マンスリーお題「雪」で一本 ふんわり思いついたのが遅すぎる、イメソンは髭男『subtitle』
極力台詞なし縛り
かち、かち、かち、かち、時の針が立てる音だけが部屋に響いている。いちど目が覚めてしまうとまんじりともできなくなる、そんな日が、安眠を得意とするおれにだって、たまにはある。
隣に横たわる、ねむりの浅い彼を起こさないよう、そうっと寝台を抜け出す。薄闇の中、いやに落ちこんだ冷えとやけに大きく聞こえる衣擦れの音に、忍び足で窓際に向かい暗幕の隙間を覗けば、結露の垂れる硝子の向こうの光景に合点がいった。
真っ白だ。
明けきらぬ暁天の下、薄青いくらがりの庭を一面に覆う白が、ふっくらとした厚みを誇っている。異様な静寂と冷え込みはこのためか、と、いまいちど寝台の膨らみを振り返っては、それがすこやかに上下しているのを認めたおれは、そのまま息を潜めながら寝室を抜け出した。寝間着の上から、愛用の上着を羽織る。長靴を引っかけるように履き、玄関を開ければ、きんと冷えて澄みきった空気がいきおい肌を突き刺した。
さみい。しんしんと降る結晶を前に、思わず漏れた声は、白に吸いこまれるように消えていく。後ろ手で慎重に扉を閉め、ぶる、と熱を生み出そうとふるえる身を縮こめながら、眼前の、いまだだれも跡をつけていない新雪に一歩、足を踏み出す。足の裏、きし、と自重でかためられる感触に、これは数え切れないほど足を滑らせるだろうな、と、じきにひとびとに踏み固められるであろう数時間後の歩道に思いを馳せる。
舞い上がる白い息につられ、寝静まった街を見渡す。丸裸であったはずの木々の枝は静謐と純白をまとい、時折、とさ、と雪垂れを起こしている。ぽつり、ぽつりと光る街灯の下、色とりどりであったはずの家々は氷点下のきらめきに鳴りをひそめ、ああまさに、そこは銀世界であった。
(……フレバンス……)
寝室に残してきた彼の、いつかの故郷を思う。童話の雪国のように、地面も草木も真っ白であった――というのは、資料と口伝とでしかこの知識になかったものだから、きっと彼に言わせれば、似ても似つかぬものであるのだろう。しかし、眼前のこの景色でさえ、冷えた息を呑むほどに、これほどうつくしいのだ。彼の町はさぞかし、もっとずっと、幻想的であったにちがいない。
そんな町で、ただ、ほほえんで生きていけたのであったのなら、ああ、どんなに、よかっただろう。
ひとのみにくさの連鎖が招いた悲劇が、白い町を蝕んでは食い潰し、そこにあったあらゆるものを、世界は穢れとして見放し、あるいは粛清した。「フレバンス」という名さえ忌避され、なにもかもを闇に葬るように、そこから目を逸らし、だれもが己の安寧ばかりを追いかけた。
そこに、己とおなじかたちをしたひとびとが、日々を懸命に生き、似たこころを持っていた者が、たしかに存在したことすら、すっかりわすれてしまったように。
(……だが、えてして、そういうもんだ)
ひとは、あたたかく、やさしくもなれれば、どこまでもつめたく、非情にもなれてしまう。そういうものだ。自らに都合の良い、はたまた共感し得る「ただしさ」が現れた途端、盲目に飛びついてしまいたくなるのが、ひとというものだ。いつだってそれは目もくらむような異彩を放っていて、そこかしこに、誘うように転がっている。しかし、それに飛びついた者を、意図的であるにしろ、そうでないにしろ、十把一絡げに「悪」と断じることもまた、できやしないのだ。
同調圧力であったり、困窮であったり、憎悪であったり、無知であったり、恐怖であったり。そういった環境や感情が、ひとの思考を停止させ、理性を麻痺させる。脳裏によぎる、眼下の燃え盛る炎、ひとびとの醜悪にゆがんだ顔と浴びせられる呪詛が、口端に苦みを運び来る。わけもわからず、なにもかもがおそろしく、おぞましい地獄を終わらせたい一心でいのちを絶ちたいとわめいた、そんな遠すぎる記憶の、真相を知ったのは、さまようおれを拾ってくれた育ての親に、あの世界の仕組みを教えてもらってからのことであった。
(『おまえは、なにも、わるくないんだ』)
わるくないんだよ、ロシナンテ。ことばを失うおれに、涙を浮かべてそう、言い聞かせてはだきしめてくれた、厳格なひとの太くあたたかい腕に、やっとのことでこころがほどけたことは、死をまたいだ今でも、まざまざと思い出せる。あのひとがいなければ、おれはもしかしたら、兄とおなじような道を辿っていたかもしれない。道理と、思慮と、生きるすべを叩き込んで、愛情を注いだみなしごが、さいごには自分勝手に死んでいったと考えると、実にむごい仕打ちをしてしまったものだと、今世で出逢うなり強めの手刀を頭に落とされたことを思い出して、ひとり苦笑する。
フレバンスを忌避したひとびとも、堕ちた天竜人に報復したひとびとも、もとは無辜の民であった。彼ら自身でさえ、己がひとでなしと化したことを、自覚していなかっただろう。ひとのこころをうしなわせるのは、いつだって己を正義と「思い込んだ」ときだ。正義に反するものは激しく糾弾され排除されるか、透明化される。
