泥のような足を引き摺って、駅の構内へ入る。人々はブランを見て、ハッとした様子で言葉を失っていた。「どなたかタオルをくださいませんか、シオンに会うのに血を拭きたいんです。あの子が怖がるだろうから」と頼む。聞こえているだろうか。ブランには自分の声がよく聞こえない。
 ブランの目の前にいた人たちが、何人か意を決したように服を脱いだ。それでブランの顔や首周りを拭う。
「……水で濡らしてくる」と女性が言って、走っていく。衣服を汚させるつもりではなかったのだが、ブランは黙ってされるがままになっていた。濡れた服で頬を撫でられると、ひんやりして気持ちがいい。
「ありがとう」とブランは言った。目が霞んでいて人々の顔がよく見えなかったけれど、何人かは泣いているような気がした。
「大丈夫ですか?」と尋ねてみる。泣いていた人は驚いたようにブランを見て、ぐっと歯を食いしばった。「大丈夫……大丈夫です、ありがとう。……ごめんなさい……」と何とか絞り出すように答える。
 誰かがブランの肩を叩いた。振り向くと、男性が静かにジャケットを脱いでいる。なんだろう、と思っていると男性は「替えましょう」とブランのジャケットを脱がそうとした。ブランは少し顔を赤くしながら、「助かります、ありがとう」と微笑む。血を吸ったジャケットは重かったので、交換してもらったジャケットがひどく軽く感じた。それに傷を隠すこともできる。
 もうすぐ、紫苑と会える。
 帰ってきたよ、悪魔を倒したよ、と言えば紫苑はきっと喜んでくれる。
「あんた……」と聞いたことのある声が聞こえた。町長が駆け寄ってきて、ブランの手を取る。怒っているのか悲しんでいるのかよくわからなくて、ブランは曖昧に宥めるような表情をして「悪魔はもう大丈夫ですよ、町長さん。先ほどは失礼しました。俺も急いでいて」と言い訳じみたことを言ってしまった。
「俺の同僚に増援を頼んだから、じきに悪魔祓いが来るでしょう。そうしたら他に悪魔が紛れていないかよく確認して、悪魔祓いの手を借りながら町を復興させるんです。これからシオンが住む島だから……どうか、よろしくお願いします」
 言われなくとも、と町長は言う。「それくらいしかできないのだから、当然だろう」と悔しそうな顔をした。
 するとどこからか、「ブラン……? いるの?」と声がする。パッと明るい顔をしたブランは「シオン」と呼びかけた。
 人混みを避けながら、少女が顔を出す。
「ブラン!」
「お待たせ、ちびちゃん」
「あくまは? かった?」
「もちろん。余裕です」
 紫苑がブランに抱きつこうとした時、それを見ていた何人かが「あっ」と声を漏らした。それで紫苑は立ち止まり、ブランをまじまじと見て――――それからちょっと目を伏せブランの手をぎゅっと握る。
 ブランは少しだけ寂しく思いながらも紫苑の頭を撫でて「さあ、行こうか」と呟いた。
「……病院には、行かないのか」と町長が言う。
 ブランは瞬きをし、「行きたいところがある。電車は止まってしまっているだろうか」と尋ねた。
 町長は沈痛な表情をしたが、やがて頷いて「誰か車を出してやってくれ。俺はいつも運転手に任せきりでダメだ。誰かいないか、誰か」と呼びかける。
 すると青年が手を上げた。ブランは目を細め、「車が汚れるよ。君の大事な車だろ」と言う。
 青年は肩を震わせて、「どうしてそんなことを言うんだ」と吐き捨てるように言い俯いた。
「俺たちはあなたを誤解し、弁解の言葉も聞かず、あなたを傷つけてから死地に向かわせた。それで、あなたは……もう……。なのに俺たちはあなたに返せるものを一つも持たない。礼なんて言わないでくれ、惨めになるだけだ」
 最初ブランはぽかんとして、それから思わず笑ってしまう。「そうか、そうだな……俺も、」と口を開いた。
「長い間、自分を責めて生きてきた。でも、その何もかもに意味があると言ってくれた人がいたんだ。いつか笑い話になる日が来るよ。生きていれば、きっと」
 青年が顔を上げ、「そうじゃない……そうじゃないんだ。俺たちは決して、笑えるようになっちゃいけないんだ」と言う。ブランは驚いて、「どうして?」と尋ねる。それから少し考えるそぶりをして、「そんなに思いつめることないだろう。俺は悪魔祓いで、仕事をしただけだ。最後に自分ができることを精一杯できて、俺は今、幸せだ」とちょっと目を閉じた。
