今日は最近サボりがちだった居合の稽古をしてきました。その帰りが夕方だったのでどうしようかと迷いましたが、調べてみると見よう見ようと思ってた本作がそろそろ上映終了ということだったので見てきました。
 というわけで今日見てきたのはこの作品!
 前作「ジョーカー」で全世界に衝撃を与えたその2年後を描く本作。「悪のカリスマ」として祭り上げられたジョーカーことアーサー・フレックは解離性同一性障害と診断され収監されていました。獄中にいるアーサーに対し、前作で世間に衝撃を持って迎えられた「ジョーカー」には多くの人々が賛同・同調。そんな中、前作で5人を殺した罪を裁くべく裁判が行われることに。
 時を同じくしてアーサーは、獄中で謎の女性リーと知り合います。自分を理解してくれるリーに惹かれるアーサー。アーサーがはらむ「ジョーカー」としての狂気はどうなるのか? リーの正体は? そして裁判の行方は?
 映画に限らず、作品を見る時は心構えがあります。アクション映画を見る時はアクション映画を見るときの、スプラッター映画を見る時はスプラッター映画を見るときの心構え。
 では本作はどんなジャンルの映画を見るときの心構えをしたかというとまったくわからなかった。見る前にはどんな映画になるのかまったくわからなかったからです。
 そして見終わったときの感想なんですが、なんというか「躁うつ病みたいな作品だった」というのが最初に出てきた感想でした。
 わたくし人形使いは例によって例のごとく事前情報はほぼ入れずに見に行ったので話の展開はまったく知らない状態だったんですが、公開からかなり時間が経っていたのでTwitter(頑なにXとは呼ばない)でネタバレにならない程度の感想には触れていました。その中にけっこう多く見られたのが「ミュージカルみたい」というのがありました。
 確かに本作は随所でミュージカルを思わせる歌唱シーンが挿入されます。それらのシーンはどれも華々しく、あるいは可笑しいステージショーのように演出されています。しかし思うに、これらの歌唱シーンはほとんどすべてアーサーの幻覚・妄想ですよね。突然始まるし明らかに周囲の人間はまったくそれらのミュージカルに関与していない。そしてなにより、これらの華々しいステージショーのようなシーンの直後には決まって現実に引き戻されるかのようにアーサーの惨めな姿が映し出されるんですよね。
 端的なのが刑務所からの脱獄シーン。普通ならあの流れなら見事脱獄に成功して再び悪のカリスマとして復活……とかなりそうなんですが、歌が終わった直後に再逮捕されてるしな。
 本作ではこの歌唱シーンから現実に、という流れが幾度となく繰り返されます。これが本sなくに対して「躁うつ病みたいな作品だった」と思った理由ですね。
 バットマンという作品におけるジョーカーはまさに悪のカリスマといった趣のキャラクターでですが、前作のジョーカーことアーサー・フレックは悪のカリスマとは程遠い、脆弱と言っていい人物でした。
 そして本作のアーサーはそれに輪をかけて脆弱というか、言ってしまえば「ジョーカーの残りカス」とさえ言えるような状態。
 偉大な功績を上げた人やショッキングな事件を起こした人は、しばしば本人の人格や経歴をすっ飛ばして、それらの功績や事件だけがひとり歩きしてしまうもの。本作におけるアーサーはまさにその状態、というか作中の誰もがアーサーを「悪のカリスマ・ジョーカー」としてのイメージでしか認識していない。「悪のカリスマ・ジョーカー」のイメージは完全にひとり歩きして、社会に感染している。
 タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」とはwikiによれば「フランス語で『二人狂い』という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のこと」だそう。本作における「悪のカリスマ・ジョーカー」のイメージは完全にアーサーの手を離れ、社会に潜在的に潜んでいた「準ジョーカー」たちに蔓延しています。作中でしばしば歌われる「聖者の行進」の一節「おれもその列に加わりたい」もそれを現していると言えるでしょう。
 ……しかし、タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」は彼ら準ジョーカーたちを指しているのではありません。なぜなら「二人狂い」だから。
