一話 「銅矢」
「どうか、どうか道場の口利きをお願いできないでしょうか!」
いちこが叫んでいる。彼女は地べたに正座をしており、そんな彼女がまっすぐに見つめるのは、大変に困惑した顔で見下ろしている銅矢だった。
誤解なきよう言葉を尽くすのだが、銅矢は自然と立たねばならぬ状況である。だから正座するいちこを、見下ろしたくて見下ろしている訳では無い。彼は玄関に呼び出されたのだ。その場合、普通は立って用事を済ませに行くだろう。銅矢の直前の行動はまさにそうだった。よほどの理由が無ければ、這いながら玄関に向かう人間はいない。そうして扉を開けたら、玄関の前にいちこが正座していたのだ。唐突な状況に、銅矢も戸惑っている。
一方のいちこは礼節を尽くす為であろう、身を縮こませて土下座をし始めた。彼女がいるのは銅矢の家の玄関先である。人々が行き交う道路の上である。そのため大変に目立っていた。銅矢は改めて困惑している。
ここは本所にある住宅街である。銅矢の家はそこに構える一軒家だ。小ぶりであるが、庭には一本の桜の木があり、金魚鉢を置ける大きさだ。そこに彼は妹と二人暮らしであった。二人暮らしであるのには十分すぎる大きさである。生活に不満はない。そんな穏やかな生活を送る家である。もともとは武家屋敷が多い地域であるためか、閑静な住宅街であった。だがその静寂を破るかのように、いちこは大荷物を背負って突然現れたのだった。
「お願いします!」
よく通る声を彼女は更に張り上げる。だが声は地面にわんと響き、ただ事ではない。その騒ぎに、何事であろうかと妹の貴由も玄関で様子を窺っていた。それだけでなく、近隣の家からもお手伝いさんや奥様方が窓から顔を覗かせている。いちこは少女だ、その正体は置いておいて、見た目はいたいけな少女である。そんなか弱い少女を地べたに座らせ、あまつさえ土下座までさせている。まるで銅矢が非道な行いをしているかのようだ。困惑している場合ではないと、銅矢は慌てていちこの顔を上げるよう言った。
「いや…だから…」
「お願いします!」
「とりあえず、家に入ってくれる…?」
いちこの目的は分からないが、ここではとにかく目立つ。いちこはそれを狙っているのだろう。大風呂敷を横に抱えた少女は、明らかに訳ありである。このままでは近所の目が気にか掛かるし、明日からご近所になんと言われるか分からない。銅矢はいちこを立ち上がらせようとした。だが怪力の少女は固く、肩を持ったくらいではまったく動かなかった。そこをなんとか家に挙げようと頭を回転させていた時だった。
「お兄ちゃん、お知り合い?」
貴由が助け舟を出した。いちこは貴由にとっては見知らぬ少女だ。銅矢の知り合いなのだろうともぴんと来ていないらしい。貴由の声で、いちこの体の緊張がほんの少し解けたらしい。銅矢はその隙を逃さず、いちこを慌てて家の中に引きずり込むのだった。
風呂敷はいちこを中に入れた後、銅矢が回収した。あまりにも大きかった為、玄関につっかかったのだが角度を変えてなんとか入れられた。何が入ってるんだと思ったが、少女の荷物を解くわけにはいかない。とにかく中身は置いておいて居間に通すと、いちこはこたつの前で正座をしていた。貴由が気を遣ってお茶を淹れている間に、いちこは対面の銅矢に頭を下げる。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お初にお目にかかります、いちこと申します。以前に鎌倉の屋敷でお会いしたと思いますが…」
「ああご丁寧にどうも。俺は銅矢……じゃなくて」
どうにもいちこの調子である。銅矢は咳ばらいをし、なんとか調子を整えようと試みた。
「挨拶はいいんです。…そうじゃなくて、なんなんですか急に。さすがに、家の前で面倒事を起こさないで欲しいんすけど…」
「それは、申し訳ありません。私の覚悟を知ってもらうためには、ああするしかないと思って…」
「覚悟って」
そこで貴由がお茶を淹れてくれ、銅矢は来客用の茶碗でひとまず喉を潤した。突然の事で喉はからからだ。いちこも一礼してお茶を飲む。彼女も緊張していたらしい。お茶を流し込んだ時に引っ掛かりを覚えたのか、噎せ始めた。
「…げほ、それで。けほ、お願いが」
「あの、落ち着いてからでいいんで」
「すみませ、ん。けほっ」
なんだか拍子抜けである。銅矢もつられて噎せそうなので、お茶を置いた。いちこはしばらくすると落ち着き、話をし出す。
「実は私、剣術を学びたいんです。それで調べたんですが、銅矢さんは道場を経営されているとのこと。でも今は、新規で募集されていないと聞きましたので…」
「……お帰り下さい」
「え?」
銅矢は冷たい口調で言い放った。いちこはその冷たい言葉に驚いて顔を上げる。見上げた銅矢はいつもの天性の爛漫さは見当たらない顔だった。怖い顔の成人男性である。いちこはぎょっとしたようで、その後少し怯えたような顔をする。銅矢はしまったと思った。子供を怯えさせるつもりはなかったらしい。
「ああ、すみません。…でも、せっかく来たのに無駄足ですよ」
「え、でも」
「道場は俺の関与しないところで動いてます。だから俺に言われても、なんともならない」
「そこを、そこをなんとかなりませんか? 私。私…家を出てるんです。強くなるまで、戻らないって主さまに言って…」
「え?」
銅矢は思わぬ言葉に驚く。今何と言った? 強くなるまで戻らない? どこに? いちこが戻る場所は決まっている。デルウハの屋敷である。そう考えると、いちこの大荷物の意味が分かる気がした。強くなるまでは戻らない。家には帰らない。その為の大荷物である。そしてどこに泊まるのか? そう考えるといちこは銅矢の家に泊まる気なのかもしれない、そこに辿り着いた時、銅矢は青ざめた。そしていちこも銅矢の変化に気付き、青ざめる。咄嗟にいちこは正座から前のめりになり、もろ手を付くのだった。
「あの、迷惑はかけません! お願いです。道場に入ることが出来るまで、ここに置かせてもらえませんか…!」
「はああ!?」
「迷惑はかけませんので!」
なんで? なんでそうなる!?
「いや、あの、屋敷から通える道場を探せばいいでしょ…ていうか、都内なら幾らでもありますよ…!」
「でも、私は銅矢さんの道場がいいんです。天然理心流の道場が…!」
その言葉を聞いた瞬間、銅矢は再び顔を顰めた。二度目なのでいちこも怯まない。銅矢をまっすぐに見上げている。
「…何度でも言いますけど。俺はあの道場とは何の関係もないんです。だから弟子入り志願であっても、俺に言われても困ります」
「でも、私には他につても無くて…」
「デルウハさんに頼めばいいでしょう。あの人なら、幾らでも」
お金がある、と言いかけてそれは口にするのは憚られた。金で物を言わせろというのには、いちこは真っ正直であるからだ。
「それが…海外から来た富豪の娘に教えるのなら、習い事の延長という形が多くて…」
「それは、まあ…そうかもしれませんね」
世の中には目という物がある。唐突に現れた大富豪の娘が護身術をしたいといっても、それは嫁入り前の手習いだと思うのが、今の自然な日本の在り方である。だがいちこは、どうやら本気で剣術を学びたいらしい。その為に伝手がないかと探ったら、銅矢という名前が浮かび上がったのだ。それが宿敵の銅矢であると気付くのに時間はかからなかった。珍しい名前であるから、間違いではない。
天然理心流の銅矢道場。それがいちこが通いたい道場であった。
「…それで、わざわざ俺の所に?」
「はい」
「女の子一人で?」
「はい。姉妹を巻き込む訳にはいきませんから」
「嫁入り前の娘を、男がいる家に置くわけにはいきませんよ。デルウハさんにもそうお伝えしてください」
「主さまにはそう伝えてあります。でも、反対されませんでしたよ。それに、うちのいつかが銅矢さんなら大丈夫だって…」
銅矢は脱力する思いである。
幾らつてがなくて、偶然に道場の親戚の人間を見つけたからといって、嫁入り前の子供を若い男のいる家庭に託すだろうか。それも何より忘れてはならぬのは、仇敵の関係性の人間に…!?
