への賃金計算もしなければならないのだ。そういうわけには行かないだろう。
それでも愛する妻との新たな生活が始まるという事実に、内心浮かれずには居られない。
先程言いそびれた「おやすみなさい」の返事代わりに、触れるだけのキスを交わす。これは人一倍耳が良い妻を起こさないための配慮であり、決して感極まった龍水が考えなしに行動してしまったわけではない。違うったら違う。絶対に違う。
それでもここには居ないはずの船員たちから「うちの船長は相変わらずだな」と笑われたような気がした。
□
愛する妻を甘やかす日々。あのお節介焼きな船員たちにバレたらどれだけからかわれる事か。
羽京の『良い妻であるべき』という意識を少しずつ取り払っていく。これが羽京なりの護身方法だったのだろう。社会からも家庭からも孤立していく『継母』が、選び取った手段。
長年に渡って搾取されてきた献身を肯定し、羽京への感謝と愛情と共に受け入れる。
ただそれだけだ。
ただそれだけなのに、羽京は驚くほどそれ以上を望まない。
「ねえ龍水。欲しいものがあるんだけど……用意してくれる?」
意を決したように羽京はポツリと小さく呟く。もちろんそれを聞き流す龍水ではない。
いつだって龍水は愛する妻のために贈り物をする事が生き甲斐だったが、ここ最近の羽京はあまり欲しい物を口にしてくれないからだ。遠慮しているわけではないと羽京は言うが、少し寂しくも感じていたところだった。
そんな妻からの久方ぶりの要求に、龍水は胸が高鳴る。
「もちろんだ。何がいい」
「舞踏会に着ていく服が欲しい。…………君の隣に立っても恥ずかしくないくらいの物が」
「いいぞ、世界一の仕立て屋に用意させよう。しかし……貴様も行くつもりなのか?」
羽京が王城の広間にトラウマを持っている事は知っている。前回の夜会は羽京が気乗りしていなかったので、船に残していたのだ。
「うーん……正直あまり行きたくはない、けど」
一度口を閉じた羽京は、ゆっくりと言葉を選ぶように続きを話し始めた。
「君と初めて出逢った時の約束を、まだ果たしてなかったのを思い出したから」
──そのみすぼらしい格好がまともになったら考えてあげるよ。
それは初めて羽京をダンスに誘い、言葉を交わした時に告げられたものだ。結局その時の龍水は楽団の演奏に間に合わず、その口約束が果たされることはなかった。
それを望んだ龍水自身ですら、記憶の片隅に追いやっていた約束。だが羽京はずっとそれを叶えられなかったことが引っかかっていたらしい。今までは船に乗っていたからと理由をつけていたものの、二人きりの時間が出来たことでもう一度向き合う気になったという。誠実な妻の発言に、龍水は思わず破顔していた。
「俺と踊ってくれるのか?」
「一曲だけね。僕、こういうの詳しくないから」
「構わん。それだけでも充分だ」
すぐさま筆を執り、馴染みの店へと手紙を書いた。
シンプルで洗練されたシルエット。マリンブルーの生地に、龍水商会の紋様が金糸で刺繍されている。差し色として散りばめられているレモンイエローは、さながら水面に反射した光のようだった。
昔の羽京を知るものならば、このドレスが羽京の趣味ではないことくらいすぐに分かるだろう。
今までの羽京ははたっぷりの布が使われた、二昔ほど前に流行ったもの身にまとっていた。本来はそれすらも節約のために趣味ではないものを着回していたとのことだったが、今の羽京は近衛兵として鍛え上げた靭やかな肉体を全面に押し出すドレスを着ている。王都で流行しつつある流線型のデザイン。フランソワの手によって施された化粧は、武装のようだった今までとは異なり、穏やかな内面がにじみ出ているかのようだ。
身に纏っていた家族を守るための武装を一つずつ剥がしていった先に残されていたのは、何よりも清廉で誰よりも魅力的な人だった。
そんな羽京がにこにこと上機嫌に微笑みながら、新たな夫である龍水にエスコートされている。
これは牽制だ。
現に羽京の美しさに目を奪われた男達は、話しかけようと自信たっぷりに近づいては、隣に立つ龍水に付けられた上級貴族の紋章に恐れ慄いている。