「いつかあなた方が笑うのに必要なら、俺のことは忘れてほしい」
 車の後部座席に揺られている。街並みはよく見えない。ひどく眠い。
 なぜだか、あの男のことを考えていた。ブランの家に火をつけて妻子を死に追いやった隣人のことを。ブランが死へと追い込んだあの男のことを。
 ブランはあの男を許さないし、救いを与えてやることも決してできなかっただろう。
 だが、あの男にだって救われる権利があっただろうかと考える。
 生きていればほんの一瞬でも、ほんの些細なものでも、救いは訪れる。ブランはあの時、『俺もこの男も、救われなくていい』と考えていた。にもかかわらずブランは救いを得た。
 ブランが五年半死ぬのを送らせて得られた救いは、あの男も得るべきはずの救いだっただろうか。
 わからない。それを自分が許せたかどうかも、わからない。
 どうしてそんなことを今、考えたのだろう。
 ただ、あの男の前に立った俺は明らかに加害性を持っていて、実際には手を出さなかったというだけで『どうやってこの男を追い詰めてやるか』と考えた。それもその男が憎かったからじゃなく、妻子を失った腹いせに、八つ当たりに、その男を傷つけることを考えた。
 だから、あの男は俺と同じだったから、《《俺たちは》》救われてもよい存在だったのかを考える。
 否、“救われてもよい存在か”なんて誰が決められるだろうか。生とは時に、暴力的なほどわけもなく救いをもたらす。
 生きてさえいれば。
『あなたはいったい、何に救われたの?』
 隣に妻が座っている。わからないんだ、とブランは答える。
 わからないけれど、たぶん、思い出したのだと思う。
『何を?』
 生きるってことは、つらくて苦しくて痛くて取り返しがつかなくて気持ちが悪くて、
 それでも本気になるに値する何かがあると、みんなが教えてくれた。
 泣いて笑って、悩んで苦しんで、それでも『生きていてよかった』と笑える強さを持つ人たちがいて、だから俺は思い出したんだ。この世界は、きっとずっと美しかった。
 だから俺の答えは、そうだ。
 もう少し生きていたかったな。次の朝焼けを目に焼き付けるまで。あの降り注ぐような生まれたての朝日が昇るのを、もう一度みんなで見たかったな。
「ブラン?」
 紫苑の声が聞こえる。起きないと、と思いながらも瞼が開かない。まどろむ時間が心地よすぎて、もう少し眠っていたいと体が訴えている。
「おい、しっかりしろ」と肩を揺すられた。
「ここに来たかったんだろ? お嬢ちゃんに見せたかったんだろ? 最後に……あなた自身のその願いだけは叶えてくれよ。頼むよ」
 億劫ながらもブランは目を開けて、「ありがとう」と青年の肩を叩く。青年はほっとした様子ながらも「肩を貸そうか……?」と気遣わしげにブランを見た。ブランは無言で首を横に振り、車を降りる。
 歩いていく。ブランの指を握った紫苑もついて来た。
 花が咲いている。小ぶりな花だ。太陽を思わせるような明るい黄色の花芯の周りを、うす紫の花弁が囲んでいる。そんな小さな花が咲き誇る丘だった。辺りはすっかり暗いが、月の光に照らされて花の色がよく見える。
 懐かしさに、自然と笑みがこぼれた。
 この近くに、カエデの生家がある。
 ブランとカエデが出会ったのは、以前フローストに悪魔が迷い込んだ時だった。あの頃はなんと駐在の悪魔祓いもおらず、島は大きな被害を出した。ブランは要請を受けて向かった悪魔祓いで、悪魔を仕留めたのはこの丘の近くだった。
 すべてが終わった時にこの近くに住んでいたカエデがやってきて、ブランに「夕飯はどう? シチューがたくさんあるわ。一人じゃ食べきれないくらい」と誘ってきたのだった。そして彼女の家にお邪魔して、しばらく経ってからだった。そのシチューが家族で食べるはずだったものだということを知ったのは。
 どうしてあの日俺に声をかけたのか、訊いたことがある。彼女はあっけらかんと「あなた、怒ってたから怖かった」と答えた。怖かったなら普通は声をかけないと思うが。
「でも、私たちのために怒ってるんだろうなと思ったから。それで、私たちのために怒ってる人がそのまま戻ってこれなくなっちゃったら後味悪いでしょ? だから、こっちに戻してあげようと思ったの。シチューにはそういう力があるから。みんなで食べようと思って作ったものなら尚更よ」
