やがてエレベーターの扉が開き、二人は事務所に入る。キツネは正面にある自分のデスクに座り、ルビはデスクの前にある椅子に座った。ルビが初めてこの妄想解体センターを訪れたときと同じ状態だ。
「さて――まずは状況を整理しようか。お前はあるとき、自分の背中に見覚えのない傷があることに気づいた。お前はそれを何らかのバロックであると考え、ここを訪れた」
デスクの正面に座ったルビは、緊張の面持ちで頷く。
「ここにはこれまで取り扱ってきた無数のバロックのデータが存在する。さらにはバロック屋同士のの情報交換に使っている裏ネットにもバロックに関するデータや各々のバロックに関する記録が蓄積されている。だから、私はいつも通り、お前のバロックに関するであろう【傷跡】というキーワードでデータベースを検索した」
「でも……そこではあたしのバロックは見つからなかった」
「ああ。そこで私は、やや考えにくいことではあるがお前のバロックはまったく新規のものだと判断した。お前が初めて事務所を訪れたときに話した通り、【傷跡】に関するバロックに大きく関わる要素は【聖痕】だ。自身が特別なもの、選ばれたものであることを証明するための印としてのバロック。だが、この【聖痕】というキーワードを除外した【傷跡のバロック】の検索結果はゼロだったからな」
「……」
喋る時はうるさいくらい喋るルビだが、今は黙ってキツネの話に耳を傾けている。その視線はだんだんと虹彩が宙に浮き始めているのを確認して、キツネは話を続けた。
「結果、私はお前のバロックの中核となる要素は逆説的に【ないこと】であると考えた。すなわち、お前のバロックは【空白のバロック】であるとな」
「でも……それは違った」
「ああ、だから私は再度、お前のバロックについて考え直すことにした。そこに、私の相棒であるスズメから有力な情報が得られた。政府筋のデータベース内に、【異形】と呼ばれる謎の怪物の画像データが見つかったという、な」
「それで……あたしたちはその怪物が出るっていうゼロ地区に向かった……」
「ああ。そこで私たちは実際に【異形】と遭遇することになった」
ルビは悪寒に襲われたように、自分の体を抱きしめた。顔色が青白くなっていくのがわかる。しかしキツネはそのまま話を続けた。このまま、蜘蛛の糸をたどるようにルビの本当のバロックを引き出す。
「確かに、あたしたちはゼロ地区で異形に出会った。けど……」
「お前のバロックに関する情報は見つからなかった、と?」
「……違うの?」
怪訝な顔をするルビに、キツネは背を向けた。
そこにあるのは、滲んだ血が乾いたばかりの生々しいふた筋の傷跡。
「同じだろ、お前の傷跡と。お前にその傷を着けたのは、あの異形だ。お前はあのゼロ地区にいたんだよ」
「え……!? でも、あたしはそんな記憶……」
ルビがそう言いかけたところで、キツネのズボンのポケットからバイブ音。スマホを取り出すと、キツネは通話アイコンをタップする。
「私だ。……ああ、やはり見つかったか。さすがだな」
「誰から?」
「スズメさ。ヤツが優れたハッカーだという話はしたな? 私たちがゼロ地区を回っているあいだ、スズメにはゼロ地区で起こった事件を洗ってもらっていた。そして、見つかったんだよ」
「見つかったって、なにが……」
いぶかるルビに、キツネは液晶画面を示す。そこには確かに「渡辺ルビ」の名前があった。
「ゼロ地区で起こった事故……あるいは殺人事件。そこからの怪我人の搬送記録だ。もちろん公表されているものじゃなく、裏の記録だ。お前はここで異形に襲われていたんだよ」
「あたしが……あそこに……?」
「バロックには記憶障害を伴うものも珍しくはない。お前はここから搬送されたあと、記憶を失っていたんだよ。さらにお前の搬送記録は表には出ていない。……これは私の推測だが、こういうケースはお前以外にもある可能性が高い。謎の怪物【異形】による殺人・傷害事件が起こった地区をあゼロ地区として隔離することで、その情報を隠蔽する。死人は口を利かないし、お前のように重症を負って生き残ったものが事件のことを吹聴しようが、まあ信じるヤツはいないだろうな」
ルビの唇の間から、言葉にならない吐息が漏れた。ルビはそのまま椅子の上に糸が切れた人形のようにへたり込む。顔を覆った両手の指の隙間から見える瞳は、やはり虹彩が宙に浮いていた。
「特定しよう。【お前のその傷跡はバロックじゃない。】実際に、異形に襲われてできた傷なんだ」
「あ……ああ……そうだ……そうだった……」
ルビの声は震えていた。虹彩の浮いた瞳から、涙が流れている。――まるで、開いた傷から、血が流れるように。
「そうだよ……あそこで、みんなが襲われた。最初、なにが起こったのかわからなかった。メグがいきなり後ろに倒れて、天井と壁に血が吹き上がったの。上からなにかが降ってきて、ヨウコが押しつぶされて、アイの頭がなくなってて、扉に向かって逃げようとしたけど、重くて開かなくて、それで、急に背中が熱くなって……」
すでにルビは、ルビの意識はここにはない。今ルビがいるのは、あの地下クラブだ。そしてまた、今ルビがいるのは今ではない。いまルビがいるのは、あの地下クラブで異形に襲われた、まさにその時にいるのだ。
そして、キツネもまたその光景をぼんやりと思い浮かべていた。あの地下クラブで見た、天井や壁、そして床にべったりとついていた染みを思い出す。
あれは……血の跡だったのだ。そこだけではない。あの地下クラブのあらゆる場所にこびりついていたのは、濃厚な死の痕跡だった。
そしてまた、キツネの目の前で嗚咽を漏らしている少女の背中にも、同じ死の痕跡が刻みつけられていた。
どのくらいそうしていただろうか。両手で顔を覆っていたルビは、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。これ、確かにあたしのバロックだよ」
そして、キツネの背中と自分の背中を見比べて、ルビは笑った。怪物に友人を殺され、自分もまた襲われたことを思い出した少女の表情とは思えない――いや、だからこそかもしれない、晴れやかな笑顔だった。
「おそろいだね」
「……呑気なやつだな」
キツネが呆れたようにそう言うと、ルビはやけに幼い笑顔で笑ってみせた。そんなルビに、キツネもまた笑みを返す。営業用の笑みだった。
「……ところで、渡辺ルビさん。料金の方をお支払いいただきたいのですが」