龍水自身ですら大人げないとは思っているが、同時に「いまさらになって羽京の魅力に気が付いたのか」と呆れずにはいられなかった。
しかし羽京は特に気にしていないのか、久々の夜会を懐かしむように目を細めていた。
「ここの楽団って、他のところと違って音が少しやわらかいんだ。一音一音が丁寧に混ざり合ってるのがとても心地よくって……龍水もそう思わない?」
「フゥン、俺は音楽に関してはさっぱりだから、そこまでの違いは分からないな。だがこの楽団の演奏は好きだ」
「ふふ、僕も。また聞けて嬉しいな」
音楽に関して明るくないのは事実だが、羽京がこの楽団の演奏を好んでいる事は知っている。
「舞踏会で出てくる料理って全部美味しいんだ。僕が特にオススメしてるのはシュトーレンだよ、知ってた? 龍水も食べる?」
「知らなかった。俺も食べてみるか」
「じゃあ龍水の分も貰ってくるね」
これも嘘だ。羽京がシュトーレンを好んでいる事など、羽京に話しかけるよりも遥か以前から知っている。それでもニコニコと機嫌よく二人分を切り分けて貰っている妻の姿を見ていると、そんな些細な事はどうでもよく思えてきた。
「あれは…、羽京少しだけ付き合ってくれ」
「いいよ。どうしたの?」
「貴様に紹介したい男が居てな……SAI!」
壁際で手持ち無沙汰に突っ立っている男に声を掛けると、彼は一瞬飛び上がり辺りを見回した。
「SAI?」
「俺の兄だ。普段はこういった場に姿を見せることは滅多にないが、ちょうどいい機会だ」
歩み寄ってくる二人を見つけたのか、SAIは龍水と羽京を交互に見やると一瞬だけ苦笑いを浮かべた。しかしすぐに居住まいを正すと、片手を上げて「久しぶりだね」と声をかけてきた。そのまま視線は隣に立つ羽京へと向けられる。
「君が例のお嫁さん?噂は聞いてるよっ」
国外に留学していた兄の耳にも、羽京の噂は届いていたらしい。SAIは興味と感心を混ぜ込んだような表情のまま「弟をよろしくお願いします」と頭を下げていた。相変わらず腰が低い男だ。慌てた羽京がぎこちなくカーテシーを返している。
チラリと視界の端に、特徴的な髪型をしている科学者の姿が目に入った。
王子を通して、科学者とは時折連絡を取り合う仲だ。
あの全てを見透かすような目をした連れ子の姿はない。この国に巣食っていた反逆者を全て炙り出さない限りは、身元が割れている灰かぶりに魔の手が及ぶ可能性もある。しかし例えこの国に忠誠を誓ったとしても、かつて父の元でスパイの片棒を担いでいたという事実は変わらないのだから、王家が公に保護するわけにも行かない。
そこで身元引受人として白羽の矢が立ったのが、王子の親友でもある科学者だった。
喉元にある黒いチョーカーのようなものを手で押さえている科学者の唇が僅かに動いた。
『幸せそうだ』
遠目から眺めている龍水の読唇術では、そこまでしか読み取れない。それでもその短い言葉の先には、あの連れ子が居るような気がした。
当たり前だろう、と龍水は内心で胸を張っていた。
なぜなら。
「俺自身が世界一の幸せ者なのだからな」
「なあに、どうしたの急に。へんなの」
美しく微笑んでいる妻の柔らかな頬に唇を寄せる。
「飲み物を持ってこよう」
羽京ひとりにする
七海家と真っ向から向き合う羽京
「旦那様は真っ直ぐでとても優しい人です。彼を愚弄することは許しません」
凛とした妻の声が聞こえてくる。
七海家当主である龍水の叔父と羽京がいた。
思わず龍水は物陰に隠れて二人の会話に耳を澄ませる。
「先ほどの発言を撤回してください」
キッと目元を釣り上げている羽京は、一歩たりとも退こうとはしない。ただただその咎めるような視線を龍水の叔父に向けるだけだ。
羽京の経歴を七海家は完全に把握している。
かつての夫がスパイであった事も、彼と彼の連れ子に愛情を利用されていたことも。
「大切な人を信じると決めたんだ」
凛とした羽京の声は驚くほどによく響いた。物陰に隠れている龍水にも聞こえたのだから、真正面で向き合っている叔父の耳にも届いただろう。
普段は小言と説教と嫌味ばかりの叔父ですら、きっぱりと言いきった羽京に面食らっているのか、それ以上龍水について言及していない。
