一話 願い
 私達、女に生まれなかったら良かったのにね。
 誰かがそう思っていた。誰かがそう思わずにはいられなかった。言葉にしたのはいちこだったが、皆は賛同してわざわざ言葉にはしなかった。女の道は地獄の道。農村の口減らし、窮屈な裕福家庭からの家出、売り飛ばされた女郎屋からの逃走…理由は様々であったが、家を失った少女の道はぺんぺん草すら生えぬ道だ。少女同士で気が合ったから、細くあかぎれした骨ばった手をかたく握り合い、安寧の地を見つけるために他人の家と家の間で風を避けた。
 彼女らには特徴があった。長い髪を軽く結い全員を纏めようとするほんの少しお姉さんのいちこ、人の陰口を口にしがちだが可愛らしい顔で他人を手玉にする事が得意のにこ、無言がちで他人を信用するのが苦手なみち、口減らしに苛立ち自分から村を飛び出た気の強いよみ、割られた眼鏡を掛けながらも明るく誰にでも声を掛けるいつか、小声でいつも怯えているようなむつ。
 六人はそれぞれを認め合っている訳では無いが、それぞれの境遇が彼女らの絆を生んだ。喧嘩もし、気が合わぬ仲であっても、彼女らは互いに隣に座っていた。風を避けるためであったが、生きる為のぬくもりを互いに貪っていた。
 だが少女に世間は厳しい。男の力に敵わぬ少女達が操を守りながら生きるのは、少しだけ問題があったのだ。いつぞやの時である。いつかの眼鏡を新調したいと思ったのだ。当然、定職も家もない彼女らには金もない。選ぶ方法は盗むことだけだった。閉店間際の眼鏡屋の裏口から忍び込んだ。定期的にいちこが見回り、いつかに合う物を確認済みである。いざという時に暴れ回れるよみと、音に敏感なむつといちこが忍び込んだのだが、物音に気付いた店主に追い回されてしまったのだ。むつが眼鏡を掴んだのを確認し、いちこが店主に立ちはだかったのだ。むつとよみが店主を振り切って帰ったところ、いつかは大変に喜んでくれた。そうしていちこが帰ってきた頃、その着物が乱れていることに気付く。胸元を掴まれたかのように、白い鎖骨が見えていた。
 「あんた、どうしたの」
 異変に気が付いたよみの問いに、いちこは何でもないと言う。なんでもない非力な少女が、操を守るのは至難の業である。この時いちこの身は無事であったが、いつ誰の身の安全が崩れないかも分からない中で、彼女らはしたたかに逞しく生きていた。だが、そのしたたかさも若さも、飢えには敵うことはなかった。
 ある日、何も食べる物がなくなって五日が経ったころ、六人は地面に寝転んでいた。既に身体を起こすことが出来なくなっていたのだ。飢えというものは強い痛みを伴うものだ。指先がこわばり、動けなくなっている。その痛みに耐えていると、何故か今度は指先の力が、少しずつ抜けていく。
 内臓では胃の辺りに激痛が走っていた。何も食べる物がなく、胃液が自分で自分を溶かし始めているのだろうか。その痛みが無くなると、今度はすべてをまっさらにする幸福感が埋め尽くす。まっしろに埋め尽くし、今度は意識を遠い所に持っていく。眠気である。遠くに遠くに、どこか知らないところへと…。このまま遠い所にいったのなら、戻って来られない気がした。いつかはこわばり始め、しびれた指先を必死に地面を這わせた。すると、そばにいる誰かの指先が触れた。よみの指に触れたようである、誰でもいいがその指は仲間であることは確実である。その指を、きゅうと握る。それが最後の力であった。いつかは目を閉じる。死というものが彼女らの目前に来ていた。
 むつはぐるぐる回った空を見上げる。この視界が少しずつ回らなくなったら、いずれこの世界から消えるのだ。むつの瞳に涙がにじんだ。このまま、このまま気が合う仲間と共に天国でも地獄でもーーそう願いながらむつの視界は、青空に相応しくない黒い闇に覆われていくのだった。
 吸血鬼の血に悪魔の爪、神の文字。その全てが揃えられたのなら、人間の願いは叶うと言う。それでしたら吸血鬼の血は調達しましょうと、デルウハは人の良い顔で言った。デルウハの前には仮面を付けている老人がいる。生地の良い和装に身を包み、顔の半分を覆った仮面はしろいすべすべとした陶器で出来ている。身体を横たえるソファーは朱の絹地に金糸、使われている曲げ木は飴色で職人の作った品の良いまるみと勢いに満ちていた。高価なものだとひと目で分かるものである。そこに皺が寄った素肌が覗きながら、老人は煙管をふかしている。ソファーの傍らには、豊かな黒髪をたたえた豊満な美女が漆黒のドレス姿で控えている。
 デルウハは国内有数の富豪である。だが日本に根を下ろし、財を成してから短い。今デルウハの目の前にいる老人は富豪として血筋を受け継いだ末裔であり、最近コミュニティで知り合った。そんな老人が妄信しているものがあると、コミュニティの中ではもっぱらの噂になっていた。黒魔術にはまったようだ、関わらない方がいい、若い女の影響だと口々にデルウハに警告を告げる連中は多かったが、吸血鬼であるデルウハに黒魔術など恐れるに足らぬものである。ほどほどにしますと他人に良い笑顔をしながら、老人に深入りしたのは長い吸血鬼生の中でも暇つぶしであったのだろう。
 デルウハの申し出に老人は目を輝かせた。その伝手があるのかということに老人は願いが叶うのかと期待したようだ。老人はすべてをデルウハに語り出した。黒魔術にはまった者など、皆遠巻きに離れていくばかりであったのだろう。得られた理解者に、彼は身の上から伝え始めた。
 
 老人の身の上は恵まれたものだった。国内でも有数の貴族の嫡男として生を受けた。だがその順風満帆の人生は七つになって壊れてしまった。お湯を沸かしていた若い乳母が粗相をしたのだ。熱したやかんの中身を子供であった彼の顔に、かけてしまったのだ。子供の悲鳴、乳母の悲鳴…断末魔が響き渡ったのをまるで他人事のように、映画のワンシーンのように覚えているという。嫡男の手ひどい火傷には緊急手術が施された。当時の最先端医療を、湯水のようにつぎ込まれたのだ。だがそれでも縮み切って盛り上がった皮膚はどうにもならず、結果として彼は仮面を付けて生きることを強いられた。それが枷となった…老人の人生であったという。
