もうその名前も思い出せなければ、その顔すらも判別できない。さっきまで個性をもってそこにいたはずの人間は、人間の形をした[[rb:空白 > ブランク]]に成り果てていた。
 立ち尽くしている暇はない。「[[rb:虫 > ワーム]]」が次に狙うのは俺だ。
 長大な牙を軋らせて迫る「[[rb:虫 > ワーム]]」に、慌てて銃口を振り向ける。句除銃から放たれた修正弾がその装甲を削り取り、「[[rb:虫 > ワーム]]」の持つ堅牢さの定義を削り取る。ぬらついた真っ黒な装甲の下に脈動するのは、奴らが食ってきた文字情報そのものだ。無数の文字が絡み合って構成されたその構造そのものを破壊しなければ「[[rb:虫 > ワーム]]」を殺し切ることはできない。
 句除銃の弾幕を浴びせ、堅牢さと素早さを削り取る。次第に動きが鈍ってきたところを見計らって間合いを詰め、句除銃を文解モードに切り替える。
 銃身が展開し、その中に隠されていた鎖状の刃をあらわにする。さきほどの銃撃で装甲が剥がれ飛んだ開裂部に向かって刃を突き込んだ。金属音を凌ぐ悲鳴がほとばしったのは、「[[rb:虫 > ワーム]]」の口ではなく傷口から。そして撒き散らされた悲鳴は空中で文字に還元される。知らない誰かの名前、生活、光景――無数の物語。「[[rb:虫 > ワーム]]」に食われた無数の情報が、ほんの数瞬だけ本来の姿を取り戻して俺の眼の前に展開される。
 今では保護対象として保管施設の中に厳重に保管されており目にすることもない「物語」が、そこにあった。まるで色を失った世界が色彩を取り戻したかのように展開するその光景に、俺はしばし目を奪われた。
 ――ダメだ。
 俺は慌てて頭を振り、意識をその光景から切り離す。何度見ても慣れない。あの「[[rb:虫 > ワーム]]」が悲鳴とともに撒き散らすその中身はあまりにも――美しいのだ。物語に触れることがなくなった我々にとって、奴らが今まで食ってきた文字、文章、そして物語は、耐性のない刺激なのだ。ともすればここで立ち尽くしてしまうほどに。
 「[[rb:虫 > ワーム]]」の傷口から吹き上がった無数の文字が空中で消える頃には、全長数メートルはあったその巨体は完全に章滅し、その意味をすべて失っていた。
 しかし、もちろんこの図書館に巣食っている「[[rb:虫 > ワーム]]」はこれだけではない。中心部にはまだ無数の「[[rb:虫 > ワーム]]」が残っているはずだ。
 部下を一人失った状態で下手に進行するのは危険だ。
カット
Latest / 44:35
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知