五話 精錬の先
力を抑えてしまった。以前木刀を叩き割った時、怯えたような門下生の顔がつい浮かんでしまったのだ。だからいつもなら振り払える手も、いちこはぐっと堪える。
「前に田辺に絡んだろ。そっから気に食わないと思って、隠したんだろ」
「…そんなことしてません。だって、美堂さんは困ってるように見えたから」
いちこは言葉が静かになっていく。
あれから人間関係については銅矢も調べたらしく、教えてもらったのだ。ある晩、道場を出たところで銅矢が路地裏を覗いているから、いちこも覗いてみた。何があるのか想像もせずに、人のまねをしただけなのだ。その奥に、距離はあるものの美堂がいた。彼女はいつもの通りに凛とした立ち姿だが、そわそわとして待ち人がいるようであった。彼女に待ち人? 銅矢の袖を引き、なんだろうといちこが尋ねようとした時だ。誰かがやって来た。思わず見やると、田辺だった。美堂は田辺を待っていたのだった。あの美しい美堂が、やってきた田辺に愛し気に抱き着いたのだ。
いちこは息を呑んだ。銅矢は知っていたのか眉を少しひそめただけで、いちこを連れてその場を離れるのだった。美堂は田辺に絡まれて困っていた訳では無かった。それが分かって、いちこは余計な事をしたのかと落ち込んでいたのだが…銅矢は別の感想を抱いたようだ。
「自由恋愛だとはいうが、風紀を乱すのはやめて欲しいよな」
「…でも、私本当に美堂さんが困ってるのかと思って」
「言われなきゃ分からないよ。いちこが気にするな」
いちこはふと、顔を上げた。
「……名前」
「ん、名前?」
「やっと名前呼んでくれましたね」
「…まあ、それはいいんだけど。じゃあ帰るぞ。傍迷惑な連中だよ」
銅矢は吐き捨てるように言い、その日は一緒に帰るのだった。
その晩の事を思い出す。美堂に余計な世話をしてしまい、もしかしたら田辺の怒りを買ったのだろうか。いちこを取り囲むのは三人程で、外にいるのが田辺である。もしかしたら陰謀ではないかと思い、いちこはつい田辺を見てしまった。それが睨んでいるかのようで、余計に門下生は生意気だといちこを小突く。
「こいつ、自分が疑われてるのに田辺を睨んでるぞ」
「生意気だな」
銅矢がいない。今日は仕事である。いちこは絶体絶命であった。結局田辺と中田の木刀は道場の周辺には見当たらず、いちこは言いがかりをつけられただけで、道場の門下生の意識はいちこが悪者になってしまった。いちこは必死に否定したものの、木刀を握りつぶした怪物扱いが如実に表れてしまい…銅矢が気が付いた時には、いちこには嫌疑が掛かり、気が付くと道場主の前に引きずり出されていた。
あれよあれよと他人の武具を傷付けた疑惑で、道場を辞めさせられることになる。銅矢がその事態に気が付いたのは、いちこの破門はもう言い聞かさせられた後であった。
「なんでそうなるんです!?」
銅矢がいきり立ったところで、木刀が見当たらない事でいちこは壊して捨てたのだろうと言われてしまったのだ。証拠隠滅を図ったのだろう。そうなれば余計陰湿である。いちこはずっと俯いていた。彼女を庇うのは、銅矢以外にはいなかったのだ。針の筵であることは、いちこの人生でも起きたことはある。だがその場合、横には支え合う姉妹がいた。大人に冷たい目線で囲まれて、仲良しであった子供すら視線は冷たいものである。この空気をひっくり返すのには、銅矢の威光というだけでは足りなかった。いちこは正座をして俯いていたが、注目が集まっていない時に、深々と頭を下げたのだった。
「お世話になりました」
「木刀の修理代などは御令孫さまの手前不問にさせていただく。…それでいいですね」
師範が銅矢をちらりと見やった。だが銅矢はそもそも納得していないので、顔を歪める。いちこを取り囲んだ門下生は遠巻きににやにやとしていた。その顔を見て、銅矢はいちこの無実を悟るが…この場をひっくり返すのには証拠が足りない。結局午前中に破門を言い渡され、とぼとぼと家に帰ったいちこだった。
「こんなの間違ってる。俺が探してやるから、待ってろ」
「いいんです。嫌われた私が悪いんですから…」
