『失恋』
一晩帰らなかったデルウハが、ようやく屋敷に帰って来た時に、彼は一人の人間を抱えていた。見慣れた服がボロボロになっていたが、ハントレスにはよく分かる顔だった。銅矢だ。気絶しているのか口を開け、だらりと手足が垂れている。デルウハが抱えなければ、死体のごときだ。その顔は生命力に満ちていて、今にも目をカッと見開きそうだ。だが、デルウハの腕の中で銅矢は気絶している。その顔を見て、ハントレスはそれぞれ違う反応を示した。
ある者は安堵の顔を浮かべた。これ以上は争う必要が無くなったのだろう。デルウハの勝利なのだ。ある者は銅矢の妹を案じた。貴由の将来を確保しなければと動き出したのだ。ある者は複雑な顔になった。銅矢への感情移入がそうさせるのだろう。
中でもいつかは、銅矢の顔を見ながら安堵もしていたし呆然としていた。何故だろうか、銅矢とは敵対関係でありながら、互いにぬるま湯のような関係性が一生続くような気がしていたのだ。それが銅矢とデルウハとの決戦で、知らぬ間に決着が着いていたのだ。銅矢は負けたようである。そしてデルウハは勝利し、彼を連れて来たのだ。それは捕虜なのか、あるいは戦利品なのか…人間を連れて来たのは初めてで、ハントレスはその意味をなんとなく分かっていた。
「俺の部屋に直通する部屋に入れる」
それはデルウハの所有物である、という意味だ。いちこがかしこまりましたと告げる。いつかはその言葉にハッとして、そして何故か無性に残念な気になるのだった。
捕虜の部屋には、ハントレスは何となく近付かなかった。近付けなかったのだ。いちこは立場上は近付けるのだが、それでも近付いていないようだ。にこもみちも、よみも、むつもである。いつかは、どうしようかと考えていた。デルウハの監禁部屋からは、銅矢が逃げ出したという話を聞いていない。銅矢は素直に敗北を認められたのだろうか。その関係性がどうなっているのかは、いつかには分からない。だがデルウハは血の衝動を抑えられているようで、もしかしたらと思った。銅矢は、デルウハに血を提供しているのではないかと。
ふらりと近付いたのは偶然でもあったし、どこかで気が触れそうな感覚をなんとかしたかったのかもしれない。部屋への入り口に足を踏み入れた感覚が無く、いつの間にかいつかが近付いた銅矢は、鉄格子の向こうにいた。
「ど、銅矢…」
「いつか?」
五体満足である。銅矢はどこか親し気に笑ってくれた。いつかはほっとする。
「元気そうだな、良かった…」
「ああ、一応な」
銅矢は苦笑いする。その笑い方に、いつかは違和感を覚えた。このような含みのある笑い方を、いつかの中の銅矢はあまりしなかったからだ。だが銅矢の状況から考えれば、いつかの安堵は少々気に障るものではないだろうか?
「ごめん。そうだよな鉄格子だから…」
「いや、いいんだ。元気なのは事実だし、いつかが来てくれて良かった」
「本当はもっと早く来たかったんだけど…なんか、来られなくて」
「むしろ、いいのか?」
銅矢はかえっていつかを気遣うように言った。
「え?」
「デルウハは…いいのか」
デルウハの名前を、銅矢は優しい口調で言った。そのわずかな変化に、いつかは少し気落ちする。
「あ、デルウハはそこまで言わないんだ…気にしなくてもいいよ。僕が折檻される訳じゃないし」
「そっか。じゃあ大丈夫だな」
どこまでも優しい性格である。銅矢はデルウハにどのような目に遭っているのかその姿も見たかったのだが、いつかにとってはいつもの銅矢であった。
「銅矢は…」
「ん?」
「デルウハとどうなったの?」
「どうって…説明は難しいな」
銅矢は苦笑いした。
「俺が負けたんだ。って、俺に言わせるのは酷じゃないか?」
「そうか、ごめんごめん。だってさ」
デルウハの左目は、銅矢が発砲して潰している。今はデルウハの目は治っているとはいえ、殺し合いに発展しているはずである。だがその結果銅矢を連れ帰って来たので、銅矢が非道な目に遭っていてもおかしくはないのだが、銅矢は元気である。良かった。
「銅矢がひどい目に遭って無くてよかった」
「ひどい目ね…」
「あ、監禁は確かにひどいけどさ」
「いつか、いつかも吸血鬼だから分かるか?」
唐突な質問である。銅矢はシャツを着ていた。仕立てられた彼の体にぴったりと合うシャツである。そのシャツのボタンを上から数個外し、首を露出させる。いつかは突然の銅矢の行動に驚くのだが、その首には傷が無数にあった。歯形である。牙の歯型である。吸血鬼の歯型だ。銅矢は噛み付かれていた。
「これ、食事だよな? いつかも似たような事があるのか?」