 「私には財がある。だがこの皮膚はどうにもならなかった。昔の医療ではな…」
 「それは悲しい話ですね」
 「長男であったが、結局家は次男が継いだ。私には別邸と暮らしが保証されただけでな…今はこの妻と暮らしている」
 若い女は唇の下にほくろがあり、妖艶な笑みを浮かべる。若くはつらつとした色香に溢れた女である。その色香に、年寄りはやられたのだろう。妻というのには介護士のような年齢差である。だが女は黒いドレスに身を包み、裕福な暮らしを満喫しているようだ。老人は続ける。
 「私には願いがある…この顔を無かったことにしたいのだ。それ以外何も望まない。だが医療では誰も叶えてもらえなかった」
 「心中お察しいたします」
 デルウハはあくまで若者らしく下手に出ながら、にこやかに会話を続けている。吸血鬼からすれば叶うはずもない欲望に付け込まれた人間など扱いやすい事この上ない。騙しやすく、御しやすく、あまりにも好都合なのだ。デルウハは彼の財に興味は無い。だがこの欲望は面白そうである。
 「そこに吸血鬼の血だ…本当に提供してもらえるのかね」
 「ええ。軍部には伝手がありますので、僅かになるかもしれませんが量はご用意できるでしょう」
 「それは助かる。そうか吸警があったな…」
 「ご用意したらまた文でお知らせしましょう。どうぞそれまで心穏やかにお過ごしくださいませ。しかし、悪魔の爪はご用意があるのですか? 神の文字は禁制の本にあると聞きましたが」
 デルウハは素朴な疑問を口にしたのだが、老人はにやりと笑ってみせた。
 「私の財をもってすれば、用意は出来ている。あとは吸血鬼の血だけだ」
 「そうでしたか。それは愚問でしたね、それでは私は準備の為に動きますので、これにて失礼致します」
 「頼んだぞ」
 老人に一礼し、中折れ帽をかぶったデルウハは用意された自動車に送られて帰る事になった。彼の翼で飛んで行けば早いのだが、人間社会で暮らす身である。さてどう用意するかと考えた時、研究所の所を頼るが早いが、それよりももっと身近で手軽な相手がいる。屋敷に戻ってから話をしようとデルウハは考えた。屋敷には若い吸血鬼が、眷属が六人いるのだ。彼女らに頼むことにした。
 吸血鬼の血を用意せよ。その為に血を提供せよ。ハントレスはデルウハに言われたことに、当初嫌な顔をした。皆不服気な顔である。指先をちょっと切り、血をほんの少し提供するのは簡単である。だが、それが気心の知れた相手ではなく見ず知らずの老人にというのが嫌なのだ。その為にわざわざ老人の住む屋敷に足を運び、そこで血を提供するというのも、思春期の娘にとっては大層な儀式めいていて嫌である。だからデルウハは、ハントレスが行けばお菓子を出してもらえることを条件とした。ハントレスは少々だけ心を動かしたが、それでも嫌そうに顔を見合わせる。それでもデルウハの言う事であるから、ハントレスは最終的には了承した。毎日ではない。一週間に一回程度であるのも後押ししたようだ。ある春の日の事である。いちこが正面に立ち、六人は老人の屋敷を訪問したのだった。
 二話 忌まわしき血 
 いちこは牛、にこは豚、みちは鶏、よみは豚、いつかは羊、むつは魚。
 それが老人に向けて、彼女らの用意した”血”であった。本来デルウハに用意するよう言われたのは、彼女らの本来の血である。その量はほんの少し、それぞれに用意された試験管に1センチほどの量であった。だが彼女らは、その用意を拒否した。血を老人に提供するのを拒んだのだ。デルウハはその行為を、裏切りにも似た行為に特に何も言わなかった。そもそも、デルウハにとっては老人の妄信は暇つぶしのようなものである。ハントレスが提供しようとしまいと、まあそれは問題ではない。彼女らには彼女らの意思がある。そこを尊重するのがデルウハの在り方である。
 彼女らが吸血鬼であると、当然デルウハは老人側に言わなかった。ただ、使いの少女が行くから、彼女らをもてなして欲しいと頼んでいただけである。だから老人側は使いの少女が持って来るものが、吸血鬼の貴重な血であるとみなしていたようだ。それが全て、動物の血であるとは知らずにである。本日も若妻が妖艶に微笑みながら、試験管を六つ受け取る。そして洗浄した空の試験管をまた渡してきた。また一週間、どうぞよろしくということである。代表として前に出ているいちこは笑顔でそれを受け取るが、他の面々は仏頂面だ。だが、もてなされる時に出されるケーキや和菓子は、貴重なものばかりで目を輝かせていた。そこは子供であるから、若妻も特にその不躾さを咎めもしない。今日は芋羊羹である。高級なお茶をお供に食べながら、六人は嬉しそうに頬張る。若妻はどうやら若い子供達が好きなのか、いつも美味しいかどうかを確認し、言葉少なにもてなしてくれた。そうしてハントレスが帰るのを見送って、どこか寂し気にしている。いつかはたまに振り返り、手を振ってみた。若妻も手を振り返す。
 「なんだか、寂しいのかもね」
 「あんたね、変な事するんじゃないわよ」
 ただでさえ彼女らは、老人を欺いているのである。ぼろが出ぬようにと、よみは唇に指を立てた。だが人間嫌いのみちも、似たような考えなのか遠くになった屋敷を振り返る。
 「でも本当に寂しいのかも。あの屋敷、使用人もいないし」
 「みちまで。ヘンに同情したら、やばい気がしてくるじゃない。だって吸血鬼の血が欲しいじーさんだよ? ま、偽物なんだけどさ」
 「こら、にこ」
 にこをいちこが嗜める。
 「だってそうじゃない、偽物に効果なんかないよ。そうでしょ? むつ」
 「え? あっ…うん」
 むつは頷く。普段からびくびくとしている彼女だが、少しぼうっとしていたようであった。にこは不思議に思うが、むつは普段から少々ぼうっとしている気があるのだ。すぐに興味はむつ以外に移って、彼女らは歩き出すのだった。
 
