「大丈夫だよ、終」
終一の机のそばに置かれていた小さな机におぼんを置いて、終一の傍に寄る。しゃがみこんで、下から青みがかった瞳を見上げた。涙で長い睫毛がぬれて、その色を濃くしている。
(なにしにきたの、もなしか……相当だな)
いつものやり取りをすっ飛ばして、終一の揺れる声が続く。
「おれ、六年も、なにやってんだろ」
森追っかけて、絵描いてたんだろ。隣にいる俺に見向きもしないで。
なんて本音は飲み込んで、意図して低めた柔らかな声をかける。
「忘れちゃった? 飯食いながら、思い出話でもする? 俺、終の六年、結構知ってる自信あるよ」
例えば、中等部での最後の体育祭の時、はしゃいじゃって夕方具合悪くなったこととか。高一のとき、数学の最初の小テストでクラスで一番だったこととか。去年の体力測定のとき、長座体前屈で足つってたこととか。昼休みもずっと、スケッチブックを手放さなかったこととか。
「わすれたわけじゃない。覚えてる、どうしよう」
「うん」
「おれ、ずっと、絵描いてたはずなのに、ちゃんとやってたはずなのに、まだ、なんにもない」
両手で顔を覆うから、終一の声はくぐもって聞こえづらかった。指の隙間から透明な雫がいくつも落ちる。それを止められる言葉を、唯希は知らない。知らないことが、歯がゆくて苦しかった。全身が、張り裂けるように痛い。
「そっか、しんどいな、終」
そんなことないよ、と言いかけて飲み込む。どれだけ、終一の人生を肯定したくて投げた言葉でも、否定は、終一を傷つける。
(なんにもないわけねえのに)
学内コンテストは、中等部から高等部まで、学年も所属も関係なく、希望者全員が出場できる仕組みだ。森はもちろん、終一も、中等部の一年の時から出場している。森の方は初出場からずっと、玉座に君臨し続けているけれど、中等部のころに終一を表彰式で見かけたことはなかった。森に並んで表彰台に上がるようになったのは、高等部にあがってからだ。
ステージを見上げていたひとが、ステージにあがる。
普通はそれを、頑張ったから掴めた成果ととる。
(でも、終にとっては『まだ、なんにもない』なんだよな)
美術科に入れたことも、森の隣に並べるようになったことも、外から森のライバルとして注目されるようになったことも、全部、終一の頑張りと成長が生んだ結果なのに。
(森に勝つまで、きっと、こいつにとっては、なにを手に入れても『なんにもない』ってことになる)
なんて傲慢で、向上心に満ちた、愛おしい生き方だろう。
「おれ、けっきょく、一度も、純太に勝てないのかもしれない」
「そっか」
「なんにもないまま……もう、今回しかないのに」
「ん、そうだな。もう三年だもんな」
次の夏、この学園に唯希たちの居場所はない。別に、森と終一の関係が卒業を機にぱったりと途切れるようなことはないだろうけれど、同じ土俵の上で、明確化されたルールの中で競う機会は、外にはきっとないだろう。
「おれずっと、間違ってたのかな、六年も、ずっと。間違った方法で、いつか報われるって信じ切って、結局、なんにもないまま」
「そうかな」
「どうしよう、唯希、俺、どうしたらいい?」
終一の問いかけに唯希は笑みをにじませた声で答える。
「んー、俺のおすすめはとりあえず飯食うかなー。今日のメニュー、聞く?」
そろりと顔を覆っていた両手が外れて、白い顔がのぞいた。ほとんど眠れていないのか、目の下には青黒いくまがくっきりと刻まれている。
「そういうこと、きいてるんじゃないんだけど」
「えー? 聞いてくんねえの? 今日の夜食、超好きだと思うけどな」
「食べてる場合じゃないの、わかってるでしょ」
食べてる場合じゃないときなんてないだろ、生きてるんだから。
寝食をおろそかにしても、生活に影響が出にくい程度にはタフなせいか、終一は人間が食べないと死ぬ造りになっていることを忘れがちだ。
「そ? 森はめっちゃ食ってたよ。今日の夕飯、カレーだったから、うちの寮」
森の名前を出すと、終一の顔が分かりやすく歪んだ。こっちは飯を食う時間も睡眠も削って描いてるのに、なに余裕こいてんだ、と、その端正な顔が雄弁に語る。夕飯を食べに寮に現れた森の顔色は酷いものだったし、あの樋口が思わず労わりの言葉をかけるくらいには余裕がなさそうだったけれど、それは言わなくてもいいだろう。終一を余計に追い詰めるだけだ。
「くそ、ほんとあいつ、なんでそんな余裕なの」
「余裕っつか、飯は食った方が元気でるじゃん? 食った方が効率いいんじゃね?」
