初夏とはいえ、朝の気温は十五度を下回る。玄関の外に出てみると、微かに息が白くなるほどだ。急激な温度差に、ウニは体じゅうの毛穴が収縮するのを感じ取った。しかし、冬の寒さとはどこか違うという。スーッとしていて、ハッとする。厳寒の気候を持つ島で生まれ育った二人組が語る説明はずいぶんと感覚に頼ったものだった。ウニは理解しようと試みたものの、やはり実感は想像力の外側にあって、届きそうで届かない。
「こんな……朝から…どこに」
「いやいやいや、もう日が昇ってますよウニさん」
ウニの体はこの健康で平穏な生活に順応しきれていなかった。別の体に魂を詰め込まれてしまったかのようでもあった。ウニはシャチに引きずられるようにして歩きながら、二重どころか三重にもなった瞼を擦る。不寝番ばかりしているウニにしてみれば、朝の光を浴びながら活動を開始することは異日常なのだ。朝は性に合わない。好ましいだとか、疎ましいだとか、そういうことではないのだと思う。ただ、性に合わない。それがウニの自己認知だった。
「早起きはなんちゃらって、言うじゃん」
「なんちゃら」
「そう、なんちゃら」
うつらうつらとしているウニの返事はシャチの言葉を繰り返すだけで、中身はない。そんな生返事に気を悪くするどころか、シャチは似たような調子で合わせてくれた。字と字の間を伸ばしてゆっくり発音するシャチの話し方は幼気な感じを与えるが、ウニにはかえって大人らしいように思えた。
「一日が最高に始まれば、その日は最高の一日になる…かなって」
シャチは鼻の頭をかきながら「これ、おれの持論ね」と言った。そこに説服的な含意はまるでない。しかし、ウニは妙に惹きつけられた。思春期の名残りらしき雀斑が浮いた頬は照れているようにも見えるし、一本一本にたくましさがある赤毛は自分の言い分に十分な条理があることを信じているかのようにもも見える。このように、シャチはいくつもの感情を引き纏い、何かしら人に訴えかけるところがある。ウニが知りたいと感じるのは、この不思議な雰囲気がどのようにして生まれるのかということだった。ウニはシャチの容貌を凝視するが、答えは出てこない。おそらく、外面的なものではないのだろう。
「ウニとは真逆の考え方かもだけど、今日ぐらいは付き合ってくれよ」
ウニは皆が寝静まった夜の方が楽に呼吸ができた。その時間がなければ、どうしても一日を満足して終えるこができないのだ。しかし、シャチは違うと言う。朝を積極的に迎える術をを教えてくれると言う。朝に顔も洗わないような人間に対して、だ。ウニの分かろうとする想像力はぶつぶつと弾け飛んでしまっている。
「あっ、キャプテーン!ちょうどいいところにウニがいた!」
はて、自分は布団にしっかりと包まって寝ていなかっただろうか。シャチとの間に大幅な認識の違いがありそうだ。体の上に跨りながら揺さぶる熱烈な起こし方を思い出し、ウニは腹部をさすった。ところが、ウニに相反するように、シャチの表情はころりと変わっていて、愛嬌を振り撒きながら駆け出して行ってしまう。
「おれはハクガンを捕まえた」
「うん、捕まえられてきた」
小屋から幾分か歩いたところにある、ムイストの森を案内する道標。その前では、ローとハクガンが朝の木漏れ日を浴びながら待っていた。シャチが得意満面でウニを紹介すると、ローもハクガンの肩に腕を回すなり引き寄せて見せつける。その時のハクガンといえば、小鳥のように背中を丸めながら頭の後ろを掻き、仮面の下からは喜びが照り出している。
「ウニはシャチに叩き起こされたんだ」
「ああ」
「何するだろうね」
ハクガンはウニの隣にちょこちょこと移動すると、小首を傾げた。ウニと同様、ハクガンも朝方から外に連れ出された理由を知らないようだ。ただ、ハクガンの口ぶりには強い興味と前向きな印象があった。それはウニが持ち得ない、ゆとりある生活を送っている健康な声だ。
「何って、そりゃあ」
「サイクリングに決まってるだろ」
シャチとローは顔を見合わせた後、皮膚の裏側に隠していた楽しみの表情を引っ張り出してきたかのように笑った。にたにたと意地の悪い笑顔か、無邪気なあどけない笑顔か。おそらく、どちらもだ。目鼻立ちの彫りを深くしながらも一時の子どものように輝いている。
「サイクリングだって、サイクリング」
ハクガンはウニの服を軽く引き、踵を限界まで持ち上げながら見上げる。ハクガンの表情は明るかった。いや、単に明るいのではない。実際には見えないのだが、軽い興奮に目の縁を赤らめていることだけは伝わる。