 夕餉を終えた後、デルウハの書斎に一人の訪問者がやってきた。とはいえ彼の屋敷に住まう者はハントレスしかいない。むつであった。彼女は相変わらずおずおずとした態度で、周囲を見渡す。他のハントレスに悟られたくないようである。急いで書斎の扉を閉めると、相談があると言い出した。
 「なんだ」
 むつはハントレスとして共同生活を送っているが、デルウハにそこまで心酔していない存在である。彼女が常に欲しているのはハントレスとの絆であり、ハントレスの安寧だけが彼女の関心である。だが六人もいるのだ、反抗的ではないだけ手を焼かないで済む。おどおどとした態度によみが苛立つから、たまに衝突を仲裁しなければならないが、彼女が一人でやって来るなど珍しい事であった。
 「あの…あのね。聞いて欲しいことがあって」
 そう言うと、むつは小さな紙を懐から取り出した。一枚ではない、三枚ほどある。だが便箋ではなくノートの端を切り取ったような手紙である。デルウハは差し出されたそれを覗き込んだ。
 それらは全て、あの若妻からむつへの手紙であった。六人で必ず訪問していたが、むつ一人だけが手紙をもらっていたのだ。真面目ないちこが報告しないわけが無いから、むつだけに当てられたものであるとは明白だった。破られた紙に不釣り合いな美しい文字であった。内容はこうだ。
 一枚目。拝啓むつさま。貴重な血をいただきまして有難うございます。主人に変わって御礼申し上げます。私は魔女と呼ばれ、生き物の血を見分けるのに自信がありますの。貴方の姉妹様がお持ちした血は、全て偽物とすぐ分かりました、そしてむつさまのだけは本物であると分かりました。御礼を申し上げたいので、今度ひとりだけいらっしゃってください。お待ち申し上げております。
 「この誘いは何故行かなかった」
 「だって、指定のお時間は…お夕飯の支度があったから」
 むつにとっては得体のしれぬ女性からの礼よりも、ハントレスとの夕飯が大事であったのだろう。その後も屋敷を訪れるたび、むつは若妻から毎度手紙をもらい、最新の手紙には今度の儀式の晩に来て欲しいと書いてあった。むつは手紙を読み終えたデルウハに頭を下げる。
 「黙っていてごめんなさい」
 「この手紙はお前あてだろう。何故俺が関与する」
 「そうだけれど、でも。…本物を渡してたのは、黙っていたから…」
 むつは俯く。だがデルウハにとっては、本物か偽物かは大差ない事であった。
 「まあ、お前らが誤魔化しているんだろうなとは思ったがな。まさかいちこじゃなくてお前が、生真面目に血を差し出してたとは意外だが」
 「…怒らないの?」
 「肉料理が不自然に多い日があるんだ、嫌でも気付くだろ…豚料理の副菜が、魚に鶏に羊に牛だぞ…」
 それが一週間に一回、必ず行われるのだ。異変を感じない訳がない。血を取る為に肉を買って、ついでに締めた時の血を分けてもらったと考えるのが自然である。その工作をデルウハが怒らないので、むつは安心したようだった。良かったと呟いているのを聞き流しながら、デルウハはむつの意図がよく読めないので怪訝な顔をした。謝罪したいというのは建前で、本音は違う目的があるのではないか?
 「…それはいい。まあ本物を渡してたんなら、もしかしたら効果があるかもしれんな。だが人間のやる事だ。無駄足になるだろう。それでも行きたいってのか?」
 「うん…行きたいの」
 むつは時折頑固である。真っすぐな目でそう見つめて来るので、これ以上の説得は無駄なのだろうとデルウハは考えた。
 「分かった。万が一の事もある、俺も行く」
 むつが顔を明るくした。この言葉を引き出すのが、むつの本音だったのだろう。まだ隠していることがありそうであるが、それはいずれ彼女が自分から話してくれるはずだ。下手に追究して心を閉ざされてはうまくいくものもいかないのだ。デルウハはその儀式の晩、むつと出掛けることにして翌日ハントレスに告知するのだった。
 さていよいよ儀式の晩である。夕餉を済ませ、自動車に乗ってデルウハとむつは老人の屋敷に移動するのだった。
 「そういえば、なんで本物を差し出した。人間に同情したのか?」
 今のところ、老人と対面で話したのはデルウハだけである。むつはデルウハの又聞きだけで、血をわざわざ提供する気になったのか? その理論は少々無理があった。そこまで情に脆い存在でもない。人情派のいつかすら渡さなかったのだから、むつが渡すのは別の理由があるのではないかと思われた。
 むつはぽつぽつと話し出す。
 「わたし、戦うのが苦手なの。昔から痛いのが怖い。今も、…この力を得ても、怖い」
 吸血鬼は特殊な存在である。心臓に杭を打たれなければ死なないと分かっていても、死に近い感覚はどうしても昔に得た、あの飢餓状態を思い出してしまうのだと言う。デルウハに拾われなければ、むつは青空が真っ暗な闇に吸い込まれていくのを見て死んでいった。最後には暗闇の中で、たった一人で死ぬのだと思った。その時の恐怖は耐え難く、今も夢に見ては震えてしまうのだと言う。
 「貴方は力を、あたたかい家を与えてくれた…私達に居場所をくれた。でも怖いのはだめなの、どうしても怖くて怖くて…だからもし私の血を分け与えれば、…もしかして眷属になってくれるんじゃないかって思ったの」
 眷属であるむつは、高位の吸血鬼であるデルウハとまったく同じ能力を持つ訳ではない。怪力と血を操る能力。この二つだけで常人離れしているが、それでもデルウハの能力には及ばない。だから今ある能力を駆使し、この身一つで敵とぶつかり合わねばならない。だがそれは十五の少女には、それも覚悟の無い少女には酷な試練であるのかもしれなかった。
 「もし戦えるのなら、代替わりしてくれるような姿が良いな…」
 それはむつの願望であった。デルウハはその少女のいじらしい願望は叶わないと思っていたが、言葉には出さなかった。所詮人間のやることである。たとえ金の力によって本物を集められたとて、聞きかじりの黒魔術や覚悟で得られるものなどたかが知れている。その会話をしている間に着いたらしい。眷属の運転手が扉を開けてくれて、二人は礼を言って降りた。屋敷は広く門扉から玄関まで歩く。植栽されて美しいバランスを保っていると思った木々は、今は少々おどろおどろしい。むつはノッカーを鳴らした。程なくして若妻が、ドアを開けたてくれた。
