ルビをかばったキツネの背中に熱い痛みが走る。しかし、予想していた死は――果たして訪れなかった。異形の大鎌は、キツネのシャツと背中の薄皮を裂くにとどまった。異形は今度こそ全身が溶け崩れ、茶色い泡になってパイプから流れ出る水とともに排水口に流れていく。
 ルビは緊張の糸が切れたのか、なにも言わずに青ざめた顔でその場にへたり込んだ。キツネも排水口に流れていく茶色い泡を呆然と見送っている。
「キツネ……なんなの、あれ……」
「私も実物は初めて見た。あれが異形とやらだろうな。そして、お前のバロックの正体もわかったぞ」
「え?」
 目を見開くルビに、キツネは背中を向ける。
「キツネ、怪我してる! 血が……」
「よく見てみろ。この傷、お前と同じなんだよ」
 そう言われて初めて、ルビは自分の背中の傷から血が滲んでいるのに気付いた。
「うわ、なにこれ! いつの間に……?」
「一度塞がった傷が、心因性のショックで開くことはしばしばあることだ。そして――」
 「重度のバロックならなおさらだ」という言葉は飲み込んで、キツネは自分の背中を指し示した。そこにあるのは、薄く斬られたふた筋の傷跡。
「同じだろ。お前にその傷を着けたのは、あの異形だ。お前はここにいたんだよ」
「え……!? でも、わたしはそんな記憶……」
 ルビがそう言いかけたところで、キツネのズボンのポケットからバイブ音。スマホを取り出すと、キツネは通話アイコンをタップする。
「私だ。……ああ、やはり見つかったか。さすがだな」
「誰から?」
「スズメさ。ヤツが優れたハッカーだという話はしたな? 私たちがゼロ地区を回っているあいだ、スズメにはゼロ地区で起こった事件を洗ってもらっていた。そして、見つかったんだよ」
「見つかったって、なにが……」
 いぶかるルビに、キツネは液晶画面を示す。そこには確かに「渡辺ルビ」の名前があった。
「ゼロ地区で起こった事故……あるいは殺人事件。そこからの怪我人の搬送記録だ。もちろん公表されているものじゃなく、裏の記録だ。お前はここで異形に襲われていたんだよ」
「わたしが……ここに……?」
「バロックには、記憶障害を伴うものも珍しくはない。お前はここから搬送されたあと、記憶を失っていたんだよ。いや、むしろ……」
「むしろ……?」
「それこそが、お前のバロックなんだよ、ルビ」
 キツネがそう言った瞬間、ルビの虹彩がふっと宙に浮いた。バロックの目だった。
 キツネの目を、ルビのバロックの目がじっと見つめている。知っている目だった。自身のバロックを与えられたときの目だ。
「特定しよう。お前のバロックは【喪失のバロック】だ。お前はここで異形に襲われた記憶を失っていたんだよ」
 ルビの唇の間から、言葉にならない吐息が漏れた。ルビはそのままその場に糸が切れた人形のようにへたり込む。顔を覆った両手の指の隙間から見える瞳は、やはり虹彩が宙に浮いている。
「あ……ああ……そうだ……そうだった……」
 ふるえる指先が、壁の一角を指した。溶けた塗料がどろりと得体のしれない模様を描いている。――いや、違った。
「そこだよ……そこで、みんなが襲われた。最初、なにが起こったのかわからなかった。メグがいきなり後ろに倒れて、天井と壁に血が吹き上がったの。上からなにかが降ってきて、ヨウコが押しつぶされて、アイの頭がなくなってて、扉に向かって逃げようとしたけど、重くて開かなくて、それで、急に背中が熱くなって……」
 血の跡だった。そこだけではない。この地下クラブのあらゆる場所にこびりついているのは、濃厚な死の痕跡だった。
 そしてまた、キツネの目の前で嗚咽を漏らしている少女の背中にも、同じ死の痕跡が刻みつけられていた。
 どのくらいそうしていただろうか。両手で顔を覆っていたルビは、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。これ、わたしのバロックだよ」
 地下クラブを出たときには、すでに深夜になっていた。人気のないゼロ地区は静まり返っており、ついさっきまであんな怪物と死闘を演じていたことが夢に思えてくる。
「背中は大丈夫なのか?」
「ああ、うん。まだ少し痛むけど……っていうか、キツネこそ背中、大丈夫なの?」
「一張羅が台無しだ。最近はバロック屋の摘発もい多くて客足も遠のいてるってのに、また出費が増える」
 そう言うキツネの背中と自分の背中を見比べて、ルビは笑った。怪物に友人を殺され、自分もまた襲われたことを思い出した少女の表情とは思えない――いや、だからこそかもしれない、晴れやかな笑顔だった。
「おそろいだね」
「……呑気なやつだな」
 キツネが呆れたようにそう言うと、ルビはやけに幼い笑顔で笑ってみせた。そんなルビに、キツネもまた笑みを返す。営業用の笑みだった。
「……ところで、渡辺ルビさん。料金の方をお支払いいただきたいのですが」
「は?」
「だから、こいつをここで働かせることになった」
 妄想解体センター事務所。呆れ顔のスズメに、キツネはもう一度同じことを繰り返した。キツネの隣には、不満顔のルビがいる。
「なんでそんなガキをここで働かせなくちゃならないのか、わかるように説明してくれ」
「コイツが金を持ってないからだ」
「ちょっと! さっきからガキだのコイツだのって失礼ね!」
 きゃんきゃん吠えているルビを無視して、キツネは続ける。
「コイツ、料金のことをすっかり忘れてたらしくてな。料金分だけここで働いてもらう」
「アホか。こんなガキになにができるんだ」
「ちょっとスズメ! ほんっとに失礼ね!」
「お前に呼び捨てされる筋合いはないぞ」
「それに、わたしだって役に立つんだから。ね、キツネ」
「まあ……コイツの言うことにも一理あるんだ。コイツの交友関係は妙に広くてな。特に、バロック・マーダーの当事者世代である中高生のあいだの事件や噂にも詳しい。情報源としては役に立たないこともない」
「なんで素直に役に立つって言わないのよ」
「はぁ……まあ、わかった。好きにしろ」
「お前もうめんどくさくなってるだろ」
「というわけで、改めましてここで働かせてもらうことになった、生涯プー……の予定だった渡辺ルビです」
 キツネとスズメは、ふたりそろって仲良くため息。ルビだけはやたら元気だ。
「ほらキツネ、もう次の仕事入ってるんでしょ! さっさと行くよ。じゃあスズメ、あとよろしく!」
 そう言い残して、ルビはキツネを引っ張りながらエレベーターに乗って行ってしまった。
 ひとり事務所内に残されたスズメは、またひとつため息をついた。
 冷めかけたブラックコーヒーを飲みながら、片手で器用にスマホをタップ。通話する。
「……鈴木です。ええ、予定通り金沢キツネと接触しました。……はい。渡辺ルビの記憶処理は問題ありません。移植された記憶で、ゼロ地区での殺人事件に巻き込まれたと認識しています。……ええ、そうです。はい、ではこれから試練の第2段階に入ります。はい、金沢キツネの能力と適正に関しては今後も観察を続けます」
 スマホの液晶画面のアイコンは、右上に棒が追加された奇妙な十字架。
「はい、了解しました。……全ては我らが実在の神、創造維持神のために」
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