感覚球。
 天使。
 ――異形。
 普通の警察では対処できない、歪んだ妄想「バロック」絡みの事件を調査・解体し、背景にある真実を解き明かす専門機関。
 それが、「妄想解体センター」である。
 「バロック」という言葉は、「放課後屋上殺人事件」という名前で大々的に報道された、高校生の少女が一つ上の少年を屋上から突き落とした事件がきっかけで世間に蔓延し始めた。
 蔓延し始めたのは言葉だけではなかった。まるでその事件がスタートの合図だったかのように、少年少女の自殺が相次いで発生し始めた。性別、学年、家庭環境などには共通点はなく、ただひとつの共通点は、彼らが死ぬ前に強烈な「歪んだ妄想」を遺していたこと。
 いじめを苦に自殺する旨の遺書を遺して陸橋から身を投げたが、実際にはいじめを行っている側だった少年。
 面識もないはずの有名ミュージシャンとの秘密の恋愛に疲れ、ノート3冊分の告白を遺して自殺した少女。
 自分たちは悪と戦う超能力者で、別次元に逃げていった悪を追って転生するために集団自殺を行った少女たち。
 自分を父と姉の間に生まれた罪の子だと思い込み、その罪から逃れるために家中にガソリンを撒いて家族ごと焼身自殺した少年。
 こうした少年少女の自殺に伴う歪んだ、しかし不気味な理性と説得力を伴った妄想は、いつしか「バロック」と名付けられ、水が染み込むように社会に浸透していった。
 そしてついには、そのバロックを取り扱う民間業者が出現するに至る。
「……ここ、だよね」
 少女が見上げているのは、周囲に立ち並ぶ近代的な街並みとは真逆の、古めかしい建物だった。建築のことはよくわからないが、相当昔に建てられたレストランか何かに見える。
 豪奢なレリーフを施された門柱に支えられた門をくぐると、空気が変わったような気がした。あたりを見回しながら、少女は建物の中に足を踏み入れる。
 床に敷かれた毛足の長い絨毯の上を歩いていると、奇妙な浮遊感があった。今にもこの足場が崩れてしまいそうな、不安定な感覚。
 少女はその感覚から逃げるように、足早に奥にあるエレベーターに向かって歩いていく。
「おい」
「っ!」
 不意にかかった男の声に、少女は飛び上がりそうになる。
 声の主は、立ち並ぶ柱の影にもたれかかった男だった。
 少女が男に気づかなかったのも無理はない。男は上着もシャツも、ズボンも靴も全身黒尽くめだったからだ。おまけに、手にしたスマートフォンも柄のない真っ黒なケースに収まっている。
「ちょっと! びっくりさせないでよ!」
 少女の抗議の声に男はスマートフォンの画面から顔も上げずに言った。
「お前、客か? それともただの冷やかしか?」
「……ここ、本当に妄想解体センターなの? 看板もなんにもないけど」
「看板出してできるような商売じゃないからな……で、お前、客なのか冷やかしなのか、どっちだ」
「客よ」
「……」
 男はスマートフォンの画面から一瞬だけ視線を上げて、少女を一瞥した。しかしすぐに興味を失ったように画面をタップし、どこかに電話をかけた。
「俺だ。客だぞ」
 それだけ言って男はさっさと電話を切ってしまった。そして通路の奥にあるエレベーターを顎で示し、「地下4階」と言ったきりスマートフォンの画面に視線を落としてそれっきり黙り込んでしまった。
「丁寧なご案内どーも!」
 それだけ言い残して、少女はエレベーターに向かった。
 建物と同じで、エレベーターも古めかしい。ドアは映画でしか見たことがないような蛇腹方式。上を見上げれば回数表示板は見慣れたデジタル表示ではなく半円形の金属板と時計のような針。まるで過去にタイムスリップしたかのような眺めだ。
 少女は恐る恐る指を伸ばしてボタンを押し、エレベーターに乗り込んだ。
 積み重ねられた時間の匂いのする箱に乗って、少女は地下へと潜っていく。一瞬、このままエレベーターの扉は開かずに永遠に下へと降り続けていくのではないか――そんな考えが頭をよぎった。
 そんな考えが少女の小さな頭を満たす前に、チーンという甲高いベルの音とともにエレベーターは止まった。地下4階だ。
 蛇腹状のドアが開いた先に広がっていたのは、意外に広い空間だった。
 両側の壁に沿ってずらりと並んでいる棚には、キングサイズのファイルや書類が山のように積まれている。封筒やバインダーに混じって、得体のしれない道具が混じっているのを見て、少女はごくりとつばを飲み込んだ。書類の影から覗く大きな蜘蛛の姿は、まさか本物の死骸ではないだろう。
「す、すみませーん!」
「ようこそいらっしゃいました」
 薄暗い空間の奥に向かって声を掛けると、よく通る落ち着いた男性の声が返ってきた。声がする方へ視線を向けると、そこにはぼんやりとした光があった。パソコンのモニタの明かりだ。その明かりに浮かび上がっているのは、机に就いているひとりの男だった。