 彼女は高揚した頬で出迎えてくれた。その言葉も、そわそわとしたものだった。いつもの優雅さは無い。あの女は魔女だ、そうコミュニティでは評価されていたのを思い出す。老人の妄信を助長させる悪女だと。だが彼女は今、まるで少女のような可憐さを纏ってデルウハ達を迎え入れている。世間からは評価されないものの、彼女は老人の良妻であるかのもしれない。
 「ああ。いらっしゃってくださってありがとうございます。奇跡が起きましたのよ、ああ、まずお座りに…ああでも、お客様相手にはしたないのですが、先に見ていただきたいものがあるのです」
 「構いませんよ」
 むつもこくりと頷く。お茶よりも先に見せたいものとは何であろう。まさか黒魔術が本当に成功したのかと、デルウハは妙な波動を客間の方から感じた。吸血鬼同士であればその存在が分かる事がある。他の怪異も同様である。人間ではないものは、人間でないものがよく分かる、だが今客間から感じるのは…なんだか、本来ならひとつしかない気配が二つ以上に重なり合ったような妙なものだった。むつも感じるのかデルウハの影に隠れるようにしている。だが若妻はまるで浮かれた足取りで、いつもの客間に案内するのだった。
 豪華絢爛な家具の数々、高価な壁紙に床には絨毯が敷き詰められた、老人の権力と権威の集まる客間である。そこに異様な物が出来ていた。巨大な繭である。人が一人入る大きさの繭が、天井と壁の間に出来ているのだった。
 むつはその異様さに思わず後退する。その時、何かを踏んでしまった。服に何かが付く感覚がして思わず振り返ると、蚕のような細い白い糸が彼女の足に絡みついている。細い白い糸が、何条も何条も重なってまるで白滝のようになり、部屋に張り巡らされていることに気が付いた。まるで一夜で巨大な虫が客間を乗っ取ったかのようである。異様だ。
 むつは思わず、デルウハのコートを握りしめた。繭からは鼓動が、人間の心臓のような鼓動の音が聞こえて来ていた。もうすぐ、もうすぐ繭から何かが出て来そうである。芋虫が蛹となり、変態して美しい蝶と生まれ変わるかのようにーーー。
 興奮している若妻は、本当に生まれ変わるのかもしれないと言った。
 「あの人の願いが、生まれ変わって美しい顔になるという願いが叶うかもしれませんわ。ありがとうございます、むつさまと…デルウハ様のおかげですわ。どうか、どうかお二人には見守っていただきたいの」
 むつは冗談では無いと言わんばかりの青ざめた顔であったが、若妻は興奮していて気が付かない。デルウハは平然としているが、内心は面倒なことになったなと思った。黒魔術に溺れた人間が成功するのはきわめて珍しい事態だ。万が一に成功したとはいえ、この世に現れるのは人間ではない怪物である。この世に現れた所で、人目を避けて暮らすのが関の山だ。だがしかし、その禁忌の術を頼りたい、人間を超えてしまっても叶えたいという一途で、かなしく、むなしい欲望が、この世の摂理を突破した。こんな見物は久しぶりである。退屈な生の中で、デルウハが楽しめる見物だ。むつは不安そうであるが、デルウハは次第にわくわくとしながらこの流れを見守っていた。若妻がお茶を淹れてくれ、かろうじて糸に浸食されていないテーブルに運ばれてきた。むつは落ち着かぬ様子であったが、それでもお茶を飲むのは落ち着くためだと思ったのだろう。あたたかな紅茶に縋りつき、むつはごくごくと飲み干していた。行儀は悪いが、今は落ち着きたかったのである。さあ、この見物はどうなるか。デルウハも紅茶を飲みながら、繭を眺めるのであった。
 お茶請けにクッキーを出されていたが、口にする気にはならなかった。デルウハもそこまで口にする気は無かったのである。そして奇妙なお茶会の終わりは、唐突に訪れた。繭がぴくりと動いたのである。
 「え」
 音に敏感なむつが顔を上げた。ぴきりという音がしたのだ。その音にデルウハも気付き、若妻も顔を上げる。注目を集めた繭は、その注目に応えるように大きな音を立てて割れる。繭の中から美しい蝶が現れるのだ。老人の願いはあくまで、皮膚が普通である美しい顔を手に入れる事である。ただそれだけの為に、吸血鬼の血、悪魔の爪、神の文字を集めきったのだ。さあその願いを叶えた、人ではならぬものになってから美しい顔を手に入れたその尊顔を、どうか拝ませてくれ。
 デルウハも注目している中で、開いた繭の隙間から何かが出て来た。ぬるりと出て来たのが、頭である。黒髪の日本人の頭だ。ねばついたものがその頭に絡みついている。繭の中からずうるりと、頭がまるで出産のように出て来るのだった。
 むつはデルウハにしがみつく。幼い少女には、羽化のような出産のようなシーンは少々刺激が強く、嫌悪感があるのだ。次第に繭が開き、ずるずると人間が落ちてきた。てっきりその場にいた全員は、若い人間が現れるのだと思っていた。そう信じていたし、老人の願いはそれだけであろう。だが、その予想は違っていた。
 頭が出て腕が出た。裸の腕であった。若者の腕であった。やはり若返ったのだ。これは素晴らしい出来事である。黒魔術の力を借りたが、理想の姿を手に入れたのだ。若妻の興奮は最高潮になっていた。そうして繭から次に現れたのは、腕だった。むつが異変にデルウハの袖を強く引く。さらに腕。さらに腕…人間であれば一つだけであろう腕が、何本も何本も何本も出て来る。そうしてずうるりと繭から落ちたのは、蛹から生まれ変わった蝶ではなく…まるで芋虫のような姿をしていたのだった。
 男の裸体であるが、性器は付いていない。だが裸のからだに、十脚ほどの手がついている。そのせいか足は無い。肘の付いた腕だけが、十脚ほど連なっている。頭は黒髪で若い男のようだし、男の肌はつややかで若者のようだ。それなのに、それなのに。腕だけが多く、二本足では立てない。人間ではない。もう人間ではない。芋虫だ。
 