「あー。あのですねいちこさん。せっかく頼ってもらってなんなんですけど、俺は貴方の役に立ちません。それに貴方を預かるのも、公序良俗から無理です」
「そんな、どうして…」
「どうしても何も…」
吸血鬼に人間社会の感覚を説明するのは苦労する。いつかの時もそうであった。水着で走るなと何度も口酸っぱく言ったが、いつかは聞いてくれなかったのだ。いちこに、男の家に泊まるのは風紀が乱れるものだと伝えたいが、今は貴由がいる。言葉を選んでなんとか分かってもらうのには、正直骨が折れそうだ。それならば力押しで帰ってもらうしかない。
「とにかく、帰ってください」
「いいじゃない。お兄ちゃん、いてもらえば」
貴由が間に入って来る。今までの会話を聞いていたのだろう。いちこが吸血鬼であるとは知らぬ妹は、あっけらかんと家にいてもらえばいいと言う。いちこはぱっと顔を明るくさせた。
「いいんですか!?」
「ダメ、ダメダメダメ!」
「お兄ちゃん? いちこさん、困ってるんだよ。困ってる人は見過ごせないよ。お兄ちゃんもよくそう言ってるじゃない」
「そう…なんだけどぉ…」
貴由は銅矢の妹らしく、まっすぐな性根を持っているらしい。彼女はいちこに、にこっと笑いかけた。
「うちはいつまでも居てくださっていいですからね。道場も、兄から口利きしますから」
「貴由…!」
何を勝手にと言いたいところだが、銅矢は貴由に甘い。妹に言われてしまうとあまり強くは言い返せなかった。銅矢はがっくりと肩を落とす。いちこは嬉しそうに顔を明るくしたままだ。
「ありがとうございます…よろしくお願いします! 炊事も洗濯もなんでもやりますから!」
「ああ…うん…」
銅矢はなし崩しに共同生活が取り付けられたので、やはり肩を落とした。今度デルウハに会ったら、文句を言おう。いつかはまあ、了承して出掛けたのでそう思われても仕方ない。自分の蒔いた種であるが、銅矢は朝から頭を掻くのだった。
二話 鯛
共同生活を完全に了承していないものの、行き場のないいちこはその晩銅矢の家に泊まる事になった。貴由の作ってくれた食事を済ませ、風呂を済ませる。銅矢は慣れないが、貴由は三人目がいる非日常を喜んでいるので何とも言えないでいる。内風呂をいただき、ほこほこと湯気が立ついちこに、銅矢は寝室を案内した。玄関から一番遠いところに和室があり、そこは襖で区切られて三部屋並んでいる。その一番右端の襖を開け、銅矢はそこに荷物を置くよう言う。
「ここ使ってくれていい。いつもは物置だけど、どかしたから」
「ありがとうございます」
「俺は隣にいる。その向こうが貴由が寝てる場所だ」
いちこは首を傾げた。貴由はいちこに懐いている。一緒に寝てもいいくらいであるが、あえて銅矢が間に入るのは不思議そうであった。銅矢はその視線に気が付き、目線をすうと鋭くする。
「俺は君をそこまで信用出来ない。吸血鬼の本能は、夜に強くなると聞いた。今は良くても、夜中に襲い掛からないとも限らないだろ」
「…分かりました。だから貴方を間に置くんですね」
「そうだ。男の横で嫌かもしれないが、そこは我慢してくれ」
いちこは不思議そうに首を傾げる。銅矢の横はそこまで嫌ではないらしい。というより、貞淑だとか貞操だとかの方面で危機感が薄いのかもしれなかった。そこはまだ、いちこは子供なのかもしれない。銅矢はなんだか自分が気にするのが馬鹿らしくなって、自分も寝室に引っ込むことにした。その背を眺めていたいちこだが、思わず声を上げる。
「あの!」
「…ん?」
銅矢は振り返る。いちこは表情を固くしていたが、頭を下げるのだった。
「ありがとうございます」
「…道場の口利きまでだ。うまくいくか分からない。もし出来ないのなら、すぐに帰ってもらうからな」
そう言い放ち、銅矢は襖の向こうに消える。彼はどこまでも冷たかった。いちこは、いつかに散々いい奴だからと吹き込まれていたのでその態度が不思議であったし、やっぱり仇敵の関係性だからかなと納得して少々だけ寂しい思いを押し殺す。布団を敷き、いちこはそこに横になるのだった。
翌朝である。朝は平等に、何があっても訪れるものだ。銅矢が目を覚ますと、いちこと貴由の楽しげな声が聞こえてきた。銅矢は体を起こす。貴由が楽しげであることが、銅矢にとっては一番の事態であった。だが油断はできない。身支度をして台所に行くと、二人が朝食の準備をしているのだった。いちこは外に仕事がある訳では無く、彼女が朝の炊事と家事を済ましたのを確認すると、銅矢は出勤するのだった。
あっという間にその日の晩である。いつもは家に一人きりの貴由は無事であろうか、心配はあるがホットラインへの通報は特にない。それに昨夜けん制したのだから、よっぽど大丈夫だろうと思いながらも、銅矢はそわそわと仕事をこなして急いで帰るのだった。
家に入ると、貴由が玄関に座っている。彼女が膝を抱え、何かそわそわとしながら待っているのだ。自分の家なのにである。銅矢がどうしたんだと尋ねると、いちこがもてなしてくれるから待っているのだと言う。貴由は右足が義足である。膝を抱えていると、その義足が着物の裾から覗いて、少し寒そうであった。銅矢は貴由にコートを掛けてやっていると、おかえりなさいといちこが玄関に顔を出す。
「ごめんなさい、お待たせしました! どうぞ!」
笑顔のいちこに導かれ、中に入ると台所から良い匂いがふわあと漂ってきた。いちこは銅矢のコートにブラシを掛けながら、貴由は良い匂いにつられて顔を輝かせている。
「良い匂い…!」
いちこがにっこりと笑いながら言う。
「鯛がいいのがあったので、買ってみました。とっても器量がいいんですよ」
「鯛?」
銅矢は思わず繰り返す。庶民にはあまり身近ではない魚だ。さんまやイワシが食卓に並ぶのに、鯛とはハレの日の御馳走である。貴由もその感覚なのであろう、鯛だと聞いて首を傾げた。
「すごーい、何かのお祝いなの?」
「え?」
「え?」
いちこと貴由は互いに顔を見合わせて不思議そうに繰り返した。銅矢はその様子を見ながら、どうやらお祝いのつもりではないらしいと判断する。いちこは、あくまで市場に出たらいいものがあったら買ったと言うのだ。貴由を見やる。財布を預けたのかと尋ねると、お夕飯の買い出しはいちこに一任したようだ。つまりこの鯛は……銅矢は嫌な予感がしながら尋ねた。
「それ…いくら?」
「え? 三円です」
銅矢はその場に倒れた。
「お兄ちゃん!?」
「ど、どうしたんですか…!?」
貴由に抱えられなんとか体を起こす銅矢を見ながら、ようやく気付いたのかいちこはあっという顔をした。ここはデルウハの屋敷では無い。一介の軍人である銅矢の家である。貴由も高級品だという目で鯛を見ていたので、鯛を平常時に食べるデルウハの感覚にはこの家の生活はそぐわないのだ。いちこは慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。いつもの癖でつい…!」
「わあ、いつもこんな素敵なの食べてるの? すごいね!」
「お、おう。そうか…そうだなそうだよな…」
銅矢はかなり動揺している。まさかそんな高級品が並ぶとは、おまけに自分の懐から出ているとは思うと、震えるのだ。だが貴由は喜んでいるし、いちこも悪気があった訳ではない。それは十二分に分かるので、震える声でなんとか平静を装うのだった。
「食べよう。もう料理もしてくれてるし、せっかくだもんな…」
「いいの?!」
「いいに決まってるだろ。せっかくだし…」
「やったぁ!」
貴由は嬉しそうに食卓に着く。銅矢も食卓に着いた。だがまだ震えが収まらず、箸ががくがくと上下に揺れる。銅矢家の食卓に並んだのは、鯛の刺身に鯛めしであった。他は出汁巻き卵や大根の葉の漬物(これは銅矢家のものだ)。普段食べないような桜色の彩りが、銅矢の前で光り輝いて見えた。
普段食べることのない高級食材である。次はいつ食べられるか分からない上等なものだ。一生食べる機会は無いかもしれない。安い醤油にひかる桜色の身。さくさくとした歯ごたえに上品な脂の甘み。飲み込むのがもったいない旨味…。銅矢が噛み締めて噛み締めて食べるのを、いちこは申し訳なさそうにしながらおかわりをよそうのだった。
さらに翌日のことである。銅矢は軍部に来ていたデルウハに出会うのだった。再び司令室から出て来たデルウハを捕まえると、庭に向かう。デルウハは今度は何だと言わんばかりであったが、銅矢はどうなってるんだと思いながらかいつまんで事情を説明した。だがデルウハはにべもない。
「推薦人がいるんだ、現に問題はないのでしょう?」
「だから。嫁入り前の娘に何かあったら。…傷物になったら問題でしょう、と俺は言ってるんです」
「問題が貴方の家で起きてるとでも?」