効率がいいことが、芸術にとってプラスに作用するのかは、正直分からないけれど。生身の人間がやることだ。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ることが、悪い方向に影響することはないだろう。たぶん。
「ちなみに、今日の夜食、そうめん持ってきた」
「まだ聞くって言ってないんだけど」
軽口が返ってくることに安堵する。樋口と違って、唯希には好きなやつの泣き顔に興奮する嗜好はない。
「あはは、ごめんて。でも、終、好きでしょ? 夏に食うそうめん」
普段はあんまり好んで食べないのに、映画館に行ったときは絶対買うキャメルポップコーンとか、甘い飲み物あんまり飲まないのに夏祭りではないとしょんぼりするラムネとか。
そういうものと、同じ方向性で、夏に食べるそうめんを好いている。
(冬に、そうめん温かく煮たやつ食いたいって言ったら、すげー顔してたもんな)
それこそ、珍獣を見る目だった。そんなにアホなことを言ったつもりはないのに。
「なにそれ。俺のこと知ってるアピール?」
終一の顔に、少し笑みがさす。うれしくなって、唯希の頬はもっと緩んだ。
「そ。詳しいでしょ、俺」
「全然」
「あー? 学園一の自信あるよ、俺。今度検定やる?」
「やらない。馬鹿じゃないの」
「なんだ、やんねーの?」
「やるわけないでしょ」
「飯は? 食う?」
「食べなかったら、唯希が食べるの?」
「そー。まじでうまく茹でれたから、結構狙ってる」
「太るよ。大会前でしょ」
「動けば大丈夫だし」
「いつもそればっかりだね」
息を吐くようにゆるく笑った終一が指先で雑に目元を拭う。唯希がそんな風に涙を拭いたら怒るくせして、自分のことにはいつも無頓着だ。こすると赤くなるのは、どちらかと言えば終一の方なのに。
「こすったら赤くなるぞ」
「べつにいいでしょ。俺の目なんだから」
だから、良くねえんだっての。
言えない反論はため息に溶かして、次に来るときは忘れずに氷を持ってこようと決める。
「たべる、そうめん」
小さく落とされた言葉に、思わずガッツポーズをしそうになったのをぎゅっと拳を握って耐える。表情は言い訳が出来ないくらい緩んでいるだろうけれど、終一が前言を撤回する気配はないのでよしとしよう。
「ん。持ってくる」
おぼんを置いた机に向かう背中に、ぽつりと小さな声がかかる。
「……ごめん」
か細い声が肌に刺さるようで痛かった。そんな風に、謝ってほしいわけじゃなかった。ただ、健やかでいて欲しいだけ。笑っていて欲しいだけ。幸せだと思えないとき、そばに呼んで、寄りかかって欲しいと、願っているだけ。涙の滲む声で謝られることなんて、ひとつも、本当に、ひとつも、望んではいない。
「うん」
でも、そんな欲をぶつけたところで、終一の白い肌に痣が残るだけだから、唯希は苦い唾を飲み込む。
「いいよ、別に。俺、夜に寮抜け出すの、けっこー好きだし」
「悪い子だ」
「あー? 終だって、寮で寝た回数より、美術科室で寝てることのが多いだろ」
軽口を返しながら、おぼんを持ち上げて振り返る。終一の方は机に散らばっていた画材を端に寄せたところだった。今日はちゃんと、机の上で食事をする気分らしい。いつも床なのに。
明日の天気は雪予報だったっけ。
「そんなことないよ。美術科室、美術科生しか基本使えないから、俺が入れるようになったの高等部に上がってからだし。まだ、中等部の三年間のが長いでしょ」
「いや、ほんとにここで寝た回数の話じゃねえよ。寮の部屋で寝てない回数の話してんの」
「どうだろね? 中等部のころは、割と部屋で寝てた気がするけど」
「嘘だろ。平本に聞いてやろ」
終一と同じ寮で暮らしている同級生の名前をだせば、終一が露骨に目を逸らした。ほら、やっぱり。
「平本は、そんなの知らないよ。べつに仲良くないし」
嘘ばっかり。呼び捨てにするくらいには仲がいいくせに。
「はは、寮訓、遠きひとまで愛しなさい、なのに、寮生同士は仲良くねえの?」
「愛するって、別に全部を知ってるとか、四六時中一緒にいるとかじゃないでしょ。俺たちはもっと深く愛を知ってるの」
「ふうん?」
「そうめん、はやく」
口角を横にひろげて笑いながら終一を見れば、眉間に皺をよせて机を片手で叩く。まさか終一に夜食の準備を急かされる日が来るなんて! 唯希は肩を震わせながら、おぼんを机に置いた。麺を入れてきたタッパーの蓋を開いて、終一に箸を手渡す。