そう微笑んだいちこは、貴由の勉強を見始めた。まるで諦観しているかのようである。銅矢は思い当たる場所があるのか、午後になると家を飛び出した。何かをしていなければ気分が収まらなかったのだ。向かうのは世田谷区である。不利な状況を変えるのには、証拠、証拠だ。いちこがやっていないという確固たるものが必要なのだ。
…その後しばらく駆けずり回った銅矢が夕方に家に帰ると、家は鍵が閉まっていた。珍しい事である。貴由がいるはずだ。すると、貴由の声が背後から聞こえた。
「お兄ちゃん」
「貴由。あれ、いちこは中にいるのか?」
「え、だってお買い物行くからお留守番してるって言ってたよ。やりたいことがあるって」
嫌な予感がした。銅矢が鍵を探すと、玄関横の鉢植えに隠してある。いつも何かあった時に隠して置いている鍵の他に、もう一つ新しい鍵が置かれていた。嫌な予感は的中する。それは、合鍵だった。鍵屋にわざわざ作らせて、不便がないようにいちこに持たせたものだ。それを置いて、銅矢家の鍵を閉めていった。それは何故か。
銅矢が家に駆けこむと、もういちこの荷物は微塵もなかったのだ。お勝手を探していた貴由が声を上げる。
「お兄ちゃん、これ」
いちこからの手紙だった。便箋に小筆がさらさらと書かれている。そこには、今まで世話になった礼と、お風呂掃除とお夕飯の支度はしてあるということ。そしてもう銅矢の家には戻らないと書いてあったのだ。本当にありがとうございました。そんな言葉が最後、少々だけ震えていた。銅矢は再び家を飛び出す。貴由も出たそうにしていたが、必ず探すからと言づけて銅矢は走るのだった。
日が暮れはじめた頃、気温は冷え込んで雨は雪へと変わった。いちこは人目を避けて、橋脚のそばに座り込んでいた。自治警が見回っていたりするので、大人に見つからないようにである。持ってきた大荷物は橋の下にもぐりこませている。寒さによってかじかんで、身は氷のようになっていく。だが、いちこは大丈夫だと思った。
はあ、と息を自分の手に吐きかける。姉妹と生きていたころ、いちこはこうして冬の橋に潜り込んでしのいだことがあったのだ。翌朝はもしかしたら凍死しているかもしれないと恐怖を抱きながら眠った。だが目は、きんきんに冷えた朝露によって簡単に目覚めたものだ。今はデルウハの元にいて、あたたかい家を得られていたし、直近では銅矢の家で…。でもまだデルウハの元に帰りたくなかった。昇段試験はもうすぐだったのに、それがすべて潰されてしまったのだ。
その悪意に、気が滅入る。そんな顔で銅矢や貴由に心配されたくはないし、いちこの意地のようなものだった。だから一人でいるのだ。このまま夜をしのいだら、今度はどうしよう。浅はかかもしれないが、いちこは今明日の事を考えていなかった。寒すぎて、未来に思いを馳せている場合では無かったのかもしれない。だから目を閉じてみて、明日だったらいいのになと思う。まだ夜の八時である。夜が更けるまで長いのだ。いちこは肩に積もった雪を払いのけた。
大丈夫、大丈夫だ。こんな事態は経験済みである。橋の下にもぐってしまおう。あの頃と違うのは、姉妹がいない事と着るものは大量に持っていることだ。あの頃に比べると、随分と恵まれている。身にも肉が付いている。耐えられる。だが一度幸福を知ってしまうと、その分だけこころは弱くなる物なのだろうか? 寒さが芯に入り込みそうだった。そう言えば、いつかは銅矢について何と言っていたっけ。急に関係の無い事を思い出す。お泊り会になった日に、こたつに入りながら呑気に言ったのだ。
「あいつはお人好しだからさ」
「…でも、私には厳しいわ」
「そうかい? まあそのうち分かるよ。本当にめちゃくちゃお人好しだから」
「いちこ!」
銅矢の声がして、いちこは顔を上げる。番傘を持った銅矢が、いちこの肩や頭の雪を払いのけた。急に温かい手が身に触れたので、かえっていちこはびっくりする。いつの間にか唇まで真っ青になっていて、かたかたと歯が鳴りながら話すのだった。
「なん、で」
「なんでって…真冬の雪だぞ。ほら、風邪引くだろ! いくらなんでも」
銅矢はいちこに手を差し出す。それは手袋を忘れた手であった。自分の防寒も忘れて、探し回っていたのか表面はほんの少しだけ冷たかった。いちこはおずおずと手を握ると、銅矢は力強く立たせる。