相変わらず吸血鬼の感覚では、それは問題ないらしい。万が一に銅矢と過ちが起きそうになっても、いちこの怪力なら問題ないからということなのだろうか。それとも、吸血鬼ごときに人間が襲えると思えないという傲慢さか。この時代、女が守るべき貞淑の意味が分かっていないのは浮世離れとみるべきだろうか。それをいちいち説明する義務は、銅矢にはない。
まあそれはいいと銅矢は切り変えた。それはいいのだ。銅矢とて妹と年の近いいちこが恋愛対象にはならない。しかし問題は、鯛である。その話をすると、何に問題が?とかえって尋ねられるのだった。デルウハの感覚ではその鯛は、普段から食べている物なのだろう。銅矢は息を吐いた。
「…デルウハさん。俺の給料の額、知ってます?」
「知らんが」
「十五円です」
司令室から珍しく兼東司令が外に出ていた。普段軍部をうろうろすることはないが、伝え忘れた事があるらしく、彼女はまだ軍部にいるであろうデルウハを探していたのだ。
そこで兼東司令は、庭で銅矢に頭を深々と下げているデルウハを見つける。
「デルウハ殿!? 銅矢、何してる!」
「兼東司令! は、デルウハ殿に謝罪を受けているところであります!」
「なんで貴様が謝罪を受けているんだ!?」
事情を知らぬ兼東司令からすれば、大変な光景であろう。だがデルウハは頭を下げ続けている……三円の鯛は、銅矢の給料の五分の一であった。十五円のうちの三円。そこから光熱費や食費、生活費を差っ引いて生きるとしたら……庶民の一食分の食費としたら、あまりにも痛い買い物なのだ。デルウハはようやく頭を上げ、困惑する兼東を見やる。
「兼東司令、気になさらないでください。私がご迷惑をおかけしているので…」
「いやしかし。一介の軍曹にだな…」
「とにかく、私どもの話ですので。銅矢くん、また話そう」
「分かりました。でも、弁償などは結構です、施しは受けたくありませんので」
「しかしだな銅矢くん」
「それでは失礼いたします」
銅矢は兼東とデルウハにそれぞれ一礼し、さっさとその場を去って行くのだった。
翌日。翌々日とデルウハは軍部にやってきた。三円を持って来てである。当然、出勤している銅矢とは会うものの、その度に庭に呼び出すものの、銅矢は鯛の料金を頑なに受け取らなかった。
「今日も用意してきた。すまなかったと思っている」
「またですか」
「君だって、金は必要だろう。霞を食べて生きることは出来ん」
美食家で富豪のデルウハからすれば、三円ははした金である。だが銅矢には違う。自分の事だと置き換えれば、世界を見る目は色々と変わって来るのだ。銅矢からすれば三円は大金であろう。彼は封筒を見つめてしみじみと呟く時があった。
「鯛の料金……」
喉から手が出る程に欲しい、と顔には書いてある。だが銅矢は頑なであった。
「施しは! 施しは受けません! 吸血鬼に借りを作るなんてまっぴらごめんです!」
「施しじゃない、正当な代金だ」
「とにかく結構ですから! 俺が…俺が節約すればなんとかなるんです…」
そう言う銅矢の顔は、明らかに暗かった。緊急に家計簿の見直しが行われ、緊縮財政が起きているのは傍目にも分かるった。いっそ机に置いておこうか、服にねじ込んでしまおうかとデルウハは考えるが、銅矢が受け取るとも思えなかった。屋敷まで返しに来るのがオチであろう。最近のデルウハの試案はもっぱらこの鯛の料金であった。いつも所在なさげな三円が、封筒に入って懐に入っている。
その折、デルウハは所のもとに行く用事があった。人間のことは人間に相談するのが一番であろう。研究の進捗を確認し、新たなアイディアを伝えたところで、デルウハは切り出した。
自分が吸血鬼で、眷属である娘が外に…などと馬鹿正直には話していない。銅矢と示し合わせた内容は、デルウハの女中の一人が家出をしてしまい、現在面識のある銅矢の家に世話になっている…となっている。それだけにとどまらず、銅矢の家で鯛を誤って買ってしまったのだが、立て替えた銅矢がその代金を受け取ってくれないのだ、と話すことにした。顛末を聞いた所長は、小さく笑う。
「はは、銅矢くんらしいなあ。それならば、鯛はデルウハ殿が贈った事にしたらよろしいんじゃないですか。世話になるからって持たせたことにして、でもその代金を持たせるのを忘れてしまった。だから銅矢くんが一時的に立て替えたってことに…」
「それだ」
流石に年の功である。
デルウハは所長に礼を言うと、その方向で進めることにした。さっそく翌日に銅矢にそのままを伝える。相変わらず嫌そうではあるが、背は腹に変えられないらしい。だが彼が受け取ったのは鯛の代金だけで、追加で用意した居候代は受け取らなかった。
「それは、いいです。そんなの無くても生きていけますから」
「そうか、分かった。だがいちこにこれは持たせておく。それはいちこが家から持ち忘れてしまった金だ、困ったら君が使えばいい」
デルウハの温情のような言葉に、つんと銅矢は横を向く。そんな金には頼らないと言わんばかりであった。
あれからいちこは貴由に家計簿を見せてもらい、一緒に買い物に行ってみて、安くいい買い物をすることを覚えたらしい。今日は安くいいものが買えました!と目を輝かせて報告して来る次第だ。三人の共同生活はようやくうまく回り出していた。今のところ、いちこの血の衝動は見られないし、貴由はいちこと勉強が出来て楽しんでいる。
一方の銅矢は気が重い。彼はある場所に手紙を出さなければならなかったのだ。だが日常にかまけ、任務にかまけて、先延ばし先延ばしにしている。…どうしても一文目が浮かばないのである。しかし、このままいちこをここで遊ばせておく訳にはいかない。ずっと置いておく訳にはいかないのだ。鯛の料金を受け取ったその晩、意を決し、銅矢は自分の祖父宛てに手紙を書くのだった。
三話 お泊り会
「御令孫さま、御令孫さま!」
「御令孫さま、お久しゅうおございます!」
これらは道場に響く声であった。道場の真ん中を悠々と歩く銅矢を取り囲むかのように、道着を着た者たちが挨拶を浴びせかけている。銅矢は不機嫌さを押し殺すような顔であるが、手をたまに挙げつつも前ヘ前へと進んでいた。その様は悠々たるものである。まるで当たり前のように、尊敬と敬称を一身に浴びながら歩いている。
そんな銅矢の後ろを、道着を着たいちこが恐縮しながら付いて行った。まるで銅矢は殿様のごとき扱いで、いちこはどんな顔をして付いて行けばいいか分からない。とりあえず銅矢にぴったりとくっつくようにして、足音に気を付けながら抜き足差し足で進む。だが焦るとどうしても歩幅が早くなり、どすどすと足音が立つ。その足音を恥ずかしいと思う思春期ではある。いちこは俯きながら、顔を隠すように前へ進むのだった。
道場は柔術の練習場の奥に、更に剣道場があることで繋がっていた。ずかずかと進む銅矢は本堂である剣道場に辿り着く。いちこも続いた。しん、とした広い空間である。思わず彼女がきょろきょろと周囲を見渡すと、そこは先ほどのように弟子らしき人達がいなかった。部屋の一番奥に、鎮座ましましている床の間には掛け軸が一幅掛かっていた。何か特別な意味があるのだろうと思っていると、その手前の板の間に、腰を下ろす人物がいる。彼が道場主であろう。
銅矢はその前まですたすたと歩くと、どっかりと腰を下ろした。いちこも慌てて続く。だが銅矢の横に座るのは少し怖くて、緊張感があるので斜め後ろに座った。道場主から隠れるような形である。いちこは俯いた。だが彼女の事情など知らぬ銅矢は、さっさと話し始める。
「…お久しぶりですね。師範」
「戻ったか。さて、お前の手紙の件だが」
「後ろにいるのが入門希望者です」
銅矢は振り向く。ちょうど自分に隠れるようにしているので、いちこを見て怪訝な顔をした。あっと気付き、いちこは慌てて銅矢から飛び出るように横に移動し、頭を下げた。
「いちこと申します。あの、その…よろしくお願いいたします」
「経験は」
「経験はありません。天然理心流としても、剣術も素人です」
銅矢の言い方に、いちこは更に頭を深く下げた。かなり本格的な道場である。規模も大きく、道場に弟子らしき人間も多く活気もある。だが、あまりにも本格的であるので気後れしてきたのだ。いちこが学び取るのには、あまりにも場違いな気がした。当初、デルウハから打診した際にお嬢様のお稽古程度の道場を案内された理由が今更に分かる。ここに飛び込むのは、結構な覚悟が必要である。改めて自分の覚悟を揺らがされる気がした。
いちこが剣術を学びたい理由は、ここに来る前に銅矢に話していた。貴由はおつかいに行ってもらい、二人きりである。
「私達の能力は、もうご存知でしょう…? むつと戦ったと聞きましたし」
「まあ、いつかも見たことはある。血を操るんだろ」