 「フォリ・ア・ドゥ」が本当に指しているのは、アーサーとリーであることは明白と言っていいでしょう。では、「二人の間で共有されている妄想」とはなにか? それこそが「ジョーカーであるアーサー」だと思います。
 前述の通り、本作におけるアーサー・フレックはいち囚人として収監されている、悪のカリスマとは程遠い状態にあります。ではジョーカーも消え去ったかと言うとそれは逆で、人々の間では「悪のカリスマ・ジョーカー」のイメージは大きく広がり強固なものになっている。
 しかしその「悪のカリスマ・ジョーカー」のイメージははもはや完全にアーサー・フレックという人物から乖離してしまっている。収監されているアーサーはすでに抜け殻です。
 そんなアーサーが唯一ジョーカーに立ち戻れるのが、リーといっしょにいる時。アーサーがジョーカーとなって「悪のカリスマ」として振る舞えるこのわずかな時間こそが、「フォリ・ア・ドゥ」の正体なんじゃないでしょうか。
 謎の女性リーは、明らかにジョーカーのパートナーであるハーレイ・クインのポジションとして描かれています。では、アーサーはパートナーであるハーレイ・クインのポジションであるリーと恋に落ちることで悪のカリスマたるジョーカーに立ち戻ったのか。答えはノーです。アーサーは最終的にリーにも拒まれてしまう。
 さらにアーサーは最終弁論に、本作ではこれまで妄想の世界でしか登場していなかったジョーカーとしてのメイクと衣装で臨みます。しかしここにきてアーサーは、まるで魔法の効力が失われてしまったかのようにジョーカーとして振る舞えなくなってしまいます。あまりにも惨めであまりにも哀れな姿を周目にさらす中、傍聴席にいたリーは姿を消す。そして下される判決。有罪、有罪、有罪……。
 閉廷が告げられるより先に起こったのは突然の爆発。裁判所を取り囲んだ群衆が自動車爆弾を爆発させたのでした。その爆発に呆然となる中、アーサーは群衆の中から現れた囚人たちに釣れられて逃げるものの再び収監されてしまいます。そしてアーサーは最終的に、相部屋になった囚人に突然刺殺される。そして、目を見開いたまま微動だにしないアーサーを映したまま物語は幕を閉じます。
 この裁判所の爆発からラストシーンまでの流れがあまりにも悲しすぎる。この間、アーサーは茫然自失となっており、状況に流されるまま逃げるだけでまったく自発的な意思で行動しているようには見えません。そんなアーサーに構うことなく、囚人たちはアーサー=ジョーカーとの遭遇に歓喜します。そこにはもう、この哀れな男をアーサー・フレックと認識する者はいません。そしてラストシーン、倒れ伏すアーサーにカメラの焦点は合っているものの、アーサーを刺し名もなき囚人は明らかにそのナイフで自分の口を割り広げている=ジョーカーのメイクと同じ表情になろうとしている=新しいジョーカーが生まれつつある。
 本作は、「ジョーカー」という悪のカリスマを生み出した「アーサー・フレック」という男が用済みになるまでの物語だったのではないでしょうか。あるいは、「ジョーカーというコンテンツが使い潰されるまでの物語」。
 本作の感想をこうして書いていると、なんとも言えない「空しさ」を感じます。
 前作であれだけの騒ぎを引き起こし、社会に悪のカリスマとしてのインパクトを残したジョーカー。しかし彼はその2年後となる本作であっさり収監されている。社会はそんな彼に構うことなく鬱屈した世界の破壊者としてのジョーカーを彼ら自身の中で共有し増幅し循環させている。ジョーカーと呼ばれた男はもうどこにもおらず、そこにはアーサー・フレックという哀れな囚人がいるだけ。そして唯一彼を愛してくれたファム・ファタルであるリーも、最終的には彼を拒む。
 そして「ジョーカー」は完全にアーサーから乖離し、社会に蔓延し、分散し、拡散していく。そこには混乱だけがあって、もはや悪のカリスマの姿さえない。
 本作は長い長い「幻滅」の物語だったのかもしれません。「ジョーカー」という悪のカリスマの「幻」が「滅」ぶ物語。
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大阪ステーションシティシネマ「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」見てきました!
初公開日: 2024年12月01日
最終更新日: 2024年12月01日
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