研究所のバレンタインデーは日本式だ。デルウハは救世主として食糧班から直接チョコレートケーキを、あるいは食糧班から支給された材料をもって手作りの菓子を作る者が大半だ。その菓子は大切な家族に、自身の子供に、あるいは意中の人間に手渡される。所長はどこか甘い空気すら漂う研究所の、その賑わいから離れるように所長室にいた。朝から顔馴染みの女性所員から手渡されるものを執務室の机に置きながら、ふと、手元を見やった。
ここの職員は家族のようなものだ。独身者であっても公平にチョコレートは手渡される。所長の手元にあるのは片手に乗るほどの青い箱だ。それは、誰かにもらったものではなかった。所長が用意したものである。
「……」
所長はその箱にじっと目線を落としていた。青い箱である。ラッピングなどは簡素というか、そもそも用意されていた物を使った。だから工夫はない。箱を縛るリボンが横に用意されていたので、誰かのセンスを信じて使ったまでである。だから所長自身の工夫はない。平凡な取り合わせである。深い青の箱に、淡い青のリボンの取り合わせだ。それでも、誰かに手渡すのに、最低限の思いは込められている。これを、彼は誰かに手渡すのだ。
「……はあ」
だが箱をぎゅうと握るまま、所長は動かなかった。箱に手の熱が伝わる。年齢を経たことで代謝が落ちてきている手でも、熱は確実に伝わるものだ。中のチョコレートにも伝わるだろうか。そんなあり得ない心配がふっと浮かんだものの、科学者らしくそれをすぐに潰した。その箱を掴んだまま、所長はふうと息を吐く。今ごろ研究所の中で、手渡したい相手は人々に囲まれている事だろう。それを考えると、自分の物などちっぽけで、手渡すべきものではないと思えてしまった。その時だ。
「所長」
声が背後で聞こえたので、所長は振り返る。待ち人来る。チョコレートを手渡したいと考えていたデルウハが、すたすたと扉から一目散に執務机にやってくる。
「あ、デルウハ殿。どうかなさいましたか」
「いや。朝からやたらチョコレートやら菓子をもらうから、どういう文化なのか知りたかったんだが」
「あはは、バレンタインデーですからね。日本は義理チョコや友チョコなど、お世話になった方にチョコレートを渡したり、友達に渡したりしますので…」
「なるほどな。俺の母国じゃ、男から女に渡すがここじゃみんな渡すのか」
「デルウハ殿でしたら沢山いただいたでしょう。何せ、我々の救世主ですから…」
「その後ろにあるのはなんだ」
目敏い。所長は慌てて箱を隠すが、デルウハはもう見てしまったらしい。青い箱を覗き込み、首を傾げている。所長はいっそう慌てた。
「いえ、あの。これは」
「何を慌ててる。それも誰かに渡すものか?」
「う…その…」
「なんだその顔」
デルウハは怪訝な顔だ。所長は観念したように箱をおずおずと差し出してみた。デルウハはさらに怪訝な顔だ。
「あの……よろしければデルウハ殿にと思いまして…」
「俺にか」
「その、不要であれば捨てていただいても…」
「食う」
デルウハは事もなげだ。すぐにリボンをほどくと、飾り箱を開いた。中には小さなチョコレートが丸い形で一粒だけある。一口大だ。材料を食糧班が配っているとはいえ、所長の身でそこまで量を確保する訳にもいかなかった。だから一口大なのだ。ひょいとデルウハの指がチョコをつまんだ。もう食べるらしい。
「食べるぞ」
「どうぞ」
ひょいっと口の中に放り込まれる。味はそう変な物ではない。だが自分の秘蔵の酒を少しだけ混ぜ込んでいるので、冬山で働く身を温めてくれるはずだ。デルウハも中身に気が付いたのか、酒入りだなと言うだけである。
この人間に、このチョコレートに込めた複雑な感情はどこまで伝わるだろう。愛も情も無く、合理を追求する人間に、わずかに抱いた情を理解してもらえると思わない。もし可能であれば、伝わることを願わずにはいられないのに、きっとそれは永遠に訪れないのだろうと思う。
そうだ。それならば、彼に食べられればいいのだ。彼が愛する食事に紛れ込めば、彼の愛と満足を受けながら死に行く事ができるのだ。食べられてしまえばいい。食べられてしまえば。だが、それは叶わぬ事なので、今はそのチョコレートに自己を投影するのだ。
「なんだ」
「あ、いえ。お味はいかがですか」
「うまいな」
その言葉に、所長は少しだけ浮足立ってしまった。