 芋虫か。むつは思い出す事があった。まだ六人で暮らしていた時の事である。芋虫は貴重な食糧であった。焼ければ良かったが、火だねを用意できないときはそのまま食べていた。鼠も捕まえたことがあったっけ。だが鼠は流石にいちこが火種を用意してくれた。焦げ臭い毛皮をひっしに剥こうとして、あれが大変で…そんな事を考えながら、むつは口の中に芋虫を唐突に思い出す。逃げ出そうと舌の上で必死にもがく小さな足の感覚に、それをぷちりと歯でつぶす感覚。生きる為の味。
 むつは、姉妹たちは生きる為に必死であったのだ。だが目の前にあるのは人間の芋虫だ。むつはぞぞぞと鳥肌が立つ。生きている。生きているのだ。その巨大な芋虫は。そしてそれは、むつの血を分け与えた為に生まれたのだ。そう考えると、むつの責任が大きいような気がしてデルウハの裾が離せない。男は、若妻の声に応じた。
 「あなた、あなた!?」
 若妻はてっきり若い男が出て来るのだと思っていたのか、あるいはこの状況は想定済みであったのか。必死に声を掛ける。すると、男は顔をぐぐぐっともたげた。その顔をむつは見る。その顔は、あの老人の希望通りに若者になっていた。白髪だった髪は黒くなり、肌はつややかだ。そして左半分の顔は若者そのものだった。だが、右半分の顔は変わっていた。その右目には大きな穴が空いていたのだ。その穴は眼窩よりも大きく、まるで抉れたようである。その穴のせいで、彼が生涯で隠していた火傷の跡は消え失せていた。消え失せていたいたが、漆黒の穴が空いているせいで、それは人間ではなかった。本来の人間であれば肉や骨が見えているはずだが、代わりにも漆黒の穴が空いている。やはり、人間ではなかったのだ。むつは急に自分が恐ろしくなった。
 むつが顔を歪めたのを見て、男は察したようである。自分の体に触れ、穴に気が付き、そして自分の意思とは違う蠢く手に気付くのだ。グロテスクな出来である。デルウハもその出来には顔を少しゆがめるのだった。
 何故、思い描くのは蝶にしなかった? 老人の長年にわたる感情があまりにも地を這う芋虫のイメージから逃げ出せなかったのかもしれない。生まれ変わるのであれば美しい蝶を思えばよかったのに、生まれ変わっても結局醜い姿のままではないか! むつの血を中途半端に摂取しているせいだろうか、だが男はその出来を今から変える訳に行かない。その出来に絶望したのか、男は床に項垂れてしまう。若妻は勘違いしたのか、彼を支えるためにさっと傍に駆け寄った。だがその行為がそもそも誤りであった。
 男は吸血鬼の血をずっと摂取していた。若妻がビーフシチューやカレーに血液を混ぜ込み、週に一回そうして食事を摂っていたのだ。定期的な摂取である。そのほとんどは牛や豚、羊と鶏、魚の血である。そのせいか吸血鬼の血を少しずつ体内に入れたからだろう、その身は少しずつ変貌していたのだ。血に飢える渇望が、老人の身に迫っていた。その渇望が湧き上がっているのに、目の前に若妻が近付いてしまった。その美しい首に、老人は噛み付いたのだ。その歯に吸血鬼特有の牙がある。若い肌を突き刺し、肉を噛みちぎったのだった。
 女性の絹を裂くような悲鳴が上がる。むつは席を立ち上がると、デルウハの椅子の後ろに逃げ込んだ。だが女性がじたばたと暴れ、腕を振り乱すのが音で分かった。だが男は芋虫状の体をのしかかり、血の一滴も残さぬように吸い上げている。怯えていたむつだが、この場では動かなければならないと勇気を振り絞った。そして咄嗟に、女を助けようとして駆け出したのだった。芋虫は簡単に振り払えたのだが、女はもう大量出血していた。怪我をした妻は、恐怖に駆られたように立ち上がると、出血をそのままにどこかに走っていってしまう。男と距離を取ろうとしたのか、あるいはどこかへ助けを求めたのか。むつが廊下に逃げ込んだ彼女を追っていったが、そこで絶命している彼女を見つけた。人間は脆い。むつがその死体の前に立ち尽くしていると、客間では大きな音が聞こえた。慌ててむつが客間に戻ると、男が暴れている。血の渇望に飢え、実際に理解者であった妻を殺してしまったのだ。男は見た目通りに、怪物になってしまった。
 「落ち着いてください。息をして、深呼吸できますか」
 「ああ。ああ、あ…ああああ!」
 だが渇望は留まる事を知らなかった。それなのに人間としての精神が、妻を殺した事実に耐え切れずに激しい混乱を生んでいる。怪物として生まれ変わったのなら精神も怪物であったのなら良かった。だが彼はなにもかもが中途半端な存在である。黒魔術のなれの果てである。しかし人間としてはもう生きられまい、怪物として生まれ変わってしまった男に、この世に居場所は無いのだ。だがデルウハすらも振り払うように、男は後悔と渇望の合間でただひた叫んでいる。
 「ここが通報先?」
 「みたいっすね。デカい屋敷ですね」                   
 一方の屋敷の外である。吸警のホットラインに通報が入ったため、銅矢は先輩と共にやって来たのだった。老人の屋敷にである。夜の闇の中に、広大な屋敷が浮かび上がり、それはどことなく不気味であった。
 三話 怪物
 銅矢が先輩と共に客間に押し入った時、怪物はデルウハの説得か少々だけ床でうごめいていて、むつがぎょっとしたような顔をしたのが印象的だった。銅矢達は通報者であろう妻が廊下で死んでいたことから、家人はいないのであろうと結論を付けていたので驚いた。殊更デルウハ達が吸血鬼だと知る銅矢は、より驚いたのである。
 「なん、でここに…!?」
 本来ならデルウハにするべき敬語が咄嗟に出なかったが、そんな事を気にしている場合では無かった。怪物が、銅矢の真横を飛んで行ったのである。先輩の首筋に噛み付くためにであった。銅矢が振り返った時、すでに先輩の首には牙が突き立てられていた。ぶしゅうと音を立てて噴き出す先輩の血が、銅矢の頬に飛び散って来る。
 「せん、ぱ」
 「あああああ!」