(……なんて、おれだって、見えなくなってたものは、いっぱいあったよな)
己が正義と思い込むのと、信念として正義を抱くのはまったくちがう。民のためと厳格に正義を掲げていたあのひとに、影響こそされてはいたものの、おれ自身としては、海軍自体にはそれほど忠誠を誓う気はなかった。ただ、この存在を重宝してくれる育ての親への恩返しと、真相を知ってより膨らんだ兄へのやりきれなさと怨恨を、最後の肉親としてその悪業を止めることで昇華させる。海軍に身を置く理由などそれだけで、民や、正義、ましてや世界政府など、おれにとってはどうだってよかった。
弱ければ、奪われる。そんな世界だった。けれど、それでも、非力なひとびとが逃げ惑う姿に、なにも思わぬわけではなかった。気がつけば届くいのちに手を伸べていた。どうしたって、見過ごせやしなかった。それが、正義であるのかなど、わかりもしなかったが、せめて「ただしい」ことであれと、弱きが死にかたを選べる世になれと、いつしか、染みついた諦観を押しのけて、顔を出した意志を、隠し持つようになっていた。
それだから、おさなかりし彼の、あの光の失せたかなしい双眸を見て、その過去を知って、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
あの、体を貫いた痛みはまちがいなく、彼の痛みであった。絶望、諦観、憤怒、怨嗟、そのすべてが、いちどきに流れ込んできたような気がした。不条理に切り刻まれ、引きちぎられ、打ち棄てられた、その痛みは、記憶の奥底でぱっくりと開いたまま乾ききった傷の痛みと、あまりにもよく似ていた。
(ずっと、つらかったろうに――)
きい、と、不意に、背後で音が鳴る。は、と耽っていた物思いから引き戻されるような感覚に、振り返れば、玄関先、おなじように寝間着に外套を羽織った彼が、おれを見つめていた。
ロー。口をついて出そうになった名を、その、白斑の消えた健康的ないろのかんばせに、どうしてか飲み込む。いまでこそ、すっかり丸くなって、素直に受け答えをしてくれるように――いささか、素直にすぎて面食らってしまうほどに――なった彼であるが、あのころは取りつく島もないほどに荒れていた。それは、おれが兄に悟られないように組織の芽を摘むべく、こどもぎらいを装って、どのこどもたちにもひどく当たっていたせいにちがいないのだが、実のところ、おれもまた、彼と面と向かって話すのを、どこか避けてしまっていた節があった。
無理に組織から連れ出して、いやがる彼を強引に病院へと連れ回した。それが「ただしい」ことであると、彼にとっての最善になると信じて、きっと治ると、今度はだいじょうぶだと、そんな気休めばかりを繰り返して、忌避と偏見にさらされ、ただでさえ傷だらけのちいさなこころの、塞がってもいないかさぶたを無遠慮に裂きながら、次第に、おれは、積み重なる不甲斐なさが、彼の声を聞こうとしないこの胸のずるさを露わにさせていくのに、耐えられなくなってしまったのを覚えている。
かわいそうに、とは、口が裂けても言えないと思っていた。そんなことを口にしてしまえば、それこそ彼に、きらわれてしまうと思っていた。悲劇に見舞われ、病魔に冒され、ぎらついた金の眼光を前にして、すこしでも半端にあわれむような素振りを見せた瞬間、怒り狂わせてしまうと思っていた。けれどいつだって、どうすれば彼が、前を向けるようになれるだろうと、必死に考えていた。
口がうまいわけでもない。要領が良いわけでもない。それでも、どうにか、彼に愛を知って、思い出してほしかった。あいしていると、おまえを想う者はここに、たしかにいるのだと、届いてほしかった。
彼が、雪を踏みしめる。この隣に、その、精悍に伸びた背を並べて、白い街並みに視線を投げる。息が舞う。たくわえた生え下がりの横、ひたりと張りついた結晶が、じわりととけていく、そのさまに、おれは、ふと、ずっとしまいこんでいた疑問を、ほろりとこぼしていた。
「……そういや、おまえ、なんで、コラさんって呼ぶ気になったんだ?」
凪いだ空気に、消えていくその問いは、彼の耳には届いていたのだろう。じっと、彼はしばらく、そのくちびるを閉ざしたまま、おだやかなまなざしを遠くに投げていた。そうして、投げたまま、ふ、と、彼は、いたってやさしげに、そのまなこを細めるのだ。
「……さあな」
その胸に聞いてみな。ことばとは裏腹にやわらかな声音が、いたずらにそう紡いでは、この手を握る。知らぬ間に冷え切っていたそこに染みわたる、彼のぬるいぬくもりに、おれは、ああ、と、悟らざるを得ないのだ。
(伝わって、くれたんだな)
もどろう。ぬくめるように、指をさすってくれる彼が、そうとだけ声をかすらせる。ああ。そうだな。いまにもわなないてしまいそうな喉を、無理にこじ開けてうなずいたおれは、とけぬ幸福をまとうようになったその四角い手を、だいじに握り返した。