風邪をひいた。
 この、年末のいそがしい時に、である。数日前よりなにやら喉の奥のほうが痛むような気がしていたのだ。仕事納めまではぎりぎり持ちこたえたものの、休暇に入った途端、このざまだ。
「……おい、コラさん」
 あんた、熱あるぞ。そもそも、風邪が発覚したのも、寝食をともにしている医師の彼による指摘であったのだから世話がない。ええ、と胡乱な声で返したのは昨晩の寝床の中のことで、どうやらもうそのころにはなかなかに意識がもうろうとしていたらしい。せっかくもぐりこんできた熱源が早々に出ていこうとするのを、さみい、ロォ、などと、聞くに耐えないような呂律の回らぬ声で引き留めようとしたおれにも、彼は、すぐにもどるから、と、この前髪をかきあげてはひとつ、くちづけをくれて頬を撫でては、ほんとうにすぐに水と薬を持って帰ってきたのだったか。
「……いや、いやいや」
 おまえ、うつっちまうだろうが。溶け切った氷枕の感触に、ぼうっと目が覚めた今朝、胸元にかかる寝息に見下ろせば、彼の黒い頭が、それはもうぴっとりとくっつくように眠っていて思わず苦笑する。知らぬ間に掛け布団も一枚増やされていて、寝間着の下、じっとりとかいた汗に、よくもまあこれほどまでに安眠できたものだ、と重く気だるい腕を持ち上げてはその肩を揺すったのだ。
 そこからの彼の手際もまた、目を見張るものがあった。すこし寝癖のついた髪のまま、ほとんど目も開かないといったようにじっとしていたのはほとんど十分程度のことで、おもむろにこの汗ばんだままの額へと手を伸ばしてきたかと思うと、昨日よりは下がったな、とつぶやいて身を起こす。そのまま、汗を拭くホットタオルや着替えを持ってきては、この寝間着の釦を外そうとするものだから、それくらいはできる、とあわてて押し留めたおれは、そうかと言いつつもどこか残念そうな――いや、これは意識しすぎたおれの気のせいかもしれない――彼が寝室を出ていくのを見送ってから、ほどよく熱いタオルの恩恵にあずかったのだ。
 ひどく痛む喉と頭と関節、倦怠感がずしりとのしかかる全身に、きっとこれは流感でちがいないのだろう、と、正月を前に軒並み閉まってしまった病院を思う。きっと畑違いではあるのだとわかってはいるが、こうしたときに彼がいてくれると、現実問題、こころづよいと思ってしまうと同時、せっかくの休暇を潰してしまったようで申し訳なさも先に立った。ひとしきり清拭を済ませてすっきりと軽くなったような身を、乾いた替えの寝間着に通して、のそのそと洗面所を経由してからリビングへと向かう。
「コラさん。起きてこられたのか」
 さむいんじゃあねえか。沸かした湯をカップに注いでいた彼が、この姿を見るなり節介を焼こうとするのがおもしろい。しかしたしかに、その台詞を聞いたそばから思い出したようにぶるりとふるえる身体に、素直にさみい、とがらがらの声で告げれば、彼はそら見ろ、と言わんばかりに半纏を持ってきてはおれの肩にかけるのだ。おれが座るいつもの席にはほかほかと湯気を立てたスープが置かれていて、のろのろと椅子に腰掛けるおれの前に、そっとスプーンまでもが置かれる。
「ほかに、なにか食べられそうか」
 粥は昼にするとして、ヨーグルトくらいならあるぞ。冷蔵庫を開けて声をかけてくる彼に、こくりとうなずけば、パックから山盛り三さじほど器に出したヨーグルトにはちみつをかけてくれるのだから、ああ、これを至れり尽くせりと言わずしてなんと言うのだろう。あの、いつか前世の森の中、病の進行に倒れたおさない彼を前に、ろくになにもできないばかりか、倒れた彼自身に教えを乞おうとした大のおとなの情けなさを、あまりの無力さを思い出して、ひとり苦笑する。おそろしいほどの熱を発するちいさな身体を、そのよわよわしいいのちの灯火を、けして吹き消されまいと、ただただ必死に腕に抱いて、ぬくめようとした、あのがむしゃらは、きっと彼にとってはたまったものではなかっただろう。ほんとうならばどこかあたたかい、それこそ、療養に適した清潔な寝床へ、ゆっくりと寝かせて、栄養のあるものをたくさん食べさせて、存在していたのならば、あのいまいましい病の特効薬を飲ませてやりたかったのだ。もうだいじょうぶだぞ、と、おまえをむしばむものは、おまえをさいなむものはもう、どこにもないのだと、そう安心させて、抱きしめてやりたかったのだ。
 ただのこどもが受けられるはずの、無償の愛というものを、あの子にも、思い出してほしかった。おまえは本来、まもられてしかるべき子であったのだと。あんな迫害を受けるいわれはどこにもないのだと、おまえをあいする者は、たしかにここにいるのだと、知ってほしかった。
「――おおきく、なったなあ」
「……またそれか」
