玄関を入ったところすぐにある柱の人の顔のような形をした汚れのように、父方の実家は古い観念が多く染みついた家で、一つの表れとして父には3人の兄、2人の姉、そして妹と弟が1人ずついた。地主の家だったのだと聞いてはいるが、それにしたって8人も兄弟を養うのには苦労も多かっただろうと思う。30を手前にして未だ独身で悠々自適な生活を送ることにすっかり満足しているが、祖父が自分の歳の頃には既に4児の父で、祖母は5人目を身ごもっていた。自分の身に置き換えて考えてみると、全くぞっとしない話である。
とはいえ、幼少期から沢山の親戚に囲まれて育ったものだから、大家族ならではのイベントごとや関係性に順応するというか、寧ろ好ましく感じている側面を否定できない。帰省するたびに大人と子供でごった返す祖父母の家をいつも暖かく感じたのは、お正月に手渡されるとんでもない量のお年玉とか、思い出補正だけによるものではないと信じている。
よりどりみどりの親族達の中で、俺の一番のお気に入りは父の弟、唯一の叔父であった。叔父の双子の妹である叔母は一族の末っ子とは思えないほどのしっかり者で、幼少期より品行方正だった彼女はよく学びよく働くバリキャリとなったが、一方で叔父はまるで鏡写し、絵に描いたような脛齧りで、良い大学に受かりはしたものの出席が足りず3回留年した後退学、その後はずっと実家でだらだらと趣味にかまけて過ごしていた。
そんな叔父の部屋が俺は大好きだった。家政婦のおばさんがいつも綺麗に磨き上げ一片の曇りもないはずの家は、しかし叔父の部屋の方角に近づくほど空気が淀んでいき、部屋のドアを開けた途端積もり溜まった埃が吹き出す。
「竜児?よく来たね。おいで、梨を剥いてあげよう」
招かれるまま足を踏み入れると、部屋の四隅に天井まで届くかというほど積み上げられた様々な書籍や資料にまずは圧倒されるだろう。それに紛れるようにして無造作に置かれた大小様々な箱を開ければ、壺、鏡、掛け軸、古書、置物、根付、更には銅鑼や人形まで顔を出す。多くは曰く付きの物品で、ただでさえ引きこもりの叔父がそういったものを溜め込むことを祖父母はあまりよく思っていなかったが、叔父はいつもどこからか拾ってきては大事そうに埃を払って自室にしまい込み、偶の機会に自室を幽霊屋敷の探検気分で訪れる親族のちびっこ共、つまり俺なんかにそれらの由来を、厨房にこっそり忍び込んでくすねてきた梨を分け合いながら、一つ一つ語って聞かせるのだった。
蛇の壺はある夏突然叔父の部屋に増えた。8畳ある部屋の突き当り、以前までそこに積まれていたはずの本の山はまるごとどこかへ切り崩され、代わりに開いた小さな空間の中心には青っぽい陶磁器の壺があった。高さ約40cmほどの壺の首は大きくなだらかな曲線を描いてくびれ、胴の部分はずっしりと横に幅を取って構えていた。
不思議だったのは、その他ほとんどの調度品がそう扱われていたように畳の上へ直にぽんと置かれているのではなく、下にはクリーム色の布が四角く敷いてあって、更には四方の物をぐっと手で退かしたような獣道が入り口から壺まで作られていたということだ。よく言えば物置、悪く言えばゴミ捨て場のような性質を持つ叔父の部屋に、そういうあたかも観賞用に作られたかのような空間は突飛だった。
「大陸の方から取り寄せた明の青花磁だ。意匠は蛇と水仙、どちらも古来より吉兆を示すものだね。特に蛇のうねりなんかは生き生きとしていて、生命の躍動を感じるだろう?」
うっとりと酔ったような口調で語りかける叔父は心の底からそう思っていたのだろう。小学生だった俺に美術品の良さなど分からず、自分でも描けそうな下手くそな曲線の組み合わせの何がそこまで叔父を引き付けるのか不思議だった。