いつかは答えられなかった。同時に堪えられなかった。いつかはその場から弾かれるように逃げ出してしまうのだった。
あれは吸血鬼の食事である。銅矢は、何度もデルウハに噛まれているのに吸血鬼化はしていないようだ。そうならないようにデルウハが調整しているようである。純粋にデルウハの食事として、嗜好品として存在しているのだ。それに気付いてしまった。同じ吸血鬼だからである。銅矢をきわめて意味があるように扱っている。それがなんだか、目に見えないデルウハを感じられるようで、いつかは逃げ出してしまったのだ。心の中でひどく何かが傷付けられた気がした。輝いていた銅矢との銀座や浅草でのデートの思い出が、なんだか急に遠くなり、なんだか急に大切にしなければならない気がしたのだ。
いつかが銅矢の元に訪れたのは、翌日である。銅矢はいつものように接してくれた。いつかを気遣って、昨日はごめんなと謝ってくれたのだ。
「突然悪かったな…いつかは、嫌だったよな」
「ううん」
そう言いながら、いつかは血の本能が抗えぬままに湧き上がるのを感じた。
「銅矢。お願いがあるんだけど」
「ん? どうした」
「血を…吸わせてもらえないかな」
いつかの問いは、きっと銅矢には酷な願いであっただろう。誰が好き好んで吸血鬼に身を捧げるのだろう? だが銅矢は何でもないような顔をした。
「分かった。首はダメだってデルウハが言ってたから、指でもいいか?」
お前。優しいのはやめてくれ。
なんだよ鉄格子から差し出される指。
五体満足で、指先に歯を立てると噛み付いて、血を啜った。失恋の味がした。
『初恋』
屋敷に帰ってきて、最初に聞こえて来たのは発砲音だった。デルウハの部屋からしたが、ハントレスは何故か焦らずにいた。銅矢の物であろうと思ったからだ。
銅矢は、デルウハが先程連れて来た人間である。宿敵として何度も戦ってきた人間である。その人間が気絶しているのを、デルウハは屋敷に連れて来た。長年の決着が着いたのであろうとハントレスは思っていた。殊更、いちこは少し安心していたのだ。いちこは血の能力を研鑽することを止め、剣術の腕を磨くことを選択した。その際に銅矢には世話になった身である。だがデルウハは、いちこの命を助けた恩人であり、眷属である。彼は主人なのだ。いちこは、主人に逆らうことは無い。
銅矢の抵抗に、デルウハはハントレスに助けを求めなかった。デルウハが一人で制圧したのだろうと思われた。いちこは耳を澄ます。彼女には血の能力は少ないが、他の超常的な能力は少しずつ目覚めていた。その中の一つに、聴力が人一倍優れているというのがある。デルウハは屋敷の最も高い位置に部屋がある。その部屋の方に耳を澄ますと、ほんの僅かだがデルウハと銅矢らしき声が聞こえてきた。
「…してやる…」
「………愛い…」
愛い? いちこは首を傾げた。デルウハと銅矢の会話はそれ以上分からなかった。分からなくていいのだ。いちこはけっして見られない場面がある。それは二人が殺し合いをした場所にあった。
対峙していた二人は決着が着いたというのに、銅矢は不屈の精神で立ち上がろうとしていた。もう勝機など微塵もないのに、勝気と負けん気だけで立ち上がろうとしたのだ。そこにデルウハがのしかかる。その時だった。隙があるせいか、デルウハは銅矢の首に噛み付いたのだ。
「ッ…!?」
血を吸いあげる。吸血鬼には血の吸い方は二つあった。蚊のように血を吸うように、血だけ吸い上げるもの。吸血鬼の仲間にする為に深く深く噛み付くもの。今回は前者であった。そして前者にはある特徴があり、吸い上げられた者は深い快感を得る。その快感は、銅矢の身にも降りかかったのだ。銅矢はその場に倒れ込み、身もだえた。
「くっ…ぅ…?! あ、ァ…ッ…」
圧倒的な快感が、暴力的に降りかかる。その身は立てない程であった。地面に寝転んだまま、指一本動かせずにいる。銅矢が動けなくなったのを見て、デルウハは吸った血を恍惚としながら飲み干している。仇敵の血である。だが関係性が深い相手の血だ。吸ってみたかった血である。若い男の血だ。子供や若い女とは違う、獣臭さはあるが味わいの深さがある。ごくんと飲み干し、まだのたうち回る銅矢を見やった。
銅矢が動けないままであるから、デルウハは簡単に彼に近付く事が出来た。ただでさえ死闘を繰り広げて体は限界値を超えているはずだ。そこにデルウハが極上の手ほどきを彼に与えたので、銅矢の体はぎしぎしとした強い痛みと同時に唐突な幸福が湧き上がり、その混乱によって彼は気を失ったのだった。それが、いちこには分からぬ事実である。