 長い長い花畑を歩きながら「まあ私も正気じゃなかったのよね。あんなにたくさんのシチュー、一人じゃ食べきれないし。捨てるわけにもいかないでしょ。気が狂いそうな時にあなたの姿を見た。ちょうどいいと思って声をかけたの。あの、思いつめた顔の怒りんぼにシチューを食べさせよう! って」と彼女は続けた。
 俺はたぶん、顔をしかめたと思う。「俺は別に怒っていないよ、いつも」と言って。
 そうして俺と彼女はしばらく彼女の家で暮らしていた。フローストの片隅で、誰にも言わずひっそりと。それまで働き詰めだったブランにはのんびりした暮らしが新鮮で、少し戸惑ったのを覚えている。
 楽しかったなぁ。たとえばそれが傍から見れば、何かを失った者同士の傷の舐め合いにしか過ぎなかったとしても。ここでの暮らしは本当に楽しかった。ブランはほとんど仕事もせずに彼女と過ごしていた。
 十分な休養を取って復帰し、そしてハルジーストでの一件があった。ブランはカエデと別れるつもりだったが、カエデは「誰もいない家で一人で暮らしていくつもりはないわ」とブランについて来た。その気持ちはブランも痛いほどよくわかった。思い出がありすぎる生家に一人残されるのはつらいものがある。
 ブランの横を歩いている少女が、「きれいだね!」とはしゃいでいた。
 少し首をかしげて「《《お嬢ちゃん》》」とブランは呼びかける。
「この辺りに住んでいるのかい? こんな夜更けに、いけないんだぁ」
 少女は歩みを止め、「ブラン?」と怪訝そうにこちらを見た。
 ブランは意に介さず、歩き続ける。近くの花は揺れたが、強く真っ直ぐ立ち続けていた。
「俺にも娘がいてね、」とブランは口を開く。「そうだ、お嬢ちゃんと同じくらいの年頃で……。会ったら遊んでやってね」と続けた。
 少女が、躊躇いながらも早足で追いついてきて、「ブラン? シオンだよ?」と不安そうに言う。ブランは瞬きを一つして、「君の名前? いい名前だ」と微笑んだ。
 いつだったか。
 この丘の花を摘んで彼女に持っていった。可愛らしくありながら強さのあるこの花を。
『あら……この花、なんだか知っているの?』
『え、いや。可愛らしい花だとは思っていたけど』
『女に花を贈る時は、花の名前くらい調べてくるものよ』
 ブランはため息まじりに、笑う。
「シオン……。紫苑、この花と同じ名前だ」
 不意に力が抜ける。その場に倒れこんで、もう指一本も動かせない。
 ひどく疲れているような気がする。ひどく眠たいような気がする。それがどうしてなのか、何も思い出せない。
「シオン、花言葉は……」
 あのね、花言葉は。
 彼女が嬉しそうに言う。『“君を忘れない”。この花の、花言葉』と、言いながら彼女は花を一輪ブランに押し付けてきた。
『何一つ忘れないでよね。たとえ私がいなくなっても。ずーっと、全部お守りにして持っててよね』
 それなのに、
 俺は今、何もかもを忘れていく。
 漂白されてゆく記憶と自我が、意識を閉ざそうとしている。
「ないているの、ブラン」
 花の名を持つ少女が言う。絶対に忘れてはいけない子がそこにいるのに、俺はその子がどんなに俺に寄り添ってくれたかすら忘れようとしているのだ。「シオン」と呼びかけた。紫苑はブランの額にキスをした。だいじょうぶだよ、とブランの髪を撫でる。
「あなたがぜんぶわすれてしまっても、あなたがじぶんのことをわすれてしまっても、シオンがあなたをぜんぶ、おぼえてるから」
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hibana
なんかお腹すいたなぁ~15時だからおやつの時間かも♡と思ったら普通に16時半だった
18:47
hibana
最近の堅あげポテトは少なすぎるから夕飯前に開けても食べきれるはず
186:37
hibana
夕飯食べてくる~
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向き
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今日こそ初稿終わるか??
初公開日: 2025年08月10日
最終更新日: 2025年08月10日
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今日も今日とてこの時間までサボっていました。初稿、終わってくれ。