 だが咆哮したのは怪物であった。人間の精神と怪物の衝動がぶつかり合う為の咆哮であった。銅矢は、無抵抗に血を吸われる先輩にしがみつく怪物を引き剥がそうとする。だががっぷりと手が絡みついて出来なかった。だがそれでも、このままでは先輩の死が目の前にやって来てしまうのだ。銅矢は咄嗟に、むつを見やる。
 「手伝え!」
 「えっ」
 むつの怪力を思い出したのだ。銅矢の気迫に押され、むつは咄嗟に走り寄ると怪物を引き剥がしを手伝う。むつが触ると、怪物はあっさりと離れるのだった。先輩を抱きかかえ、銅矢は急いで床に寝かせ始めた。だが出血はあまりにも多量で、どくどくと音を立てて銅矢の手を汚す。
 「先輩、先輩…しっかり、しっかりしてください」
 銅矢の声掛けに、先輩はもう小さな声で応答するだけだ。出血を止めるように銅矢が軍服を脱ぎ、自分のシャツを破く。包帯の代わりにしようとしたのだが、布を押し当ててもあっという間に血がしみ込んでただ当てているだけだった。もういい、と先輩が小さく言う。銅矢は悔し気に歯を噛み締め、怪物を見やった。むつが支えている怪物は、何故か彼女の腕の中ではおとなしくしているのだった。あれが、先輩を殺したのである。銅矢の敵意は怪物に向けられるのだった。
 その敵意に反応したのか、あるいは新鮮な血を得られた喜びか、怪物は突然むつから離れると壁に登り始める。人間の手であれば登れるはずもないが、怪物の力であろうか天井まで登って張り付いたのだった。銅矢は拳銃を構えると、怪物に向かって仇討ちとばかりに照準を合わせる。撃ち込むが、怪物はかさかさと身をよじりながら逃げ始めたのだった。
 「くそ、待て! 動くな!」 
 発砲音が鳴り響く。豪奢な壁紙に穴が空き、木くずのようなものが散るも怪物の足は思ったより早かった。だが客間の天井を駆け抜けると、新たな血を求めてか銅矢に飛び掛かろうとしている。その瞬間、銅矢は着地点から逃げおおせる。床に降り立った怪物が起き上がった瞬間に、銅矢はそのやわらかい腹を蹴り飛ばしたのだった。怪物が飛び跳ねる。むつは、その様を眺めながら心配そうに見つめている。デルウハは黙って眺めているだけだ。銅矢は銃を改めて構えると、壁に叩きつけられた怪物を睨みながら、はあはあと荒い息を切らす。先輩を殺された仇討ちであるが、怪物は動かない。ここでとどめを刺せれば、と考えて照準が合っていた時の事だった。
 「ま、待って」
 むつが間に入ってきたのだ。妹と同じ程度の少女の乱入に、銅矢は思わず手を止めてしまう。怪物はどうやらむつの乱入に気付いたようであった。
 怪物は薄ぼんやりとした意識の中にいた。本能を衝く血への渇望が渦巻き、まるで生きる渇望が食欲の為にすべて塗りつぶされたかのようであった。これでは生きている意味が無い。ただ欲しかったのは、産まれてこのかた得られなかった美しい皮膚ではなかったか。
 この皮膚を奪った乳母は、たしか割腹自殺せよと命じられ、その翌日に裏の山で首を括っていたという。その命を持って償われたところで、老人の皮膚は元に戻らなかった。だから結局老人となった今、権威と権力を持って黒魔術に心を奪われ、人生を取り戻そうとしたのだ。その結果は、この怪物である。しかしこの怪物となったあとで、何故か心の片隅でなにか温かいものを感じる事があった。それはむつに対してである。むつに対して、老人は何故か母のような、姉のような肉親のような温かいものを感じていたのだ。それは血がもたらすものなのかは、もう怪物には分からない。銅矢に蹴り飛ばされ、意識もうろうとしている中でむつが傍にいる。怪物は守られている気分になった。
 むつはデルウハを見やった。デルウハはむつの好きなようにさせている。むつは怪物を見やった。怪物はむつに触れられれば、気を許したのか力を抜いた。若妻も、銅矢の先輩もむつの手によって引き剥がすことが出来たのはそのためだ。怪力が作用した為ではない。むつは怪物を見やる。怪物もくうるるる、と何か不思議な声を出すのだった。むつは怪物に向き直る。戦闘が苦手な彼女は、怪物を眷属にしようかと考えていた。吸血鬼としての、怪物としての動きは申し分が無い。だがその見た目はどうしても受け入れがたいものがあった。そしてむつ以外の言う事すら聞かないであろう、その本能の強さに、むつは内心おののいていたのだった。
 「ごめんなさい。…あなたは、もういい」
 怪物への拒絶だ。むつは精いっぱいの勇気を振り絞った。
 「あなたを眷属にしようかと思ったけど、それは無理。無理だった…」
 「だからごめんなさい…」
 怪物が絶望の淵に立たされた。むつへの繋がりだけが、この世において怪物に残された理性だったのだ。それが拒絶され、むつへの感情は本能に塗り潰された。銃を携えた軍人、大男、そうして残されたのはか弱い少女である。か弱い少女に牙をむくのは当然の事だった。むつの首に噛み付こうと口が開かれる。その牙が見えた時、銅矢の銃が男の頭部を貫通した。
 男は怪物に変貌していたが、脳は人間の頭部に詰まったままであった。だから貫通した為に、機能を停止し、男はあっけなく死を迎えるのだった。
 むつの横で倒れ込む男に、彼女は何の感情も抱かなかった。しかし銅矢がむつを助けたことに、デルウハは甘い男だと呆れていたし、むつは不思議なざわめきを覚えていた。それはじわじわと彼女の身に浸透する。それは屈辱であった。助けられたことへの屈辱だった。むつは、感情が伝わるのが遅い。だからといって何の感情を覚えないわけではない。じわじわと銅矢へ湧き上がるのは、怒りだ。
 「…なんで」
 「?」
 なんでと問われ、銅矢は不思議そうな顔をした。それは仇討ちをするためである。怪物に殺された先輩の遺体には、銅矢のコートが隠すように覆い被さっている。それは死者への敬意だ。その敬意をさらに勝ち取るために、怪物を討伐したに過ぎない。だがむつは、助けられたことに強烈な不満を持っているようだ。
 「なんで助けたの…」
 「俺は、仇討ちしただけだ。君は襲われそうになったから助けただけで」
