指先が固いものに当たってノアは思わず摘まみ上げた。親指と人差し指で軽く持ち上がる程度のサイズ。そのまま掌に握りこめるプラスチックの容器を目の前にかざせば、先端が滑らかな筒状の入れ物だと分かる。この時点でノアには正体が分かっていた。キャップを開くと鮮やかな色が目に飛び込んでくる。
「なんで?」
パステルカラーで彩られた外側にはラメが散りばめられ、容器の底を回すとクルクルと紅色の層がせり上がってくる。偶然ノアが手にしたプラスチックの容器は、この部屋の持ち主とは相容れぬものであった。素直にノアは疑問を抱く。ーーどうしてセイの部屋にリップなんて転がっているんだ?
そんな問いは不意にドアが開いたことで中断する。慌ててノアは見つけた化粧品をポケットにしまい込んだ。
「おかえり、早かったんだな」
「うん」
お盆にグラスとポッドに入った麦茶を乗せてセイが戻ってきた。よくよく見るとグラスの中には麦茶が満たされており丸い氷がカランと音を立てて泳いでいる。
「重たくなかった?」
「いや別に。それよりノートと教科書、少しずらしてくれ。コースターを置く場所が欲しい」
グラスが二つ座卓(もっと令和っぽいオシャレな呼び方探す)に並び、ノアとは異なる学生服が角を挟んで座る。セイの身を包むのはお受験で名高い中高一貫の男子校で、一方のノアといえば今だに昭和の不良が存続していると別の意味で名高い学校のものだ。異なる学校に通う二人はそれぞれの生活環境も違い、普通に生きていれば交わらないような境遇であった。
「で、君が分からないって言ってた問題だけど」
セイにとっては離席していた時間が休憩に相当するのだろう。戻って早々に赤点だらけのノアの小テストと広げた教科書を見比べていく。持ってきた麦茶に口を付ける暇もなく、中座した時間が戻っていく。
今日は勉強を教えてもらうためにノアはセイの家を訪問した。生活環境の異なる友人を家に招くことにセイの両親が難色を示すかと思われたが、既に前例があるらしく特に問題にはならなかったようだ。セイの家を訪れるのも何度目かになり、親しい友人として名前が憶えられてしまったらしい。そう伝え聞いて身が引き締まる思いになった。
セイの家族にとって自分が無害な存在であると信用してもらったのだ。それを裏切りはしないだろうか。自分の行動を問いかける良心に苛まれつつ、ノアはポケットに入れっぱなしだったリップを取り出す。だらしなく畳に転がると、セイの部屋の絨毯とは違った感触がまぎれもなく実家なのだと告げている。
「持って帰ってきちゃったよ……」
信用が棄損される事態をノア自らが起こしてしまった。セイの部屋で偶然見つけた化粧品のリップ。無断で拝借してしまったものを眺め、ノアはセイとは結び付きようがない代物に頭の中を疑問符でいっぱいにする。
「お兄ちゃん邪魔」
リーンに蹴飛ばされながらノアは畳の床を転がって移動する。図らずも盗んでしまったリップは手にしたまま。それに目ざとくリーンが気づくのも、あっという間であった。
「あー! それ知ってる!! 中学のとき流行ってた」
「これ化粧品だぞ」
「大人向けじゃないもん」
ノアの中では化粧は大人の女性がするものと思っていたから、リーンの口から出た言葉に知らない世界の片鱗を垣間見る。
「え……中学生で化粧ってするのか。どうしよう。今まで全く買ってあげられなかったけど」
「別にいいよ。必要なかったし」
「そっか。……って、じゃあ何で知ってるんだよ」
「持たなくても興味はあるの。今日のお兄ちゃん面倒くさいなあ」
ついつい過保護モードが入って色々と聞き出そうとするノアを、煩わしそうにリーンは手で払う仕草をする。
「ところでお兄ちゃん何でソレ持ってるの? どうしたの?? 誰かに貰ったとか……だったら私にチョーダイ」
「ダメだって。落とし物だし」
本当はセイの部屋から無断で持ち出したのだ。紛れもなく窃盗であり、早急に元に戻さなければならない。その事実にズキズキとノアの胸は痛んだ。
「落とし物拾ったのに預けなかったんだ。珍しいね」
「これ拾ったの知り合いの部屋だからな」
「え、外じゃないの? ヤバイじゃん。早く返さないと」
結局リーンに嘘を吐く事も出来ず、まっとうな指摘をされることになった。妹の口からヤバイと言われると更に罪の意識が重くなる。ノアは「分かってる」とうめいた。
「お兄ちゃんが女の人の部屋に行く甲斐性はないか。じゃあ男の人のところだね。それなら彼女さんの持ち物だね」
「ぐっ」
まさしくノアが化粧品を持ち帰ってしまった原因。心の中に引っかかっていた疑念そのものを無邪気にリーンが打ち抜いてくる。
名探偵宜しくリーンは化粧品の持ち主についての推理を展開して、自分と同年代か少し上かもしれないと見知らぬ彼女像の年齢まで見当をつけてくる。彼女の話ではティーン向けの化粧品シリーズであり今も続いているのだとか。言われてみれば大人の女性が使うには明るすぎる色合いだとノアも納得した。デザインが今とは少し違うので、昔のバージョンだろうと割り出してしまった。
「で、誰の部屋から持ってきちゃったの」
「言わない」
「えー。知りたーい―。私の知ってる人? ねえねえ」
「明日返しに行くから、この話は終わり。おしまい」
これ以上リーンに突っつかれて全部知られるわけにはいかない。なにせセイと付き合っていることも秘密にしているのだ。強引にでも話を切り上げて、名探偵が幅を利かせる前に事件を終わらせなければいけない。
図らずも自力で調べる前にリーンから情報を得たので、ノアはじっくりとセイの部屋に転がっていた化粧品について考察できる。果たして持ち主は誰なのか、一番考えたくない可能性を避けるべくノアは頭の中に候補を思い浮かべては消していく。
まずはセイの母親だ。妙齢の女性が10代の子供向け化粧品を使うことはない。うっかりセイの部屋に母親の化粧品が転がっていたという可能性は消える。
次の候補はセイ自身である。ノアの知らないセイの一面。化粧男子の可能性について振り返る。結論は「んなワケないか」で即終了した。そのほかの可能性はサッパリ見当たらない。すべてはセイが「恋愛と言われても僕にはよくわからないなあ」なんて言葉を常々口にしていたからだ。
そうして振出しに戻る。この化粧品の持ち主は一体誰だ?