デルウハが銅矢を連れてきたのは、敗北者の身を自由にする気であった。銅矢の血を吸う為である。雌雄は決したのだ。もう銅矢がデルウハに逆らうことは無いはずである。だが、目が覚めた時に銅矢はデルウハに発砲した。直前の混乱を思い出し、手負いの獣のように暴れ回ったのだ。だがデルウハにとってはその暴動もかわいいものであった。銅矢がひとしきり暴れて気が済んたと思われたあと、銃を取り上げて捕虜部屋に入れる。銃は取り上げられても、その時の銅矢はまだ抵抗出来た。それでも、彼はあの快感に囚われたのか……それ以上に抵抗はしなかった。
いちこが牢を訪れた時、銅矢は普段通りの銅矢であった。食事を持ってきたのである。維持や管理は長女であるいちこの仕事なのだ。銅矢は必要以上にいちこに擦り寄ってこなかったし、甘えたり媚びもしなかった。もしかしたら、と身構えていたいちこは拍子抜けする。銅矢はてきぱきと与えられた食事を食べ、カトラリーを盗んで脱獄をはかるような真似すらしなかったのだ。
「あの、美味しかったですか」
「ああ、いつも通り美味しいよ。いいもの使ってるんだろ? 捕虜なのに」
「主さまは、捕虜とは考えていないようですよ。もっと大切な…客人、とか」
いちこはそこまで言って、大変白々しいことに気が付いた。牢屋に、鉄格子に入れている人間が客人とは、まるで銅矢を馬鹿にするかのようである。慌てて訂正するが、銅矢は気にしていないようだった。
「気にしなくていい」
「……でも」
いちこにとって銅矢は、恩人でもあった。剣術の先輩のような立ち位置である。幼い時から剣術に慣れ親しんだ銅矢は、憧れのような存在だ。その憧れが、今目の前で鉄格子の中に甘んじている…。その事実が少しずついちこの中に不満となって、ある晩彼女はある物を持ってきた。
ちゃらりと鳴らしたのは、牢屋の鍵であった。銅矢は眉を顰める。
「いちこ、それ」
「なんだか、私嫌 なんです。貴方がずっとそこにいるの…抵抗もせずそこにいるの。見てるのが、嫌で、辛くて」
いちこは銅矢を見ずに鍵を手渡さんと、手だけ差し伸べて横を向いていた。銅矢が手を伸ばせば、届く距離である。まるで試すかのように、あるいはいちこ自身もこの行動で何かを試しているように、取って欲しいと思いながら取らないで欲しいと願っていた。銅矢が、手を伸ばそうとしたその時である。
「何してる」
いつの間にか、デルウハがその場にいた。緊張感で気が付かなかったのか? いちこは手を引っこめることが出来なくて呆然と主人を見上げる。デルウハは眉だけを動かし、この顛末を眺めていた。
「それは鍵か?」
「あっ、あの」
いちこの不義理を、いちこは告白しようとした。だがその前に銅矢の声が割り込んでくる。
「俺が頼んだんだ。ここの鍵を持って来てくれって。な?」
いちこは反射的に頷いた。デルウハから漂う冷たいものに耐えられず、咄嗟に嘘をついたのだ。デルウハはその嘘を鵜呑みにはしないようだが、いちこの手前、銅矢のせいとした方がこの場はうまく循環する。それじゃあお仕置が必要だな、と呟いたと思うとデルウハは鉄格子をすり抜けて中に入り込む。そして振り返ると、いちこに鍵を戻すよう言った。銅矢といえば、デルウハに顎を掴まれて抵抗もしない。
牢屋はデルウハの部屋に繋がっており、そのまま二人は鉄格子の向こうに消えていった。いちこはぺたんとその場に座り込む。握りしめた鍵は温まり、なんの意味を成さないのに、存在感を主張するように手の肉の中でゴツゴツとしている。耳を澄ましていたのだろうか、ふと聞こえてくる声があった。
「く、ぁ…あ、あぁ…」
銅矢の声である。それ以上は聞いてはいけない気がして、いちこは立ち上がるとよろよろとその部屋を離れるのだった。
「銅矢さん、ごめんなさい」
翌日、銅矢はデルウハの部屋から出てこなかった。だから翌々日にいちこが鉄格子に向かうと、新品のワイシャツに身を包んだが銅矢がいた。いちこの謝罪に、彼は首を傾げる。
「いちこは俺の為にしてくれたんだろ。いいよ、気にしなくて」
「……でも」
銅矢の顔はいつも通りであった。どうしていつも通りなのかと思う程に、真っ直ぐな顔であった。いちこはそれが不思議でならない。銃も奪われ、抵抗する手段を無くしたのに、五体満足というだけでどうしてそこまで平然としていられるのだろうか。銅矢はその視線に気付いたのか、声を少しだけひそめる。
「俺はまだ諦めてない。だから、心配するな」
その顔を見た瞬間、もしかしたらこれがいちこの初めての恋かもしれなかった。銅矢のあの真っ直ぐな顔! 叶わぬこの感情だ、でもきっと、また彼の為に何かをしてしまう。それがいちこの身を滅ぼすのかはまだ分からないのであった。