2.introduction
 母は合理性のある女だった。
 「男の子は母親に、女の子は父親に似るから」とまるでコンプレックスがあるかのように親戚からは一般的な言葉でひとくくりにされたが、姉にもその合理性は受け継がれていたように思う。父は感傷的で、穏やかでも気性を優先する人間だった。その気質もまた同時に姉に注がれていた。恐らく自分にも多少は注がれているのだろう。
 今考えれば、子供四人を育てるのに合理性が必要だったのだろう。必然性があり、身に付いたものなのだ。そんな母を、気性の穏やかな父は愛していたと思う。だが同時に、呪う事もあった。きまって口喧嘩や母が有利に運ぶような議論の際に、合理性を盾に取った母を、その言葉を口にする母ごと、父は呪ったように思った。だがその一瞬だけだ。父はそれ以外の母も、かしましい姉も自分も、皆愛していたように思う。愛がいかようなものかは両親から先ず子供に注がれる。それを受け取る器は子供が、産まれる前に神から授かるのだ。その器が小さかろうと大きかろうと、子供は愛を受け取り、またそれを捨てるのか増幅させるのかは子供次第である。
 デルウハはいかように受け取ったのか、我々には計り知れぬものだ。ただ彼が愛や情を否定しているかといえば、そうではない。それら全ては、彼にとっては道具に過ぎないというだけである。その在り方を否定しないが、己はその根幹に揺るがされることは無い。それがデルウハのあり方である。だが、彼にも無償の愛が注がれる時期はあった。全てを無碍にされて育ったにしては、あまりにも愛や情を彼は知りすぎている。根幹は、きっと愛情深く育てられているのだ。その上で全てを踏み付けている。その成り立ちを知らなければ、ただの怪物や化け物、悪魔にしか見えぬだろう。
 彼を雇い入れた所長は、デルウハをまだ悪魔としての側面しか見えていなかった。出会って間もなくの頃の、従順で雇ってくれという人の良い笑みがこびりついているほどだ。いざという時に彼は笑顔を巧みに操り、人心を操る。だが縋り付いてきたその手を簡単に離す。自分も”いつその手を離されるのか分からない恐怖”がそこにあった。それなのに、デルウハが懐いている。それもまた所長には恐怖であった。
 何故懐いていると思うのか? 二人きりになる途端に背後から抱き着いて来たら、誰だってそう思うだろう。所長は、まるで熊に襲われている気分だ。太い腕ががっちりとこちらの腹も腰も掴んでしまって、動きようがない。だが足は自由なので、歩き出そうとすると何故か歩けた。所長の歩幅に合わせて、デルウハも歩幅を合わせてくれている? 何故?
 「あの、デルウハ殿」
 目に見えない何かを吸われているような、暖を取るにしてもこれではあまりにも密着度が高い。これがデルウハの好意でなければ何なのか。何の感情もなく使い古すだけの人間に抱き着いて、体臭も何もかもを気にせずにいる。所長はデルウハと出会って日が浅いが、何を間違えたのかと思い煩う日々である。
 まだ出会って一日だよね?
 イペリット対策もハントレスについての共有項目も、研究所の説明も案内も雇用契約も結んだ。研究職と積極的に関わる必要はないのか、所長が常に窓口になっている。あとはハントレスとの関わりくらいか。この間に話したことといえば、先だってこのコロニーへの思いくらいである。所長としての責務を伝えたところで、彼は一笑に付するだけだと思っていたが、思っていた反応とは違っていた。
 「なんだ」
 デルウハがそう答え、ぱっと気配が背後から消える。やはり何かを吸われている気がする。得体の知れぬ軍人など信用すべきではなかったのか…もう後悔しても遅いのだが、デルウハはこの奇妙な時間さえなければ、ハントレスを合理によって殺害したあのデルウハであり続けた。所長は昨日は見ないふりをするしか無かったのだ。だが、今日は聞いてみようと思った。コロニーで生活を共にする上で、何かあるのなら今聞いておかねばならぬと思ったのだ。所長としての責務のひとつである。
 「あの、何故私を抱き締めるんです…?」
 デルウハは首を傾げた。あっけらかんとした態度である。
 「ダメなのか」
 「ダメ……といいますか…」
 よく意味が分からない、というのが所長の本音である。もしこれが異性であるなら、年齢差を鑑みるにほとんど有り得ないことであるが、万が一にでも愛情表現に伴うアピールかと思う。だが万が一、億が一の可能性だ。同性であっても枯れかけた人間を抱き締める趣味があるのなら、それは否定しない。ただそれは、描いているデルウハ像といまいち結び付かなくて余計に不思議なのである。
 「ダメではないですけど……」
 気持ち悪いと思っても、所長が振り解くのは容易ではない相手である。自然と受け入れるしかない体格差であるし、趣味という事に留めるべきだろうか。
 「何かこう、挨拶みたいなものでしょうか…?」
 人を抱き締める嗜好が…あるかは分からないが、所長はとにかく口にしてみた。ここは日本である。だが閉鎖空間であり、外の世界とは隔離されている。だから外の世界で、人間はいつの間にか互いを抱き締めて慰め合っているとしても、流行は分からないのだ。だから、所長はデルウハだけが特殊ではない可能性に賭けた。だが。
 「そうじゃない」
 デルウハはあっさり挨拶や流行ではないと否定してしまった。
 「はあ…では何故」
 「”父親”に甘えちゃ悪いのか?」
 父親。昨日デルウハが口にした単語だ。所長は気にも留めていないつもりだったが、急に思い出した。デルウハが拘った、コロニーを愛する所長への揶揄に似た言葉だと思っていたのだが……。
 「”父親”ですか。あぁ…なるほど…?」
 急に家族愛が持ち出されて、所長は困惑した。このコロニーに所属したのなら、デルウハにとって所長が”父親”代わりだということだろうか? それも唐突な話である。確かに年齢を考えれば、これだけ大きな息子がいてもおかしくはない。もしかして、所長はデルウハを大きく誤解していて、本当は家族愛に満ちた……いやそれならば、ハントレスをあそこまで素直に手に掛けるのはおかしい。あんなにも便利な部隊だと、目を輝かせたのも、どうにも結び付かない。殺人に容赦のない悪魔、躊躇いもない斧さばきとこの”父親”という単語は不釣り合いにも程があった。だから所長は愛想笑いのようなものを浮かべる。
 「デルウハ殿も甘える事があるのですね…?」
 深く考えても答えは出ないだろうと所長はそれ以上考えるのをやめた。それには、彼はデルウハを知らなさすぎるのだ。デルウハはもっと複雑な面があって、きっと答えはこれから見つかるのだろう。希望的観測であるが、所長はひとまずそう思って流すことにした。明日には抱き締める癖は終わるかもしれない、そう考えたのだ。あくまで希望的観測である。所長にとって都合の良い希望が、彼が思い描く未来には詰まっている。
 ”父親”に甘えるくらい、若い女性に手当たり次第に声を掛けたり、女性を追いかけ回すよりよっぽどマシだ。所長はこの若い男に、その傾向がないことに安堵していた。このコロニーを荒らすような人間を受け入れることは出来ぬからだ。だから所長は自分が抱き締められるくらいは、日々の業務で流せると思っていた。それも長時間ではない。自分の苦にもならない奇行は、デルウハの満足に繋がるのなら問題ない。
 「私のような者で宜しければ、どうぞ」
 その言葉に、デルウハが目を細めたのは所長は気付いていたが、すぐに忘れ去ったのだった。
 
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