「そうです。私達は怪力の他に、主さまと同じ血を操る能力を身につけたんです。ですが…」
いちこは何故か銅矢から目線を逸らす。銅矢から逸らしたという訳ではなく、何かへの後ろめたさからなのだろう。
「私、血を操るのを止めようと思うんです」
「はい?」
「確かに、操ることは出来るんですけど…でも、妹たちみたいには出来ないんです」
「…その、俺に言われても困るんだが。まあ、そう考えてるならいいんじゃないか? 自由にすれば」
「そうなんですけど、それだけじゃ武器が足りないんです!」
いちこは銅矢にずずいと近寄って叫んだ。銅矢は突然そんな事を言われても困るのだが、その腕を振りほどけないでいる。怪力をこんな形で使われても困るのだが、いちこはひたすらに銅矢に迫っていた。
「主さまを守るのには、違う力が必要なんです。真祖から狙われる事もあるのに、私だけ血の能力を使えないとなったら、妹たちの足を引っ張ってしまう」
「だから私、剣術を学びたいんです。最終的には貴方みたいに銃を使えるようになりたい。でもまず銃よりも剣術! 剣術の達人は銃もうまく扱えると聞いたので!」
「だから私、すぐに強くなりたいんです…!」
いちこの切実な願いは、こたつを超え、銅矢にずずいと迫る事で熱意は伝わった。だが銅矢にそれをぶつけられても困るのだ。銅矢は体勢を崩しながら困っていると、いちこははっと気が付いたのか慌てて身を引いていった。
「す、すみません」
「いいんだけど…それが剣術を学びたい理由?」
「はい!」
「悪いけど、それじゃ強くなれないと思うな」
「え?」
銅矢の言葉に、いちこは驚く。だが銅矢はそれ以上は何も言わずにいた。いちこも驚いて、それ以上はあまり聞けなかったのだ。姉妹であれば、銅矢に聞けたのだろうか。にこやよみ、いつかなら。そう考えているも、いちこは自身で聞くことが出来なかったのだった。
その三日後である。銅矢から道場の手筈が整ったからと、道着を買うように言われてその分も銅矢が立て替えた。いちこはデルウハに届けてもらうと言ったが、それも銅矢は頑なである。そうして訪れた道場だ。
いちこがいつ顔を上げて良いか分からないでいると、道場主が顔を上げるように言った。
「ふむ、分かった。ならば子供らと同じ指導で進めよう。構わないな」
「は、はい! よろしくお願いいたします…!」
「返事は元気でよろしい」
顔を上げて目線が合った道場主が優しく微笑んでくれ、いちこは安堵した。そうして銅矢が一礼。いちこも慌てて一礼し、銅矢が下がるといちこも後を付いて下がる。これで顔見せは終了し、入門を了承されたのだろうか。いちこにはよく分からぬ世界である。だが銅矢が何も言わず、道場主は指導をしてくれると言ったのだから、ひとまず入門するという関門は通過したらしい。今まで身を包んでいた緊張感から解放され、いちこは少し足元がおぼつかなくなりそうだった。それでもなんとか練習場に戻ると、ぴりっとした緊張感と共に銅矢に一斉に頭を下げる弟子たちの姿がある。
先ほどは圧倒されて疑問に思わなかったが、本当に銅矢は道場の関係者なのだと思った。親戚であればいい、口利きをしてもらえれば…とその程度の関係性を想像していたのだが、目の前にいる銅矢はどうやらこの道場主の御令孫、つまり孫であるらしい。それも久々に顔を出したのであろうが、かなり慕われているようだ。いちこは結構な人物に口利きを頼んだのかもしれないと思う。
だが銅矢は、道場のある世田谷区から離れたところに暮らしている。それに、先程から少々不機嫌そうであった。その理由はいちこには分からない。そうしているうちに道場主と師範がやって来て、練習が始まった。活気のある次第である。だがまだ練習に参加できるわけでもなさそうなので、いちこは遠巻きに眺めるだけだ。しかし銅矢は、顔馴染みの弟子に何やら話しかけられて木刀を持たされている。銅矢が木刀を構えた。その恰好はお手本のように美しい姿勢であった。昔から木刀を手に持ち、構えを知っている者である。いちこは思わず驚いた。
「御令孫さま、お手合わせをお願いします」
「分かった。だが、腕は落ちてるぞ」
「お願いします!」
何名かとの打ち込みを経て、銅矢は道場を後にしようとする。その背を、慌てていちこは追い掛けるのだった。
道場では汗をかかなかったとは思ったが、着替えてみると緊張で少し濡れていた。いちこは待たせぬように急いで着替えると、風呂敷に包み込む。道場を出ると、着替えた銅矢が待っていた。
道場での約束の時間は午後一時であった。今は二時前になっている。まだ日が高くあたたかな陽気の中で、銅矢はようやくほっとした息を吐いた。
「よし帰るか」
「はい! …あ、でもちょっと私、家に寄ってもいいですか」
「ああ…そのまま帰ってもらってもいいけど」
「もう、なんでそんな意地悪言うんですか! 荷物まだおうちですから、戻ります。お金だけ持ってきたんです」
「分かった分かった、好きにしてくれ」
いちことはそこで別れる。ここは世田谷区なので、少々鉄道は不便だろうがまだ日中だ。女の子一人でも、家まではなんとかなるであろう。銅矢はといえば、貴由が待つ家にすぐ戻ろうと思ったがなんとなく誰かと話したい気分であった。そういえば、用があったのだ。彼はそのまま軍部に向かう。本日の銅矢は非番である。ついでに忘れ物をしていたのも思い出した。
軍部では非番時に来るなと先輩に釘を刺されたものの、へいへいと軽く流し、なんだかんだと話をしているとあっという間に四時になる。銅矢はやばいと思った。気晴らしのつもりが、随分居座ってしまったものだ。また明日に!と言うと同僚たちは笑ってくれる。その笑い声を聞きながら足早に家へと帰るのだった。
「おかえり、お兄ちゃん」
貴由が出迎えてくれた。玄関まで迎えてくれるのはいつも通りだが、その顔がなんだか紅潮している。銅矢は妹の変化に、そして玄関の異常に気が付いた。女性物の草履が異様に多いのだ。貴由の草履ではない。少々高そうな、質の良い草履がなんだか無造作に脱いだままにされている。こんな客人が来る予定はないはずだ。片足のない貴由は学校に通っていないから、友人と言っても限りがある。家庭教師をたまに余裕がある時に頼んだりしているが、ほとんどは家事をして一日が終わるのだ。だが銅矢とて、女性物の草履の持ち主と知り合いではない。嫌な予感がした。貴由は賑やかなことに喜んでいるが、銅矢は本当に嫌な予感がして、賑やかな声が聞こえる居間に向かったのだった。
「あ、銅矢おかえりぃ」
こたつに当たっていたいつかが、笑顔で手を振った。その右横にはむつ、奥ににこ。左横にはみちがこたつに当たっている。いちこは台所で何か作業しているようだ。銅矢は頭を抱えた。
「待て。なんでいる?」
「いやあ、今日は寒いからね。妹さんがこたつに入ってくださいって言うからさ」
いつかが親し気に言う。むつはどこかおどおどしながらもこたつに入っているし、にこはお茶を飲んでいる。みちは何もせずにこたつに入っているが、その時いちこが皿に盛った何かを持ってきた。見慣れないものである。家に唯一ある大皿に乗せたそれは黄色の、洋菓子のようだった。
「ほらピラミッドケーキ(これは昔の呼び方で、今はバウムクーヘンである)切ったから静かに! あ、ごめんなさい。妹たちがちょっとお詫びのケーキを持って来るって言うもので…」
銅矢を見ていちこは頭を下げる。そう言いながら、その大皿をこたつの上に乗せた。フォークが無いからか、爪楊枝が刺してあった。銅矢は唖然としながら言う。
「お詫びのケーキって…」
いつかがぱんと手を叩き、コートを片付けている貴由に向かって手招いた。
「あーそうそう! ピラミッドケーキ! これ高いんだぜ、妹ちゃんも食べよう食べよう」
「わーいいんですか!」
「お持たせでごめんね~」
そう言いながら、にこは爪楊枝でケーキを口に運ぶ。確かにお持たせだが、銅矢がそう言って出すのなら分かる。だがにこ達が勝手に持って来て、勝手に切り分けて食べている。これは該当するのだろうか。
「…そういうの、俺が言うことだろ」
「いいのいいの~」
にこは気にも留めずにケーキを咀嚼している。貴由も珍しい洋菓子を頬張っていた。本来ならコーヒーであろうが、いちこが出したのはお茶だ。しかし馴染みのある飲み物の方がかえって、口の中の洋菓子の風味が際立って感じられる。だが、今はピラミッドケーキを堪能している場合ではない。銅矢からすれば、家に仇敵が一気に四人もやってきたのだ。その目的がよく分からない。
ケーキを持ってきたのはいちこが迷惑を掛けているのだから、という事までは分かる。だがケーキを置いて帰らないか? 帰らないで家で寛いで、何をしたいのか分からない。仇敵の家だぞ。
銅矢はおそるおそるとしながら、四人に話しかける。
「あの…なんで来たんですか…」