「誰が何と言おうと、僕は龍水を愛しています」
羽京が明確に龍水に対しての思いの丈を口にしたことはほとんどない。いつだって穏やかに愛情を受け止めてはくれるものの、こんなに強い口調で宣言されたのは初めてだった。
「貴方達がどれだけ反対したとしても今更聞き入れるつもりはない。僕より美しい人が名乗りをあげたとしても、僕より聡明な人がふさわしいのだと言われたとしても──七海龍水の嫁は僕一人だけでいい。世界中の誰にも譲るつもりはない!」
荒げた声は冷たい夜風に流される。静まり返った空間の中で、慣れない怒声を発した羽京が肩で呼吸している音がやけに響いて聞こえた。
ようやく龍水は彼らの会話の全容を把握した。
きっと羽京は、龍水の叔父から──七海家の人間から──龍水と別れるようにと迫られたのだろう。その時に七海家が同族である龍水の事をどのように評していたのかまでは分からない。だがそれは間違いなく羽京にとっては許しがたい言葉だったはずだ。
「…………龍水には勿体ない嫁だ」
それは遠回しな許可だったのだろう。低い声で告げた叔父は、それ以上のやりとりは時間の無駄だとばかりに靴音を鳴らしてその場を立ち去っていく。
珍しく威圧的ではない足音は、龍水の叔父の動揺と感嘆を現しているかのようだった。
「──他の誰でもない俺自身が一番よく知っているぜ」
それは誰に告げるでもない言葉。誰の耳にも届かないであろう小さな声。
それは間違いなく龍水の心の奥底に存在していた感情を引き出すものだった。
だからこそ。
前夫との記憶を全て塗り替える程に。
羽京にとっての幸福な記憶に、自分の姿が在るように。
そう願って龍水は行動してきた。果たしてこの行動が羽京にとっての幸福であったかは分からない。常に意識の片隅には『自分は羽京にとって厄介な夫ではないのか』という不安はつきまとっていた。
未亡人を金と権力で手籠めにした上級貴族。
そんな二人の関係が嬉々とした目で見られている事に、聡い羽京が気が付かないはずがない。それでも羽京が龍水にとっての良き妻であるべきと行動していた事を知っている。『良き継母』としての武装が『良き貴族の妻』としてのものに変わっただけではないのか。
龍水が出せなかった問いかけの答えを、羽京は既に持っていたらしい。
本当に──自分には勿体ない、世界で一番愛する嫁だ。
「あれ、龍水どうしたの?そんな所でうずくまって…お腹痛い?」
物陰に隠れていた龍水を見つけた羽京は驚いた声をあげた。先程七海家に楯突いていたとは思えないほど、普段通りの穏やかな表情をしている。
「いや…少し躓いただけだ」
誤魔化しながら、差し伸べられている右手を握りしめる。立ち上がる代わりに手を引くと、羽京の身体は一瞬だけ倒れまいと抵抗したもののすぐにすっぽりと龍水の腕の中へと収まった。羽京は豪奢なドレスが床に擦れるのを気にしているのか、もぞもぞと体勢を変えようとしている。しかし龍水が離さない事を悟ったのか、すぐに諦めて不思議そうに小首を傾げた。
向き合った妻の手を取り、唇を寄せる。翡翠色の大きな瞳は、敵意もなく警戒心もなくただ真っ直ぐに龍水だけを見つめていた。その瞬間の美しい色の輝きを目に焼き付ける。
きっとこの星降る夜の事を、龍水は生涯忘れることはないだろう。
「それよりも」
無意識に零れ落ちた言葉。それを口にするのは二回目だ。あの時と一言一句違わぬ言葉は、羽京への変わらぬ愛を表しているかのようだった。
二人の関係性が変わろうと、身に纏っている衣服が変わろうと、初めて抱いた望みが変わることはない。
「俺と一曲踊ってはくれないか」
カット
Latest / 13:58
カットモードOFF
06:13
ななし@36004b
ためし
06:28
かみかみうめ
なるほど
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
ためし
初公開日: 2025年08月13日
最終更新日: 2025年08月13日
ブックマーク
スキ!
コメント
ためし