イデアさんと、キスをした。
それは付き合い始めてから二ヶ月ほど経った昨夜のことで、ずっと発売を待っていたボードゲームをしようと誘われ、イデアさんの部屋を訪れた、夜十時頃のこと。ルールブックとボードを広げ、それを読み込み、既に始まっている盤外戦術めいた駆け引きの会話を楽しみながら、それじゃあゲームを始めようかと、スタート位置に駒をセットしたとき。指先が触れあって、だからどうというわけではなかったのに、自然と、視線が交わって。まるで時間が止まったみたいに目が離せなくなって、部屋には痛いくらいの静寂が流れていた。ほんの少しだけ触れていた指を、どちらともなく絡ませて、いつの間にか、距離が近付いて。気恥ずかしさに耐えられなくなってほんの少しだけ長い瞬きをしたつもりでいただけだったのに、唇に、やわらかいものが触れた。そこからじん、と痺れが広がって、ぞくぞくするのに、離れがたくなる。絡ませた指先はきつく絡んだまま、手のひらをあわせて、きゅうと握りしめて。触れていた唇が離れるまでの時間が、ほんの一瞬にも、一時間にも、数日にも思えるような、おかしな気分だった。離れてしまったのが名残惜しかったのに、開いた瞼の向こう側でじっとこちらを見つめている琥珀色に、どうしようもなく羞恥心がこみ上げてきて、もう視線なんて合わせられなくなってしまって。指先だけは離れたくなくて、僕たちはそれから三十分くらい、手を繋いでいることしかできないままで、ベッドメイクもされていないイデアさんのベッドの上で、じっと座っていたのだった。
ファーストキスをしてしまったのだ、と気付いたのは、早朝の誰もいない寮内を歩いているときで、誰もが寝静まる寮内で、誰にも顔を見られぬよう俯き加減のまま帽子で顔を隠すようにして、寮長室に逃げ込んだ。はあっ、と大きく息を吐いて、ふと顔を上げたらドレッサーには真っ赤になった自分の顔が映っていたから、もっと顔が熱くなった。
告白だって僕からで、お部屋には誘ってくれるけれど好きだなんて言葉で言われたことも一度くらいしかない、奥手なイデアさんと、まさかこんなに早く、キスをするだなんて思ってもいなかった。たかが粘膜接触くらいで何が変わると言うんだ、と思う自分とは裏腹に、寮でも、教室でも、座学でも実技でも、ほんのちょっとしたきっかけで昨夜のキスを思い出してしまって、顔には出さぬよう、細く息を吐いて気持ちを落ち着かせた。あの人の気持ちは疑っていなくても、行動に移してくれるだなんて思ってもみなかった彼とのキスは、アズールの内心に随分と大きな衝撃を与えてくれたものらしい。ポーカーフェイスは得意だから、きっと誰もが、アズールが昨夜ファーストキスを済ませただなんて思いもしないだろう。けれど、昨日、確かにあの人のあの部屋で、アズールは奥手な恋人と、キスをしたのだ。それは浮足立つような気分を連れてきて、今ならなんだって上手く行く気がしたし、魔法薬学の個人課題は満点だったし、座学で挙手した回答はトレインから褒められた。なんだか世界が明るく鮮やかになった気さえする。そんなの、当然、気のせいなんだろうけれど。そう思いながらも、アズールは上がりそうになる口角を何食わぬ顔で噛み殺して過ごしていた。恋というものは、そしてファーストキスというものも、考えていたより随分と、気分が良いものであるらしい。それはアズールが陸に上がって手に入れた、気に入りの宝物のひとつになった。
「──昨日からの引き継ぎは以上です。アズール、何か連絡事項はございますか」
「いいえ」
「承知いたしました。それでは最後に全体連絡です。昨日、我らが寮長アズールが、ようやく愛する恋人とファーストキスを済ませられたようですので、本日はおそらく色惚けで使い物になりません。問題が起こった場合には各自持ち場のリーダーに判断を仰ぎ、状況に応じて僕にご連絡を。アズールはVIPルームで書類仕事をさせますので」
「は」
「マジでキスまでどんだけかかってんの? ホタルイカ先輩……。そんなんだからアズール、色ボケのデレデレの顔抑えらんねーんじゃん。付き合ったらガッとやっちゃえばいーのにね」
「フロイド、他人の恋路に口を出すものではありませんよ。あのイデアさんとアズールなんですから、ちょっとやそっとで進展するわけがないでしょう? 二ヶ月でキスまで進んだのが奇跡みたいなものですよ」
「まーそりゃそーだけどさ。てかお前ら早く散れよ。解散解散、仕事しろや」
「お、……おい待てお前たち、」
「どうされました? 色ボケアズール。顔がニヤついて戻っていませんよ」
「まさかアズール、ポーカーフェイス貫けてる!とか思ってるわけじゃないよねェ? 言っとくけどオレらだけじゃなくて皆にバレバレだかんね。ウミヘビくんなんか『おいフロイド、あいつどうにかしろ。脳内お花畑オーラがこっちにまで漂ってきて鬱陶しいんだよ』ってオレに苦情言ってきたからね。ウケる」
「な、っなん、」
「今日のアズールはお顔が煩いので、さっさとVIPルームに篭っていてくださいね。経理の書類を置いておきましたから全て処理をお願いいたします」
「キス思い出して赤面すんなら個室で好きなだけど〜ぞ〜。じゃあね」
アズールは声にならない叫びを上げ、どうにも抑えきれない真っ赤に染まった顔のまま、VIPルームに籠城した。羞恥と昨夜のファーストキスの記憶に身悶えていたので、経理の書類は一向に処理が進まず、営業終了後に様子を見に来たジェイドに「あのアズールが色ボケでここまでポンコツになるとは思ってもみませんでしたねえ」と盛大な嫌味を言われたのだった。
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2025/07/06
初公開日: 2025年07月06日
最終更新日: 2025年07月06日
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