「えー」
いつかとにこ、むつ、みちの目線が銅矢に突き刺さった。女の子の鋭い目線は、何歳になっても苦手である。だがいつかはすぐに笑った。
「いやあ、僕が顔見たくなってさ」
「お前な。今度会う時は…」
敵と言いかけて、貴由がいるので止めた。代わりにひそひそと声を潜める。
「…そんなに簡単に会うと思わなかったんだよ。むしろ会わないだろ普通」
「僕もそう思ったんだけどさ、いちこが修行したいって言った時に、まさかねー銅矢の家が来ると思わなかったからぁ」
「お坊ちゃんなの? お金持ちかと思ったのに、なーんかおうちは小さいのねぇ」
「あのなぁ」
にこが間に入って来てからかうので、銅矢は睨みつける。こわぁいと言いながらにこはいちこの方にすり寄った。いちこは迷惑そうである。
「もう、なんでも頼って来ないで」
「ケーキ食べたら帰るから。な?」
いつかが宥めるように言う。まあそれならとこたつにあぶれながら、銅矢は小さい取り皿を受け取ってケーキをつつくのだった。
「え、これ貴由さんが作ったの!?」
その時突然みちの大声が響いた。着物の繕いのついでに、破れた着物同志を繋ぎ合わせてこたつ布団にしている。いわゆるパッチワークであるが、貴由がそこまで知識があった訳ではなく、単純につなぎ合わせたらいいと思ったらしいのだが、その繕い物を見て声を上げたらしい。どうやら、みちの美的感覚に合ったらしい。こたつ布団の他に、はんてんや掛け布団などに使っているようである。みちはもっと見せて欲しいと貴由に詰め寄った。
「そうです。私学校行ってないから…こういうのしか出来なくて」
「すごいかわいい…もっと見せて欲しい! 貴由先生!」
「え、先生?」
にこはそのやり取りを見ながらため息を吐いた。
「まーたみちの悪い所出てる」
「みちは可愛いものに目が無いんです…最近お人形とかも好きなんですけど、最近かわいいお洋服にも凝ってて」
銅矢にいちこは説明する。貴由の才能が表に出るのはいいが、その相手が吸血鬼でなければよかったのに、と思うのだった。
みちは貴由の作品に夢中で話し込んでいるし、ケーキは食べ終わったがこたつから出られないと三人はうだうだとしている。銅矢は結局こたつに当たれず、早く帰らないかなと思う始末であった。
が、結局その日は貴由が鍋を作ってくれ、寒いし暗い危ないからと泊まることになってしまった。銅矢としては非常に帰って欲しかったのだが…貴由が嬉しそうだから反対も出来ずにいる。貴由と背丈が似通っているから、貴由の浴衣など使っていないものを出してきて、それを四人の寝間着にすることにした。布団は来客用のが大人用の二組だけである。幸いにも掛け布団は、二人暮らしを憐れんで近所の人がおさがりをくれたから、なんとか一人一枚だけ補充できた。家じゅうを引っ張り出してきたのである。いちこの寝ている部屋では狭いが、そこに我慢してもらうことにして、彼らは就寝するのだった。
夜中である。いつかは目を覚ました。そもそもいちこの寝ている場所は四畳ほどだ。一人畳一枚程度である。子供にしては狭い場所だ。
眼鏡をかけ直し、それぞれの寝相にて狭くなった部屋を見やる。普段は一人部屋で眠るのだが、相部屋で雑魚寝をするのは久しぶりだ。その狭さと体温と、互いが邪魔だなあと思うこの感覚は懐かしいものがあった。だが狭いものは狭いのだ、いつかは何の気なしに襖を開けてみた。そこに、銅矢が眠っていた。
いつかは閃く。自分用の掛け布団をひっつかむと、こそこそと銅矢の横に眠るのだった。畳にころんと寝転がり、銅矢の布団に少しだけ手を掛ける。掛け布団と敷布団の間に手を突っ込むと、銅矢の体温でだいぶあたたかい。その体温に当たりながら、いつかは目を閉じてみた。
何かに蹴られる感覚に、むつは目を覚ました。むつは寒がりである。だから弾き飛ばされてしまったので、どうしようかと起き上がったのだ。銅矢の家に来るのは、彼女は躊躇わなかった。一度本気で戦闘をした相手であるが、むつにとっては銅矢は恩人である。あれから自信をもって少しコミュニティに入ることが出来たのだ。そんなむつに対して銅矢は少々変な顔をしていたが、むつは隙を見てこそこそと囁きかける。
「あのね」
「よく来られたな…俺の事あんなに倒そうとしたのに」
「うん…でもあれから、私頑張れたの。ありがと」
殺し合いでお礼? 銅矢は思ったが、むつは本当にお礼を言いたかったのかほんの少し顔色は赤らんで緩んでいる。うん、まあいいや。銅矢は深く考えなかった。
ふとむつが周囲を見渡すと、隣に繋がる襖が僅かに開いている。そこから覗いて見えたのが、いつかの髪の色だったので、思わずむつは隣を覗いてみた。銅矢がいる。その横にいつかが寝転がっているのが見える。襖を開けてみた。
「いつかちゃん…?」
「ん? ん…あ、むつ? どした」
「起きちゃって…」
「じゃあこっち来たらどうだ? あったかいぞ、こいつの横」
「あ、うん。じゃあ…」
寒さには敵わない。むつはいつかと反対のところ、銅矢の左横に寝転ぶ。むつはそっと銅矢の布団の間に手を入れてみる。あたたかい。ほっとする温かさに息を吐き、むつもころんと横になる。こうして三人並ぶのだった。
一方で、デルウハの屋敷である。豪勢なシャンデリアの下、テーブルに並ぶ美しい料理の数々。それらはデルウハと、よみの目の前に給仕されていく。よみは顔が怖かった。本来ならハントレス六人での食事であるが、いちこは今外に出ている。残りの五人での食事になるはずだが、本日の三時ごろに久々にいちこが帰って来たと思うと、いつか達はあいつの家に出掛けると言ってしまった。よみも行くかと誘われたが、なんで敵の家なんかにと断ったのだ。そうしたらまさかの全員が行ってしまったのである。そのせいかよみは不満げであったし、許可を出したデルウハにも不機嫌であった。
「よみ、そんな顔をして食事をするな」
「だって…全員行く? 普通?!」
「それは自由だろ。あの人間なら、変な事はしないだろうからな」
デルウハはワインを傾ける。目の前にあるのは鴨肉のローストだ。むすっとしながらもよみもフォークとナイフで切り刻み、口に運んだ。いつもは煩いくらいであるのに、食卓はしんとして静まり返っている。その反響が、なんだか寂しい。なんだよ、あいつら。そう心の中で悪態つき、もぐもぐと咀嚼しながら、広い屋敷を噛み締めるのだった。だが結局、ハントレスの大半はその晩は戻らなかったのだが。
デルウハにはだいたいの眷属の位置が分かる。彼女らは本所の家にいるようだ。ひとまとめになっているのが分かる。デルウハは朝早く起きると、よみを起こした。スーツ姿に中折れ帽をかぶると、自動車に乗って本所に向かうのだった。
朝早くインターホンが鳴り、起き上がった所だった銅矢が手早く身支度だけ整えて出ると、そこにはデルウハの自動車が停まっていた。デルウハが中折れ帽を取って頭を下げる。
「すみませんでした」
「うん、帰ってください」
そうしている間に早起きのいちこが出て来て、慌てたように引っ込んだ。恐らく妹達を起こしに行ったのだろう。かくしてあっという間に叩き起こされた四人は、デルウハの自動車に乗って帰っていくのだった。
「ばいばーい」
「じゃーな銅矢!」
「うん。とっとと帰って」
「こらお兄ちゃん!」
玄関で見送る銅矢は大きなため息を吐くし、貴由は銅矢の耳を引っ張る。デルウハが銅矢を呼び寄せる。また金だろうかと思ったが、デルウハは違う事を心配していたようだ。以下は小声で話している。
「…血の衝動は起きなかったか」
「起きなかったよ。長女が、輸血パックを大量に持ち込んでるからな。…昨夜も注意しようとしたら、みんな部屋で輸血パック飲んでたよ」
銅矢の記憶である。昨夜寝る前に、一度貴由の事を注意しようと思って襖を開けた時だった。全員が、輸血パックを飲んでいたのだ。いちこが大量に持ち込んだ物である。血の衝動を抑える為、輸血パックを一晩に一回、こっそり飲んでいたのだ。その為貴由の血を欲することは無く、昨夜も平穏無事である。いちこなりに考えてきているらしい。その確認をしただけで、デルウハはひとまず会話を切り上げて背を向けるのだった。そして子供らの顔を見ると、銅矢に向かって一列に並ぶ。
「最後に礼を言いなさい」
「はーい。ありがとうございました」
「そしてすみません」
そして一礼である。見事な礼に、朝からまた注目が集まっていた。なので銅矢は渋い顔をする。
「うーん目立つので帰ってもらって…」
「お兄ちゃん!」
貴由が頭を下げる。いちこはまるで銅矢家の人間であるかのように、両手を重ねて見送っていた。自動車に乗り込むと中にはよみがいたらしく、いつか辺りが声を上げるがすぐに去って行く。銅矢はあくびをした。流石に吸血鬼の横で眠る経験は少なかったし、気が付いたらいつかとむつに囲まれていて眠気が飛んだのだ。しかし仕事にはいかねばならない。