「荷物、これか?」
「いいです、自分で持てます。…重いですから」
「前も思ったんだが、服と筆記具だけなのになんでこんな重いんだ」
「だって…輸血パック…」
いちこはごにょごにょと言いながら自分で包みを背負う。銅矢は呆れる思いだ。もっと場所を取り、もっとも重いのが吸血鬼の衝動を抑える為の物だとは。だがいちこの手を取ったまま、傘をいちこに渡すと歩き始めたのだった。
「…なんで来たんですか」
「ほっとけないだろ」
「……」
本当にお人好しだから。その言葉が寒さよりも先に身に染みて、全身を巡ってかえってぽかぽかとした気持ちになる。結局家に戻ると貴由が泣くほど喜んでくれて、いちこはその晩は銅矢の家で厄介になるのだった。
「明日は道場に行く」
「何故ですか? 私はもう破門だし…」
「いいから。じゃあおやすみ」
銅矢は何か確信を得ているのか、それだけ言うと寝室に引っ込んでいった。いちこは首を傾げながらも、ちょっと気が重いのだが…銅矢には恩がある。こうして探してくれたのも恩だ。だから布団にもぐって、明日を待つことにしたのだった。
翌朝の道場である。道場主、師範たちの前に木刀が二本、銅矢が見せつけていた。田辺と中田は青ざめている。その木刀には中田、田辺の両名の名前が刻まれていた。二人は銅矢の視線に耐え兼ね、その場で土下座をする。
「申し開きはあるか?」
「も、…申し訳ございませんでした…!」
昨夜銅矢が道場周りをうろうろしていた際に、最も近い武具の店を訪れていた。もしかしたら売り飛ばされたのではないかと思ったからだ。だがいちこがそんな事をするわけもなく、本当に何の気なしであったが、道場の名前を出すと店主が苦笑いするのだった。
おたくの門下生さん、お二人が難癖をつけてきまして…木刀が反ったとかでなんとか直してもらえないかと…それで仕様の無く預かっているのですが…。
銅矢は店主の言葉をその場に告げた。
「なんでいちこが砕いて壊した木刀が、ここにあって、店主を困らせてたんだ。これが捏造じゃなければなんだ。誤解か?」
「い、いえ」
「だったら全て師範代の前ですっぱり申し開きしてみろ」
銅矢の軽蔑するような視線は、ひたすらに犯人どもを射抜いた。両名は頭を上げる事も叶わず、床に額をこすりつけて全て御令孫さまの申す通りでございます…とか細くも言う。
「だが、既に破門にした者を庇ってなんとする」
銅矢の祖父の言葉に、銅矢は軽蔑の視線をそちらに向けた。
「破門した者の潔白より、長年道場を支えた者の卑怯を見て見ぬふりするのですか」
「行き過ぎた悪戯ではある。両名には謹慎処分を下そう。だが、既に破門になった者は私の門下生ではない」
「…あなたはそういう人間ですよね。この場ではっきり申し上げておくが、俺はこの門下生を入門する期間だけこの道場に戻って来ただけだ。破門になった今、俺はもうこの道場とは関係ない」
祖父は吐き捨てるように言った。
「黙って聞いておれば勝手な事を…お前などもう破門じゃ。我が道場を引き継がぬ者に興味は無い」
「ありがとう。俺はそれですっきりした。いちこ、行くぞ」
「は、はい。…お世話になりました」
いちこは綺麗な礼をして、かえって上品にその場を去って行く。残された道場はどうなったのか、それはもう分からない。結局いちこは破門のままであるが、悪名については広がることは無いだろう。すっきりした顔でいると、銅矢も同じ顔をしているのに気付いた。二人は互いの表情に気付き、まじまじと見合ってから、ふっと吹き出す。
「主さまのもとに戻ります。でも私、まだ強くなりますから」
「そうか、まあ勝手にしてくれ」
「ええ。手習いだと思われても、真剣にやっていたらきっと道は開けるんですね。私、そんな大事な事を忘れてた。だから」
いちこはぺこりと銅矢に頭を下げた。
「ありがとうございました。今日にも発ちます」
「貴由にはちゃんと説明してくれ。あと」
「え?」
「…次会う時は強くなってるんだろ。容赦しないからな」
「ええもちろんです、御令孫さま!」
銅矢が嫌な顔をしたので、いちこは笑った。