 「助けなくて、よかったのに…!」
 むつの語気には怒りが滲んでいる。銅矢は困惑したように振り返り、むつを見やった。銅矢は彼女を助けたのである。感謝はあれど怒りをぶつけられる筋合いはない。だがむつは、むつの中では既に銅矢は敵意の対象であった。むつは銅矢に向き直る。銅矢は不思議そうな顔で彼女を見やった。その足元には、物言わぬ怪物が転がっている。
 「…私、戦うのは苦手だった。今も怖い。でも自分を変えたいと思った。みんな変わろうとしていたから」
 むつは懐から短剣を取り出す。そして指先を切ると、血を床に滴らせた。その血は硬化し、彼女の武器となる。銅矢はその能力を知っている。だから身構えた。
 「私も変わりたい。ここで貴方を倒したら、何か変わるかも。だから」
 銅矢は明確な敵意に身を震わせる。むつは前回に対峙した時には戦略を練っていたものの、確実に銅矢を仕留めには来なかった。だから今、彼女の本気を感じて身震いしたのだ。むつは硬化させた血で輪を大量に作ると、部屋の中に投げる。固い凶器が宙を舞い、動きを制限される銅矢に、むつが短剣に血を纏わせて突撃してきた。銅矢は咄嗟に身を翻して避ける。だが動いたせいか、飛び回っている輪が銅矢の頬を切った。血が吹き飛ぶ。
 むつは追撃で更に身をよじって、短剣をもう一度突き刺そうとした。だがリーチがある銅矢がその手を掴み、むつを遠くに投げ飛ばす。なんとかリーチを得られた為、銅矢は大きく息を吐いた。まだ周囲には血の輪が、音を立てて部屋を飛び回っている。それも力を失って落ちていったのだった。
 「…はあ、はあっ…はあ…」
 「ふーっ、ふーっ…」
 銅矢とむつの息が切れていた。互いを睨み合い、敵意を隠さない。互いに致命傷を与えなければこの戦いは終わらない。むつは戦闘慣れしていない自分を恨むが、銅矢を追い詰めている自信はある。むつは見えぬような場所から血を垂らし、銅矢は血が床をじわじわと侵食していくのに気付かず、隆起し硬化した血が、銅矢の身を切り刻む!
 「…っぐ…!?」
 額、頬、脇腹、太もも。切られた箇所はそこまで深くないが、銅矢の意識は、むつから怪我の方へと移っていった。その隙に、むつの短剣に血が纏い、まっすぐに伸びて銅矢の脇腹を貫通した。
 「がッ!」
 銅矢は呻いてその場に崩れ落ちる。むつはその様子に、少しだけほっとしたように息を吐いたのだった。だが銅矢は、額から血を流しながらすぐに立ち上がった。その瞳は恐怖や怯えは無い。だから、むつはその瞳に一瞬だけたじろいだが、これ以上逆転することは無いと自分を納得させる。そして、最後は吸血鬼らしくすることにした。彼女は勝利を確信し、獣のようにその首を噛みちぎらんと飛びかかったのだった。
 主人であるデルウハは、眷属のむつの変貌ぶりに満足し、そして勝利を確信した。銅矢はまだ目を敗北に滲ませずにいる。だが銃を構えたまま、床に倒れ込んでしまった。体勢を崩した彼に勝機は無い。だがむつの背ばかりを見ていて、銅矢の姿が視界に入った時に、その確信は誤算だと気付いたのだ。
 むつは本能的に優位であるために、銅矢に飛びかかった。対する銅矢は、本能的恐怖であろうか、足を後ろに滑らせて、繭の糸に引っ掛けて転んだのである。綺麗に背中から彼は落ちて行った。銃を構えたまま、まるでむつの視界から消えて飛びかかる彼女を避けるかのように。
 それは偶然か銅矢の戦闘慣れか、あるいは神がいるのなら彼を生かす為か…その理由は分かる筈もなかったのだが、今デルウハが見えているのは圧倒的なむつの不利であった。銅矢は銃を構えたまま床と平行に倒れていき、その間に、自分の上で無防備に腹を晒しているむつの体に発砲する。
 「むつ!」
 デルウハがむつを引き寄せるために差し出した手は無意味だった。銃弾は命中し、むつの体がくの字に曲がった。吸血鬼対策がなされた銃弾である。それが致命傷でなければ良かったが、銅矢は容赦なく…むつの額に撃ち込んだようだ。
 銅矢は素早く下がり、デルウハは床にべちゃりと倒れ込んだむつを回収する。その顔には怒りが滲んでいた。ああ、こんな顔をするのだなと銅矢は他人事のように思う。人間の命を弄んできた高名な吸血鬼である。六人もいる眷属をひとり失ったからといって、怒りを向けられる筋合いは銅矢にはない。これも仕事である。そして銅矢が背負った使命である。吸血鬼の撲滅を掲げる使命に就いている以上、銅矢はデルウハをこのままのさばらせておけないのだ。今度はデルウハの額目掛け、銅矢は発砲する。その瞬間だった。ぐりん、とむつの首が上がった。銅矢は驚くが照準はもう変わらない。だがデルウハの額の前に、血が瞬間的に塊となり壁となり、命を奪う銃弾を包み込んだのだ。
 むつの顔を銅矢は見やる。額が割れたのだろうか、血が彼女の頬まで伝っている。だが生きていた。ふ、ふ、と荒い息をしていることから、額を貫通しなかったのか、潰れた銃弾がむつの額からぽたりと床に落ちた。咄嗟に血で防いだのだ。そのため生きている。デルウハは安堵した。
 「むつ」
 「ふーっ…ふ、…ご、めんなさい」
 「言うな。分かった。お前の気持ちは分かった」
 デルウハはむつを抱きしめる。一方の銅矢は出血と脇腹の痛みに耐えながら、次の照準に備えていた。まだ軍人である銅矢の方が気を抜いていない。二発目、三発目と撃った、だがその全てをデルウハの翼が弾いてしまった。銅矢は更に構える。だがデルウハは、もう銅矢への興味は失ってしまったようである。
 「もういいだろう」
 「…なに?」
 「怪物は倒した。お前は仇討ちを果たした。もう戦う必要はない」
 「ふざ、けるな。俺はまだ、俺はまだあんたを、あんた達を倒しちゃいない…」
 銅矢はまだ意欲を失っていないようである。むつはデルウハの腕の中で、銅矢の顔を見た。血で覆われた顔の中で、瞳が、銅矢の瞳がらんらんと輝いている。恐怖や怒りではない。ただらんらんと、輝いているのだ。むつはその瞳を見た時、デルウハにしがみつく。デルウハもむつの敵意の無さを感じ取ったらしい。巨大な翼が、二人を包み込むのだった。