「朝飯にしないとな…」
「あ、今支度してます!」
いちこが溌溂と答える。なんだか彼女が家に馴染んでいる気がして、これはいいのかなあと思うのだった。
四話 機微
道場通いは順調であった。いちこは子供の集団に入り、走り込みから型まで習っている。銅矢はいちこがいる時に、何かあってはならぬからとなるべく同行していた。子供達の走り込みにも付き合い目を光らせていたのだが、仕事がある日はどうしても日中の鍛錬に付いて行くことは出来ない。いちこから目を離すのは不本意であったが、それがかえって御令孫の連れて来た新人は大物なのではないかと妙な勘違いを生んでいた。それにいちこも自分が心配されていると勘違いしていて、大丈夫ですからとにっこり笑う次第だ。まあ銅矢の心配はいちこ相手ではなく、彼女が血を欲した時に被害が出ないかという心配なのだが…。大丈夫だという言葉を信じ、銅矢は頭の片隅に置きながら仕事に向かうのだった。
「ただいま」
「おかえりなさーい」
貴由が明るい声で出迎えてくれた。銅矢の仕事の疲れは、この妹の声で吹き飛ぶのだ。そこに、いちこが玄関にぱたぱたとやってくる。食事の支度をしていたのだろうが、いちこはいつも銅矢に駆け寄って来た。それが銅矢の家の規則であると、疑わずに守っているかのようである。
「おかえりなさい!」
「…ん。ただいま」
まあそんな規則は無いのだが、この時代では男の帰りを女が出迎えるのは当たり前であった。銅矢のコートを預かり、いちこはブラシを掛ける。これはデルウハにもやっているらしく、手慣れていた。いちこがコートを掛けてくれて、あたたかな食事を用意してくれる。それが最近の銅矢家の夜の日常であった。
一人でやっていた貴由の負担は少なくなり、家事もいちこと負担し合っているらしい。近所では、銅矢の許嫁や押し掛け女房なのではないかと勘違いされるほどだ。まだ結婚など視野に入れていない銅矢にとっては傍迷惑であるため、否定はしておいたのだが。
はあ、と銅矢は風呂上りにため息を吐く。
「どうかされました?」
いちこがいつの間にか後ろに居たようで、きょとんとしながら尋ねて来た。銅矢は振り返る。そこにいて首を傾げているいちこを、じっと見つめた。
「…いつまでいるんだ、君は」
「いちこです。君じゃないです」
「いいだろ別に…なんだかんだで一か月くらい経ってるけど、まだ帰らないのか」
「だってまだ、型を学んでるだけなんです。まだ強くなれてません」
「……はあ…」
銅矢は再びため息を吐いた。三人となった家計に慣れてきたところで、前よりも生活は少し厳しいものの暮らしていけている。デルウハからの援助も今のところ受けずに生活出来ているのは、道場に顔を出していると弟子の厚意で野菜や米をもらえる事がある為だ。銅矢にとって、この援助もあまり気が良いものではなかった。だから銅矢はどうにも機嫌が悪い。いちこにとっては、この変化はいまいち納得がいかなかった。自分が迷惑を掛けているのは百も承知だが、道場が絡むとなんだか銅矢はすぐ機嫌を害する。
「まあいい。貴由の前では話してないんだろ?」
「ええ、言いつけは守ってます」
「それならいい。それだけは守ってくれ」
銅矢はそれだけ言うと、風呂上がりの体がすっかり冷めてしまったので布団に向かった。彼がいなくなると、いちこは首を傾げる。銅矢は、貴由の前では道場の話はしないように心がけていて、いちこにも話はするなと釘を刺している。その言いつけを守り、貴由との会話は勉強や市場で何を買ったかという話に徹していた。
銅矢の家では、何故か道場のことは禁忌であるかのように最低限の話しかしていない。それもいちこには少し不満であった。銅矢に型のことや、上達する為に教えてもらいたいと思っていたからだ。道場の人間にも、御令孫は師範並みの腕前だと吹き込まれていたし、事実道場ではかなり強い。早く帰って欲しいのなら、教えてくれればいいのにな。そんな事を思いながらいちこも就寝するのだった。
「お兄さんは、道場が嫌いなんですか」
少々卑怯な手だと思ったが、翌朝いちこは貴由にそう尋ねてみた。彼の最愛の妹である。この家に他に家族はいないので、二人暮らしだ。だが銅矢はまだ社会に出たばかりであるし、貴由はいちこ達と同年代か少し下であって、世間的にはどうして子供二人で暮らしているのだろうと疑問が湧く。あんなに立派な道場を持つ親族がいて、二人の両親はどうしているのだろう。
「うん…私もあんまり聞いたことないんだけど…そんなに好きじゃないみたい」
貴由は苦笑いする。いつも明るく、足を片足失っているとは思えない程に貴由はまぶしい。そんな彼女に苦笑いをさせてしまった。あ、といちこは踏み込んではならない場所に足を沈み込ませた感覚がした。家族の問題は他人には分からない。
いちことて、家庭環境はけっして良くなかった。だから家を出て、路頭に迷い、妹達と出会ったのだ。だから銅矢の家庭が、貴由の明るさで保っているこの家が理想的で羨ましくて、思わず見えない部分の翳りが気になった。それは持ってはならない疑問であったが、いちこもまだ子供である。口は災いの元である。銅矢に叱られるかもと思ったその晩、案の定いちこは銅矢に叱られた。夕食の後、銅矢に寝室前の廊下に呼び出されたのだ。
「変な質問したらしいな」
「…すみません。出過ぎた質問でした」
「あんまり俺達の問題に首突っ込むな。君が解決できるものでもないし、貴由も辛い思いをするだろ」
「ごめんなさい…」
いちこは深々と頭を下げる。一か月程度一緒に暮らしてきて、もしかして銅矢の心は解きほぐれ、いつかが言うように”お人好しでいいやつ”という評価に、現実の銅矢が近付くかと思ったのだ。今目の前に、いちこの前の銅矢は”不機嫌で怖い人”である。それは初対面から変わらない。いつかと自分、そこに何か差があるのかと思ったが、いつかは誰にでも優しいはずだと主張しているし…。何度目かの銅矢のため息を聞いた。
どうしても、銅矢はいちこに優しくはない。確かに道場の口利きなどはしてくれたし、生活の基盤を揺らがずにしてくれたが、どうにもいちこの事はどこか邪険にしている。それがなんだかいちこには悲しいのだ。吸血鬼で宿敵だけど、妹には優しいのに自分だけなんて。子供らしい考えだが、それがいちこにはどうしても納得がいかなかった。
「銅矢さんは、私がお嫌いですか」
「吸血鬼…(貴由がいないか周囲を見渡す)はすべて憎んでる」
「それは、どうしてですか。我々は確かに人間の血を糧に生きています。命の危機があるからですか?」
「それもある。…中に入って」
銅矢は周囲をもう一度見渡すと、寝室の襖を開けて中に手招きした。いちこは驚く。貴由への壁の為に一度も掃除の手ですら入らせてもらえなかったのに、中に招いてくれたのだ。慌てて中に入る。布団はまだ敷いていないので、二人は向き合って座った。銅矢はあぐら、いちこは正座である。どことなく銅矢のかおりがして、初めて異性の他人の部屋に入ったのでまるで冒険のようにどきどきしていた。銅矢は腕を組んだまま、言葉を静かに紡ぎ始めるのだった。
「俺は吸血鬼を憎んでる。…それは家族を奪われたからだ」
「ご家族? でも、貴由さんはいるのに…」
それに道場を運営する祖父はいる。だがこの家に、本来いるはずであろう大人の存在を思い出した。両親だ。
「俺が中学生の時だった。もともと世田谷区に暮らしてたんだが、家に吸血鬼の集団が入り込み、俺達を襲ったんだ。俺と貴由はもともと学校だったから、家に帰ってお勝手に来たら包丁を必死に振り回してる母親がいて、ぎょっとしたよ。あの形相は、今でも忘れられない」
命を奪われまいとする抵抗であった。虚しい抵抗であったかもしれないが、それでも母親は無事で、父親も同様に真剣を携えて身構えていた。一家はもしかしたら生きられるかもしれなかった。だが、物陰に潜んでいた吸血鬼のひとりが、帰って来たばかりで呆然としている子供二人を襲った。
「そこで、俺と貴由が狙われた」
子供を狙うのは吸血鬼のよくある事である。いちこはその残虐さに少し顔をしかめた。
「あの時は覚えている。目の前の出来事が紙芝居みたいにめくれて、徐々に徐々に目の前に牙が近付いてくるのに、俺は動けなくて。貴由も同じだった。そこに、母親が割って入って来たんだ」
両親は子供を庇ったのだ。ひとまず血であればなんでも良かったのか、母親の血を吸い尽くす吸血鬼に、絶叫した父がその背を斬り付けた。愛する女が生きたまま血を抜かれているのに耐え切れなかったのだろう。だが吸血鬼を一人殺しても、集団が襲ってきたのだ。物陰から二人の吸血鬼が現れ、同時に父親の喉笛に噛み付いたのだった!