「ウニ、自転車に乗ったことある?」
「少し」
「おれも久しぶりだけど、ちゃんと乗れるかな」
「補助輪はないから勘弁しろよ」
「ムッ、それほどじゃないよ」
「四台しかレンタルできなかったけど…どうだ!カッコイイだろ!」
「自転車もレンタルできるのか」
「こういうところは概してレンタルさせてくれるところが多いな」
「おれの故郷と気候も地形も近いからもしや…って思ったら案の定」
「自転車で大自然の中を駆け抜ける気持ちよさを味わってもらいたくってさ」
「ほら、乗った乗った!」
「色は早い者勝ちだな」
「わーっ、どうしよどうしよ!」
「準備はヨシっと…さっ!出発といこうぜ!」
「んーっ、朝の森も雰囲気があっていいね」
「森の匂いも強い気がするし」
「そうだな、森は朝にこそ散策するべきだ」
「なんか洗われてるって感じがするんだよな」
「洗われてる?」
「こう…スカッとするじゃん」
「論理的に説明するなら、森の匂いの正体はフィトンチッドだ」
「フィトンチッドを吸い込むことで香りとして認識してるのか」
「ぬぬぅ…それだとおれがピンっとこない」
「森の匂いだなんて曖昧なんだし、その時に感じた感触を大切にしなきゃだろ」
「それもそうだな」
「おおー、ネズミの耳も大きくなっちゃったよ」
「ネズミの耳?ええっ、どこどこ?」
「スワロー島じゃ白樺の新芽をネズミの耳って言うんだ」
「自然や環境を動物で表現するの、面白い」
「リスのベリーとか、犬のパイプとか、探せば色々あるよ」
「こらこら、気になるかもだけど道幅が狭くなるぜ」
「おわっ!」
「くく…言わんこっちゃない」
「こんな道を自転車で通ろうなんて思わないもん」
「こんな道、だからこそだよ」
「ほら、森を抜けるぞ」
「わ、わぁ…!」
「こんな大絶景そうそうないぜ!」
「草原がずっとずーっと向こうまで続いてる!」
「うっひょー!」
「最高ーっ!」
「風が気持ちいいーね!」
「ああ、涼しいな」
「空も近いし、このまま飛べちゃいそう!」
「思っていたよりも標高が高いんだな」
「海中から上がってきた我々の獲得標高、千メートルを超えるかもな」
「そうそうできる経験じゃないよ」
「見て、フィヨルドの上の方はまだ雪が残ってるんだね」
「完全に解けるまであとちょっとって感じだな」
「不思議、五月って聞くと雪のイメージはもうないのに」
「冬島じゃ、半年以上の時を経てようやく雪が解ける」
「ええ!そんなんじゃ、ゲンナリしちゃうよ!」
「まあな、気が滅入るさ…おれも最初はそう思ってた」
「とにかく我慢をしながら春を待つしかない」
「待って、待って、この景色だ」
「ちょうどいい、耳を澄まして聞いてみろ」
「なになに?」
「いいこと教えてやる」
「なんだろう、水が排水管をちょろちょろ流れる音がする」
「雨が降り続ける音にも聞こえる」
「これは雪解け水が流れてくる音だ」
「へえ〜!ちゃんと聞こえるものなんだね!」
「意識しなきゃ、聞こえないさ」
「春を待ち望んでるからこそ、冬島の住民は敏感になってるんだろうな」
「この音を聞くとさ、もうすぐで夏がやって来るんだって信じられるんだ」
「じっとしてらんないって、まるで魔法にでもかかったみたいに」
「よし、あの丘の頂上まで競争と行こうぜ」
「ええっ、キャプテン⁉」
「最下位だった奴は明日の薪割りをみっちりやってもらおう」
「そう来ると思ってたぜ!よーし、スタートについて…ドンッ!」
「ウニー!着いて来てるかー!」
「うん」
「なんだよ、結構速いじゃん」
「そうかな」
「楽しそうで良かったよ」
「シャチが楽しそうだから」
「だから、知りたくなった」
「へへっ、だけど競争に勝つのはおれだからな」
「うおー!ハクガンだけでも抜かすー!」
「抜かされてやるもんかー!」
「ゴールぅぅぅ!」
「ふっ、おれが一着だったな」
「なんで毎回キャプテンには敵わないんだよぉ!」
「は、はぁっ…すごい」
「すごいな」
「うん、うん…すごいね」
「別世界だ」
「息を吸って吐いてみろ」
「深呼吸?」
「ああ、肺に空気を届けるイメージでな」
「スーッとしていて、ハッとする」
「たぶん、なんとなく、分かった気がする…かも」
「それでいいんだよ、ほんのちょっと体のどこかで覚えててくれれば」
「おれは朝型にはなれないと思う…だけど、十回に一回ぐらいなら」
「あはは!十回に一回か!」
「くく…これでも多い方なんじゃないか」
「でもさ、ワクワクしてるだろ」