 短く刈り込んだ髪と黒縁の眼鏡からは知的な印象を受ける。年齢は20代後半から30歳ほどだろうか。
 立ち上がった眼鏡の男は、壁のスイッチを入れた。ジジッという蛍光灯の音とともに、室内が照らし出される。
「すぐに解決したい問題があるようですね」
「うん、そうなんだけど……って、なんでそんなことわかるの……!?」
 眼鏡の男は涼し気な笑みを浮かべて答える。
「連絡を受けていましたから。上の階に黒尽くめの男がいたでしょう。あれ、ここの所員なんです」
「ああ、なるほど……」
 少女の表情からなにかを読み取ったのか、男は忍び笑いを漏らした。
「無愛想な対応をされたでしょう。まあ我慢してやってください。ああいう男なので」
「はあ……」
「申し遅れました。ここ……『妄想解体センター』の所長をしております、金沢キツネです」
 少女は、男――金沢キツネが差し出した名刺をまじまじと見つめる。「妄想解体センター 所長:金沢キツネ」の文字と、住所・電話番号が書いてあるだけで、この場所の実在感が実感できた。
 実在するということは、自分が抱えているこの問題を解決してくれるかも知れない。
「まず、お名前を伺っても?」
 少女は胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、名乗った。
「私は渡辺ルビ。ここって……ここって、バロックを解体してくれるんだよね……!? 人が抱えたバロックを解き明かしてくれるって……!」
「もちろん。ただ、ここで取り扱っているバロックは非常に数が多い。なので、まずはあなた……渡辺ルビさんが抱えているバロックを特定するところからはじめましょう」
「わかった……」
 キツネは再び席につき、キーボードに手をおいた。ルビはしばらく俯いていたが、後ろを向いてシャツのボタンに手をかけた。
 キツネがなにか言う前に、ルビは服をはだけた。蛍光灯の光に照らされた青白い背中にあるのは――ふた筋の傷跡。
 その傷は容易に――翼持つ神の使いがその羽根を引きちぎられた姿を想像させた。
「天使――」
 ルビがこぼしたその言葉に、キーボードに添えられたキツネの手が跳ねた。
「この傷、覚えがないの。1ヶ月くらい前に、友達と地下クラブに遊びに行ったときに、騒ぎが起こって……それで、病院で目を覚ましたら、一緒に行った友達はみんな死んだって……」
 細い肩越しにそう語るルビの声は震えているが、その視線は奇妙なくらいしっかりとキツネに据えられている。その両目は――ぼんやりと虹彩が浮いていた。
「あたし、なんにも覚えてなくて――でも、ひとつだけ。これ……」
 ルビの細い指先が上着のポケットを探る。取り出されたのは、白い羽。
「誰に聞いても、あのときにあったことについては話してくれなかった。警察も取り合ってくれなかった。残ったのは、背中の傷とこの羽だけ。――きっと、天使の羽根だよ」
 上着のボタンを止め直したルビは、再びキツネに向き直った。数度瞬きをすると、その両目は――普通の視線に戻っている。
「これが、あたしのバロック。あそこで何があったのか、この天使の羽根となんの関係があるのか――それを調べてほしいの」
 キツネは、その言葉を咀嚼するようにじっと押し黙っていた。ややあって、キーボードに添えられた指が動いた。
 画面に文字が打ち込まれる。
『天使のバロック』
 短いその文章を打ち終わると、キツネはスマートフォンを取り出して電話をかけた。
「スズメ。見つかったぞ。……ああ、本物だ。間違いない」
 それだけ言ってキツネは通話を切った。
「あの……?」
 ルビが見上げたキツネの表情からは、さっきまでの客用の営業スマイルは消えていた。ルビが差し出した羽根を、キツネはじっと睨んでいる。
「我々は『ある組織』の手がかりを掴むために、この妄想解体センターを立ち上げ、数々のバロックを集めてきた。この羽根とそして――あなたのバロックは、間違いなくその組織の手がかりだ」
「ある組織……って?」
「マルクト教団」
 その名前を聞いた瞬間、ルビは背中の傷跡が疼くのを感じた。
「白い羽根を生やした天使に選ばれた人間が姿をくらまし、天使たちの仲間入りをするという都市伝説。だがそれは都市伝説ではない。教団は実在する。天使の都市伝説はその隠れ蓑に過ぎない」
「じゃあ、あたしが遭った事件も……?」
 壁にかけてあったコートを羽織り、キツネはエレベーターに向かう。ルビはその後を慌てて追った。
「それをこれから、暴くのさ」
 
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