壺に嵌っていた栓を抜き取ったのは出来心だ。触れる前に開けていいかと叔父に一言聞いて、了承された気がする。ガラスに嵌るコルクなどとは比べ物にならない、いびつな円形の木の板を爪に引っ掛けながら勢いよく外すと、中に何かが入っているのが見えた。窓も電灯も常に遮られ光量の足りない部屋の中ではよく見えなくて、どうにか良い角度を探そうと両手で壺を抱き身体を揺すって暫く、俺は壺を放り出して叫び声を上げた。放り出された壺は冷や汗をかいた叔父にしっかりと抱きとめられたが、走り出した俺の心臓はそうもいかなかった。
とぐろを巻いた白蛇。
脱皮した抜け殻だったと叔父は後に言った。買った時に中を開けて確認したが、その時にはなかったはずだとも。しかし覗き込んだ目と鼻の先にぬらりと光ったあの鱗の質感や、確かにこちらを睨みつけて舌を吐いた赤い瞳は心に大きな傷跡を残し、その後暫く悪夢となって幼い俺を苦しめた。
叔父が発狂したのは去年の暮れのことである。突然、言葉を忘れ獣のように声をあげたり四足で這い回りだしたのだという。家族の事も覚えていないようで、近づいた途端に引っかかれたりしたと叔母は袖をまくりあげミミズ腫れの走る腕を見せながら説明してくれた。数名の精神科や脳外科医にかかったところ、投薬による一時的な対症療法はあれど、根本的な治療はできないと診断された。伯母の一人は部屋に積み上げられた大量のがらくたの中にどれか悪さをしたものがあるのだと言い張って無理矢理にでも部屋を片付けようとしたが、私物に指一本でも触れようとすると叔父が逆上し襲いかかってくるので、諦めたとのことだった。
「顔見に行ってあげて。竜ちゃんのことは可愛がってたから、きっと喜ぶよ……」
やつれた顔でやるせなく笑う伯母が本当にそう思っているとは考え難かったが、竜児、といつも親しげに話しかけてくれた、脂ぎってフケまみれのもじゃもじゃした髪の毛の奥で爛々と輝く叔父の瞳を思い出すと、否とは言えなかった。腹の下の方に重いものを抱えながらずるずる、渋々、昔と同じように廊下を歩く。随分と昔より目線は高くなったが、どんどんと淀んでいく空気を吸い込んだ時の不思議な高揚感は変わらなかった。
「叔父さん……」
叔父は声にぴくりと反応して、相変わらず雪崩一歩手前まで積み上がった本の後ろから顔を出した。それが叔父だと知らされているのでなければ、俺は驚いて逃げ出していたかもしれない。暫く風呂に入っていない身体あからは異臭がし、老人のように腰を曲げ竦めた首でこちらを見上げる格好はまるきり四足獣のさまだ。ほとんどの食べ物を受けつけてくれないのだとは聞いていたが、やせ細った叔父の顔は骨の形をくっきり型取り、落ち窪んだ目元でぎょろりと眼球が動くさまは人というより鬼のようだった。
叔父はしばらくそうして警戒した獣のように入り口に立ち呆ける俺のことを見ていたが、突然何かに気づいたように血相を変えると、ぎゃあぎゃあと悲鳴をあげながら飛び上がった。叔母の腕に残された傷痕を思い出して本能的に後ずさったが、叔父は襲いかかってくることなく、ただもがき苦しむように壁や床に体当たりを繰り返しながら叫び声を上げ続けた。騒ぎを聞きつけた伯母や伯父が駆けつけてくる頃には、長年絶妙なバランスで保たれていたがらくたの城はついに崩れ落ち、残骸の上に落ちるようにして絶命した叔父だけが残った。
あまりのことに誰もが咄嗟に動けないでいると、叔父が身につけていたTシャツがもぞもぞと動いた。一番最初に気づいた叔母が悲鳴をあげて指を指すと、皆の視線はそこに釘付けになった。見守られる中、もぞもぞもぞもぞと膨らんでいった布の中からついに顔を出したのは一匹の黒猫だ。家ではペットを飼っておらず、もちろん誰かが野良猫を餌付けしていたというような話も聞いたことはない。誰も彼も狐につままれたような顔で立ち尽くしていると、猫は我々を一瞥してからふいと踵を返し、雪崩のてっぺんに何故か傷一つなく転がっていた蛇の壺をちょこんと前足で押した。貴重な明の青花壺に描かれた生き生きと絡まる蛇達はそのまま貴重な書籍や骨董品の上をころころと転がり、落ちて、呆気なく砕け散る。中から蛇が出てくることなどは当然なく、猫はそのまま一同の足元をすり抜けてどこかへ去っていった。