 「待て! 待て、…く、そ…」
 目の前から敵が消え失せ、銅矢は出血と痛みで気が急に遠くなる。だが倒れるわけにはいかない。まだ報告をしなければならないのだ。しかし、気が遠くなり、銅矢の視野は真っ白に消え失せるのだった。
 むつは屋敷に戻ると、ハントレスが心配そうに一斉にやって来た。よみといつかが不安げな顔をして顔を覗き込んでくる。
 「ちょ、なにどうしたの?!」
 「怪我してるじゃないか…!」
 むつは心配されたのが嬉しいのか、額が傷付いた顔を綻ばせてしまう。
 「うん」
 「おいで、こっちで手当てしましょう」
 いちこが手を繋いで医務室に連れて行く。後からやって来たデルウハは他の姉妹たちから質問責めになったのだが、むつの成長に必要だったと濁すのだった。これで後はどうなろうと知った事ではない。調べればわかる事だ。黒魔術によって屋敷の主人が怪物に変貌し、通報した妻を殺してしまい、駆け付けた吸警から被害者が出たことなど直にわかる事であろう。そこには、むつとデルウハの痕跡が残ってもいない。銅矢が必要以上に傷付いたのは、怪物の仕業となってすべて片付くであろう。デルウハは翼を見やった。弾いたものの、腐っても吸血鬼対策の銃弾であろうか跡が残っていた。銅矢が付けた跡である。デルウハの思考は銅矢のことへと流れる。
 しかしむつが戦闘慣れしていないとしても、よく対等に渡り合おうとしたものだ。ただの人間であるのに食らい付き、最後まであきらめずに銃を手放さなかった。最後に見た銅矢の瞳には、恐怖や敵意は微塵もなかった。むつも見た瞳だ。彼女が戦意喪失した瞳である。あの瞳は……。
 そう考えている間に、手当てを終えたむつが執務室を訪れてきた。いくつか言葉を交わした後、むつは言う。
 「どうして殺さなかったの?」
 「…お前はどう思った。最後の奴の目を見ただろう」
 「うん。…まっすぐだった。何にも怖くもなくて、私たちを憎んでもいなくて、ただ……ただまっすぐだった」
 デルウハが評するのなら、あれは生命力が燃える瞳であった。感情を超越し、ただ生きる為にそこに立っているまっすぐさがそこにあった。
 「あの場でも生きようとする奴らは、基本的に厄介だ。死を恐れないが、死ぬつもりもない。何としても生きようとする奴らを殺すのには、労力がいる」
 「私がいたから出来なかった…?」
 デルウハは首を振った。
 「害虫と同じだが、面白いから生かしてやっただけさ。お前が血を分けてやった老人なんかよりもよっぽどな…」
 デルウハは微笑んでいる。むつは怒りを買ったわけではないのだと少し安堵した。そして今更ながら額が痛むのだった。
 銅矢が目を覚ましたのは三日後の事だった。ベッドから動けるようになったのは一か月後の事だ。その頃にはあのてい怪事件の解明は進んでおり、あの怪物に関する報告を受けてから、銅矢はふさぎ込むようになった。
 そんなある日である。二会敷少将と親しい所が軍部を訪れた時、彼は怪物の報告書を手にしていた。解析を委託されたのである。黒魔術の知識がある者は軍部に少なく、そこで提携先の所のもとに声が掛かったのだが、所でも黒魔術は詳しくない。怪物の解剖と文献を当たり、物的証拠などを集めてようやく結論付けたらしかった。その終わりなき苦労話を二会敷に語っていた所だが、突然遮られる。
 「ねえシゲさん。あの子に会ってやってよ。ずっと元気が無くてさ」
 「え?」
 「この事件担当したの、銅矢くんなんだけど。…同行した先輩が殉職されてね。それだけじゃなくて、あの怪物が元人間だったって知って。ショックを受けてるらしい」
 所が銅矢の元に会いに行くと、彼はまだ入院しているものの部屋から外に出ていた。だがいつものように溌溂とした元気さは無い。
 「銅矢くん」
 「あ、所さん。すみません、気付かなくて」
 「いいんだよ気にしなくて。それより聞きたいかと思って…」
 「え?」
 「あの怪物の事だよ。解析の結果、あの屋敷の主人である××△△さんで間違いなかった。…でも、変貌した皮膚組織や組織片からみて、もう銅矢君が対峙した時には人間じゃなかったことが判明してる」
 「……」
 「銅矢くん。気に病むことは無い、もうあの時あの人は人間じゃなかった」
 「でも、俺は…吸血鬼だと思って、怪物だと思って撃ったんです…」
 ぐす、と銅矢が鼻をすする音が聞こえる。
 「元人間だなんて思いもしなかった…俺は、考えもしなかったのに…」
 「そんな事言ったら、吸血鬼も元人間がいる。気に病む必要はないよ」
 二会敷もそう言うが、銅矢は泣き出してしまった。人間を撃ったことが思ったよりも枷となっているようだ。所は少し悩んだが、銅矢の隣に座ると彼を抱き寄せた。肩口に頭を乗せさせて、背をぽんぽんと叩く。
 「大丈夫だよ、大丈夫。銅矢くんのせいじゃない」
 「俺、おれは…人間を撃ちたかったわけじゃ…」
 「うん、分かってる。私も二会敷くんも、銅矢くんの味方だよ」
 「う…うう~…」
 この事件により、心に深い傷が残ったのかもしれないと二会敷は若者の未来を案じる。だが銅矢は所の腕でひとしきり泣いた二週間後、職場に復帰してきたのだった。
 「もう大丈夫なの?」
 「はい。…俺、やらなきゃならないことがあるので」
 あの晩に繰り広げられた、語られることのないデルウハとの邂逅。死んでしまった先輩への思い。多少心はすりむいたかもしれないが、銅矢は再び立ち上がる事を選んだのだった。むつもまた同時に、戦闘への嫌悪感を克服し、少しだけハントレスの中に馴染んだような気がしたのだった。銅矢とデルウハ達の縁はまだ続いていくのだった。
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1月5日分書くよ
初公開日: 2025年01月05日
最終更新日: 2025年01月06日
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