「ぎゃああああ」
父親の断末魔は、今でも銅矢の耳にこびりついている。この騒ぎを聞きつけ、誰かが通報してくれたか考える暇もなかった。中学生の銅矢は何も出来ず、小学生の貴由の手を引いて逃げようとする。父親が吸われていく残酷な場面を、貴由は目を見開いて見ていた。呼吸を乱し、見たくもないのに見ていた。その荒い呼吸音に気付いた吸血鬼たちが、逃げた子供達を追おうと玄関までやってくる。
銅矢は靴がうまく履けないでいた。貴由が早く早くとせかすが、それでも震える足はどうしても靴が履けない。何故靴にこだわったのか、銅矢は今思い出しても昔の自分を張り倒したくなると言う。
「靴なんかいらなかった。走って逃げれば良かったんだ…」
ようやく履けた銅矢が玄関の扉に手を掛けた所で、吸血鬼が襲い掛かって来た。咄嗟にその場に屈みこみ、動きを避ける。玄関に激突した吸血鬼は銅矢のすぐ上にいた。今すぐにでも噛まれる距離の中、小学生であった貴由が咄嗟に吸血鬼に体当たりしたのだ。勇敢な行動だった。吸血鬼はもんどり打って、その場に転がった。
「逃げるよお兄ちゃん!」
銅矢はただ震える事しか出来なかった。だが貴由の力強い声に必死に頷き、扉を開けたところで悲劇が起きる。土間に転がっていた吸血鬼が、逃げ出す貴由の右足を掴むやいなや、噛み付いたのだ。貴由の悲鳴を聞きながら、銅矢は鞄を打ち付ける事も、足で蹴ることも出来なかった。ただ震えていた。怯えていたのだ。
だが幸いなこともある。大騒ぎを聞きつけ、吸警がすぐに駆け付けてくれたのだ。貴由を噛む吸血鬼も、家の中にいた吸血鬼二体も無事討伐された。その安堵はひとまずとして、一刻を争う中で、貴由は病院に運ばれたのだ。銅矢も当然付き添った。だが医師は、足を切断せねば吸血鬼化してしまうと言うだけで、患者本人の否応もなく、足を切る事になったのだ。
いちこはそのくだりを聞き、想像した痛みに顔を歪めた。助かりたくて医者に行ったのに、医者は何の相談もなく、切ったのだ。吸血鬼になってしまうかもしれないなんてそんなバカな。いちこには分かっている。吸血鬼は仲間を増やす時と、血を吸う時で噛み方を使い分けているのだ。おそらく貴由は、足を切らなくても良かったのに、だが人間は吸血鬼を恐れるばかりで正しい知識など持ち合わせず、貴由の未来を断ち切ったのだ。どれだけ悲しく、空しかったであろう。今の貴由の笑顔を思い出すと、胸がきゅううと痛む。
「そんな貴由を、俺の祖父は「恥」と言い放った」
「…え?」
今の話を聞いて、いちこは怪訝な顔をした。貴由は勇気ある行動をした。銅矢を助けたのだ。そのうえで足を失った。いくら褒められても足りない程であろう。それでも、銅矢の祖父は貴由を「恥だ」と言って退かなかった。銅矢は今もその言葉を一言一句忘れていない。思い出すと脳が沸騰し、心臓が激しく動悸するのだ。その言葉を、つとめて冷静に口にする。言葉に罪は無いが、どうしても憎むべき言葉がそこにあるのだ。
「…跡継ぎである俺を守るまでは良かった。だがわざわざ生き伸びて、生き恥を晒さなくてもいいだろう。足が無い子供は、銅矢家に必要ない」
いちこはそんな言葉を聞いたら、この世に絶望してしまうだろうと思った。両親を目の前で失い、妹が自分のせいで足を切り…生き延びてしまった銅矢は近しい親族からその言葉を聞いて、いったいどんな感情を抱いたのであろう。それは激しい嫌悪と、祖父への憎悪であった。
「俺はそれからあの道場には世話にならないと決めた。世田谷の家は、道場に勤めてた両親の家だったから、それも出ることにしたんだ。辛かったし」
「…それは、その」
「当時お弟子さんの中で、使わなくなった家があると言うからそれを買ったんだ。吸血鬼用の保険金と、親と暮らしてた家と土地を売った金で」
そうして銅矢が得たのが、この本所の家であるといちこは気が付く。まだ中学生の身分で、まだいちこ達とそう変わらない年齢で、彼は家を売り、買い、生活の基盤を整えるという偉業を成し遂げたのだ。それもすべて妹である貴由の為に、であろう。いちこは壮絶な話を聞き、息を吐いた。感情移入するのなら、吸血鬼である己を責めてしまうだろう。だから胸のあたりをくっと抑える。そうしているうちに、ふと気が付くことがあった。
銅矢は祖父を憎んでいる。祖父は天然理心流の道場主だ。その道場に、いちこは通いたがった。つまり銅矢は、憎き祖父に頭を下げていちこの為に動いたという事になる。それは、かなりの負担だったのではないだろうか。銅矢は道場となんら関係のない、吸血鬼への憎しみを果たすために就職している。道を違え、決別している家族を、いちこは引き寄せてしまったのだろうか?
あ、それで不機嫌なのだ。いちこは腑に落ちた。銅矢が不機嫌な理由、そしてそれが不機嫌で済んでいるのならだいぶ優しいのではないだろうか? いちこは何故かほっと息を吐く。
「どうした」
銅矢は急に安堵したようないちこに、いぶかし気な目だ。いちこはごめんなさいと前置きし、それでいてどうしても安堵してしまっていた。銅矢は冷たい人間ではないのだ。それが分かっただけで、救われた気がした。銅矢が吸血鬼を憎む以上、いちこにこれ以上優しくする義理は無い。だがこの生活は、かなりの銅矢のお人好しで成り立っている。
「うふふ」
「なんだよ」
「ごめんなさい。銅矢さんのこと、誤解してました。許してください」
「別にいい。ただ言っておくけど、」
「私と銅矢さんは仇敵。そうですよね?」
いちこは銅矢の言葉を奪った。いちこには珍しいでしゃばった行為だが、銅矢は分かればいいとだけ言うといちこに出て行くよう言う。正座を正してきちんと一礼し、いちこは出て行った。まだ家事があるのだ。貴由に押し付けては申し訳ない。いちこは小走りで廊下を歩くと、急いで台所に向かうのだった。
道場にもだいぶ慣れた。慣れて来ると人間関係が見えて来る。いちこは子供の集団にいるものの、やはり銅矢が連れて来たからと声を掛けられることが多かった。筋がいいと、銅矢の手前褒められることもあるが、大半が世辞である。それでも銅矢とのつながりが欲しいのか、しょっちゅう話しかけて来る門下生のおかげで、人の顔と名前が一致して会話に入ることが出来た。いちこはぺこりと頭を下げる。
「ごきげんよう、中村さん」
「おはようございます。今日もご丁寧ですね」
一番最初に顔が一致したのは、そう言って笑う、銅矢よりも少し年上の男性であった。あまり話したことのない年齢層の人間であるが、気さくで話しやすい。彼が色々と教えてくれる中で、優秀な門下生の中に、美しい女性がいる事に気が付いた。
その剣士は凛とした佇まいで、豊かな黒髪をひとまとめにしている。美堂さんというらしい。幼い頃からこの道場に通い、父親は自治警の上層部である為家柄もいい。お嬢さんであるが気取ったところがなく、どことなく物静かな美女で、年頃の娘が憧れるのには時間が掛からなかった。だが彼女につきまとう者もいた。名前は田辺らしい。きちんと挨拶したことは無いが、女の門下生にはどうにも馴れ馴れしくする男で、銅矢の影があるいちこには流石に来なかったが、よく女性の門下生と話している。その田辺が、模擬戦を終えたばかりの美堂の肩に手を回してにやにやと笑っている。美堂は顔色を変えず、汗臭いからと手を払いのけようとしていた。だが田辺は余計気安く、あまつさえ肩に手を回したのだ。
いちこは咄嗟に、その気安さに何故か怒りを覚えた。道場の端で汗を拭いていたいちこは、ずんずんと真ん中にいる二人に近付く。そして田辺の手を取ると、ひねりあげたのだった。
「いたたた!」
「あの、田辺さん…でしたっけ。美堂さんに付き纏わないでください」
「付き纏うなんて、してない痛!」
いちこの怪力は、鍛えている成人男性の力をはるかに凌駕する。田辺は腕を掴まれたのを振ると、無理矢理離させるのだった。
「痛いな! あのね、御令孫の御付きだからって…」
「嫌がっておられるじゃないですか!」
「嫌がってなんか…君は何にも知らないだろう!」
「分かりませんけど、でも女性の肩に気安く手を回すのは、失礼です!」
「それは、でも俺は…」