 いくつだと思ってんだ。ぽろ、とこぼれた禁句に、のぼせた思考がほぞを噛むより先に彼があきれたような顔をする。ああ、いや、すまん、と、いまや共に道を歩むと誓った彼にはあまりに失礼な台詞を詫びれば、正面に腰を下ろした彼は、べつに気にしてねえ、と頬杖をつくのだ。
「父さまに、年始の挨拶は遅れるって連絡しておいたから、正月はゆっくりしよう」
「ああ……そっか、おまえにうつってたら、うつしちまうもんなあ」
 ごめんな。罪悪感に嘆息すれば、気にしないでくれ、と鋭い目許をややゆるめた彼が、スープを指して促す。ず、とぬくいそれをすすれば、痛む喉にしみはしたものの、じんわりとした熱がゆっくりと腹まで下っていくのだ。病に抵抗している身体がすこし、ほぐれるような感覚に、ちびちびと飲み続けながら彼に視線を遣ると、おだやかにこちらを見つめていたらしい彼は、ふ、と、その硬い口許をほころばせた。
「年越しそばくらいは食えそうか」
「……まあ、多分」
「無理して声を出さなくてもいい」
 いてえだろ。慮るそのことばに、ん、とうなずきながら、そこににじんだ正体の見えない感情に、内心で首をひねる。スープを飲み干し、はちみつがけヨーグルトを口にしたおれは、そこで、あ、と失念に気がついた。
「おれも、連絡しねえと」
 ドフィはともかくとして、おれが帰らねえのはびっくりさせちまう。腰を浮かしかけるおれに、いいから、と彼が制して携帯端末を寝室に取りに行ってくれる。どこまで過保護なんだと思う間にも戻ってきた彼は、今度はこの隣に座っては、実家に連絡を入れるおれの手元を一緒に見つめているのだ。
 はた、と、思い当たったのは、そのときだ。
「……ロー。おまえ、さあ」
 ふたりでゆっくりできるからって、よろこんでねえか。濁りきった声で、それでも、笑みを噛み殺しながら問えば、その肩が揺れた。いかにも、ぎくり、といった擬音がつきそうなその揺れかたに、伏せたままの顔を覗きこんでやる。
 ふい、と、逸らされた。
「……図星?」
「……あんたがつらいのを、よろこんでるわけじゃあねえ」
「フハ、なんだ、そんなことか!」
 たしかにしんどいが、そんなことは思わねえよ。ぴょんと跳ねたままの黒髪を撫でつけるように頭に手を置いてやれば、いささかばつのわるそうな金のひとみがこちらを見上げる。でもたしかに、こんなにのんびりできそうな正月は、ひさしぶりかもしれねえもんなあ。甘味と化したヨーグルトを口に運び、そうわらうおれに、まあ、そうだな、とぎこちなく返してくれる彼は、ああそうだ、とばかりにまた席を立っては、薬と水を持ってきてくれるのだ。さてはこの甲斐甲斐しさにもちょっとは罪滅ぼしの気持ちがあったな、とは思いつつも、普段の彼との違いもさほどわからなかった自分も大概だとしてだまっておいてやる。おとなしく彼の出してくれた薬を飲み、なんとなく満たされた胃にふう、と息をついて半纏の身を少し縮こめていると、彼の、健康的な小麦色の手が、そうっとこの前髪の下へと手を差し入れた。
「上がってきてるな」
 やすんできたほうがいい。買い出しはおれがやっておくから。ちゅ、と、止める間もなくふたたび額に落とされた接吻に、先ほどよりははっきりしている意識がじわりと顔に熱を運ぶ。おまえ、そんなすずしい顔して、うつっても知らねえぞ。よせばいいのに言わずにはいられなかった抗議に、彼は、だいじょうぶだ、気はつけてる、と、実に疑わしい返答をくれるのだ。
 至近の蜂蜜色が、いとおしげに細められる。
「おれが熱なんか出したら、あんた、なにをしでかすかわかんねえからな」
 だから、また、治ったらな。頬に沿った手の、その親指が、さりげなくこのくちびるをなぞる。今度こそかっと血の昇った顔に、おまえ、この、ばか、と口走るも、同時、襲い来るめまいに、ああ、もう、いいから寝てこい、と、しかたなさそうにたしなめられるのも、癪にさわるのだ。
「いいか、次おまえが熱出したら、もっともっとあまやかしてやるからな!」
「どんな宣言だ」
 でも、まあ、期待してる。この図体を支えて寝室に向かいながら、わめくおれをやりすごす彼が、しかし、その頬を崩す。はにかんだようなその横顔に、いつか宝箱にしまいこんだおさない面影を見た気がして、おれはそれっきり、こみあげる感傷になにも言えないまま、どこかごきげんな彼の手によってぬくい布団へとだいじにしまいこまれた。
どさくさまぎれ
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ゆべ
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書き納めのローコラ
初公開日: 2024年12月30日
最終更新日: 2024年12月31日
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