田辺が弁解している横で、いちこが割り込もうとしている。そんないちこに、美堂の木刀がふと振られた。床を向いていた木刀が、いちこの頭に当たるように動いたのだ。それは意図的であろうが、何分咄嗟のことであったのでいちこは驚くしかない。そこに銅矢が道場にやって来て、たまたま見ていた。
あっと声を上げる間もなく、木刀はいちこの額にーーー。その瞬間だ。
「もう!」
いちこは木刀を咄嗟に掴んだ。そのまま掴んだが早いか、力を込めて砕き割ってしまう。木刀である。何度でも言うが木刀である。聞いたことのない硬いものが砕ける音であった。道場の中はぎょっとした空気に包まれる。銅矢も、怪力を今発揮するのかと青ざめる思いだ。木刀が壊れたため、美堂も驚いて顔を歪めていた。いちこは興奮していたので気付かなかったのだが、次第にしんとなる道場が耳に入り、あっという顔をして周囲を見渡す。誰かを思うにしても、やり過ぎであった。
「よし、聞け」
銅矢の声が凛と響く。道場の空気をぴりりと変え、全員が銅矢に注目した。
「木刀を片付けるんだ。美堂のだな? 人に当てるのは感心しない行為だ」
「は、申し訳ございません。手が滑りまして…」
「田辺の手を離せ、こっちで手当てするぞ」
「は、はい」
田辺も銅矢には形無しのようだ。ぽかんとしたままいちこから手を離され、田辺も片付けるように言われて慌てて動く。門下生がちり取りやほうきを持って来てくれて、その場はすぐに片付けられるだろう。一方のいちこである。銅矢が手を引き、医務室に連れて行った。
「あの、傷ないですよ…?」
いちこの手は綺麗であった。木刀を握り締めて砕いたのに、無傷だったのだ。だが銅矢は用を聞かずに、薬箱から包帯を取り出すとくるくる伸ばした。手に巻く長さを計っているらしい。だがいちことしては、無傷である。首を傾げていた。
「あの」
「いいから。人間はさ、普通木刀を砕いたら怪我をする。傷を作るものなんだよ」
「……」
「ほら、これでいいだろう」
包帯だけ巻かれた無傷の手を、いちこは不思議そうに見つめる。人間らしくあれと言われているようだった。その片棒を銅矢が担いでくれている。…なんだか不思議な気持ちである。包帯が少しだけ熱を持って、本当にけがをしたような気持ちになるが、これがなんだか小さな犯罪をしているような気になる。真面目ないちこには、少しだけ刺激があったようだ。包帯を眺め、銅矢の後について道場に戻るのだった。まず美堂と田辺に謝らなければならないのかなと、少しだけ重い気を引きずりながら。
五話 精錬の先
あれから二か月が経った。結局、いちこは銅矢の家にずっとお世話になっている。その間に熱心に道場に通っているからか、昇段試験を受けるよう道場主に言われるのだった。
「本当ですか?!」
「熱心だからな」
「やった、あ、失礼しました。ありがとうございます!」
いちこはぴょんと跳ねかけて、慌てて師範に頭を下げる。子供だから師範は見逃してくれたようだ。銅矢はたまたまその日、道場にいたのでその会話を聞いていたらしい。師範の元にやって来る。
「昇段試験か」
「はい御令孫さま。熱心ですし、そろそろいいかと思いまして」
「そうか。まあ頑張れよ」
「はい!」
いちこは嬉しそうである。銅矢はすぐに弟子に呼ばれ、その場から離れた。道場の事で相談があるらしい。銅矢は分からないと前置きしているが、それでも真摯に相談に乗っている。一方のいちこである、うきうきと歩いていると同じ教室の子供が何かあったのか突然泣き出した。少々厳しい練習に嫌気が差したのか、あるいは人間関係か。坊主頭の子は、泣き虫の気があっていつも何か気に食わないことがあれば泣くのだ。今日は剣術がうまく出来ないことに、自分で地団太を踏んでいたのだ。いちこはそっと寄り添うようにくっつくと、頭を撫でながら何か話しかけている。同じ教室の仲間だからだ。うるさいと坊主頭は押しのけようとしていたが、すぐに宥めて褒めてくれるいちこに向かって泣き出した。年下の扱いはお手の物である。
かっての銅矢の心配をよそに、いちこは教室に馴染んでいた。ここで昇段試験を受け、ますます道場に馴染んでいながら銅矢の家に居候する…いつになればこの生活は終わるのだろう。銅矢は頭が痛かった。いちこはデルウハの屋敷にたびたび戻っているのだが、それは輸血パックを補給しているからだ。むしろ日中に用事を済ませ、かなり早い時間に戻って来る。いっそ帰ってくれればいいのだが…段々仇敵であることが薄れていくようで、銅矢は危機感を覚えるのだった。
いちこは同じ年齢より少し上のお姉さん方の仲間に入っていた。気が付いたら銅矢に黄色い声を上げる集団に引き込まれたのだ。彼女らは人懐っこく、いちこを引き寄せては銅矢が動くたびに目線を寄越していた。道場主の御令孫、今までいなかったのに彗星のように現れて師範を凌駕した若者。顔も悪くなく、道場を常に厳しい眼差しで見つめ…これが道場の跡取りになるのだと彼女らはきゃあきゃあと騒ぎ立てる。いちこといえば、その評価にうーんと首を傾げるばかりだ。
「そんなに…かっこいいですかね…?」
銅矢の腕は確かに強く、師範代を凌駕している。いちことしても、勝手ながら同居人がこんなに強いなんて誇らしく思う反面、これが仇敵だと思うと身が引き締まる思いだ。お姉さま方が否定しに顔を近付けて来る。
「なんでそんなこと言うの! かっこいいじゃない、御令孫さま」
「はあ…」
「貴方にはまだ分からないかもだけど…あの鋭いお目つきにご立派な剣の腕…」
「えー、でも春菊が苦手でいらっしゃるんですよ? おひたしを理由付けて食べようとされなくて…片付かないから大変で…せっかく安く買えたのに」
「え?」
「え?」
いちことしては、銅矢の日常の話をしたのだ。鮮度は高く、昨日の話である。貴由に窘められて結局食べていたが、子供っぽいところがあるなあといちこは笑ってしまった。だからその面白さを共有したくて話したのに、お姉さま方はぎょっとしている。
「え、一緒に暮らされてるの…? まさか、まさかね?」
お姉さま方は半笑いであるが、いちこはあっけらかんとしたものだ。
「えっと暮らしてますよ。もう三か月にもなるんですけど」
「三か月!?」
この簡単な一言はみるみるうちに道場内に伝播し、道場主である銅矢の祖父の耳にも入ったのだった。おかげで銅矢は呼び出され、まさか結婚相手なのかと詰問される。まさかと銅矢は言った。
「まだ子供でしょう。そんなわけない」
「しかし、嫁ぐのなら早い方がいいが」
「だから違うんですって…」
くだらない要件だと銅矢は一蹴するものの、世間的はいちこの年齢で許嫁がいてもおかしくはない。誤解を解くのは銅矢は諦めていた。勝手にすればいいと思っていた。その態度がかえって触れてはならぬのだとあらぬ噂が立つことは無かったが…いちこは孤立してしまった。お姉さま方から裏切者扱いされてしまったのである。ぽつねんと道場の端で正座をし、上段者の練習を見守っている。銅矢はしまったなと思うが、いちこが孤立したのは銅矢のせいではない。下手に銅矢が出てもおかしい事になるのだ。堂々と恋人関係でもなんでもないと宣言しても、かえって余計な波風が立ってしまう。銅矢は静観しているしかないのだ。
子供っぽいものだと思った。道場の人間関係はもう出来ているのだろうから、銅矢とて部外者である。それでも銅矢が一目置かれているのは道場主の孫だからだ。いちこは銅矢が連れてきたとはいえ、ただの新参者である。いじめがあるわけではないので、俯瞰するしかない。だが昇段試験はもうすぐである。それが終われば、昇段すればもしかしたらいちこの評価も変わるかもしれない。
だが思ったよりも、人間の心は分からぬものである。ある日の事だった。いちこは五人程の門下生に囲まれていた。それは身に覚えがない濡れ衣であった。
「木刀を隠しただろう。どこやった?」
「え? どなたの木刀ですか?」
いちこは本当に分からないように眉をひそめる。囲まれているのはよく知らぬ門下生である。男性の諸先輩方で、彼らに囲まれて威圧されるいちこではないが、年上からの悪意に囲まれてきょろきょろと居心地が悪そうである。
「中田と田辺のだよ」
「…存じ上げません。そもそも、私皆様の木刀に触っていませんから。あの、もういいでしょうか」
「待てよ」
いちこの肩を、一人が掴む。にやにやとした笑みは悪意に満ちていて、いちこは振り払おうとして