「ねえねえ知ってる?」
 噂話の始まり方などは、どの時代も共通だ。学友であろう女性たちの噂話が、なんとなしに耳に入ってするりと抜けていく。いつもの朝である。眠い目を擦って、所はキャンバスを歩いていた。彼女らはどことなく小ばかにしたように、何が面白いのかくすくす笑いながら小声で言う。
 「英文学科の××さん、運命の人を見つけたんだって」
 よくある話である。
 「しげ君おはよ~」
 そのよくある話は、登校してきた春の声にかき消され、それ以上は所の耳に入らなかった。だから気にも留めなかった。おはようと春に、吉永に瓜二つの友人に声を掛け、今日の昼食の約束をする。アルバイトを入れていない所にとって、同じく働いていない春は遊び相手であり手の焼ける良き友人だ。実は吉永への贖罪の意味も込めているが、現状うまくやっている。今日の昼食は学生食堂の定食にしようか、それともカフェで食べるかを考えている春の裕福さが少し羨ましくなるが、昼食を付き合えないほどの貧乏さではない。
幸いにも中流家庭の身で、一人っ子の所に金をつぎ込んでくれている。だから労働を今のところ少しもせずにーーまあ今はデルウハという食事に付き合ってくれる大人がいるからだがーー金は切り詰めずに済んでいた。幸運である、と所は思う。
 イペリットもこの世におらず、人類は平和を謳歌していた。日本以外の国では戦争が起きていると聞くし、ニュースで難民の情報を見る。だが所は、比べ物にならないくらいの負け戦を経験しているのだ。それらは全て前世で起きている事である。今はこの幸運を噛み締めていよう。そうして平穏無事な生活を送るのだ。前世からの縁あるデルウハと再会して、無理矢理に恋仲になったものの限定的な付き合いだと今は高を括っている。前世のように図太く、所は学生生活を満喫することにしたのだ。
 結局、アパートメントに来たデルウハとは一晩だけ共に眠り、無害なデルウハに驚きながらも翌朝に定食屋で朝食を済ますと、彼とは別れた。ホテルに帰っただけの事である。所は学業があるのでそのままだ。だが学校が終われば呼び出しを受けたり、夜になればなるべく自分から顔を出すようにしていた。努めて、あのデルウハの元にである。かえって距離を置けば怪しまれるからだ。
 所は、まだデルウハの愛情というものを疑っている。愛情ではないだろう、むしろ執着なだけだと感じている。だから、その執着にうっかり自分が心を寄せてしまっては、捨てられた時に傷付くだろうと思ったのだ。なるたけ二か月の間にその愛情もどきを満たして、デルウハに興味を無くしてもらいたかった。きっとそれが互いに傷付かない最善の方法になると信じた。その誓いを立てて一週間、依然としてデルウハとの肉体関係は続いているものの、夜には食事に連れて行ってくれるし、体のいいパトロンのような存在である。もしこれが誰かに援助交際だと疑われたら、否定しきる自信はない。それで切れる縁であれば切れていいかもしれない。だが、身ぎれいなデルウハは当然のように所を抱き寄せるし、やましいことなど何も無いように振舞っているので今のところ疑いを持たれることは無かった。警察官の近くを通っていた時でも、おそらく恋人同士だと映ったのだろう、何も言われなかった。
 デルウハの体格は前世同様に良く、所が拒み切れるものではない。大抵のこの世の人間は、拒み切れない恵まれた体である。それなのに、所を抱く手はやさしいものであった。それがますます所を混乱させる。だから、これ以上は心を寄せない。そう決めて本日もデルウハの元に向かうのだった。
 「こんばんわ」
 デルウハと待ち合わせたのは渋谷のハチ公前だった。目立つ体格ですぐに見つけることが出来た。所が近付くと、軽く手を上げてデルウハが寄って来る。デルウハは目立つ存在であるが、都市部ではそういった特徴的な存在は少なからずいる。好奇の目で待機しているデルウハを見ていた者もいたが、所がやって来る頃には興味を失っている。そういった目線はすぐに霧散するものだ。それが都会というものだ。特異な存在がいても、人波に揉まれて薄まる。
 何も知らぬ所はデルウハに尋ねた。
 「どうして渋谷なんですか?」
 「いい店があると聞いた。行くぞ」
 海鮮かなあ、それとも肉かな。デルウハに付いて行くと、海鮮の店であった。所が入るのには少々敷居が高そうな店である。奮発すれば入れなくはないが、それでも日常遣いの選択肢からは外れる金額である。炭火で焼かれたエビの殻の良い匂いが漂う店で、デルウハのおごりにも慣れて所は通訳として注文したり、こまごまとした説明をデルウハにするのだった。
 「勉強はどうなんだ」
 ン、と大口を開けるデルウハから、そんな言葉が出ると思わずに所は驚く。
 「どうって…順調です。まだ二年生ですから、いろんな講義にも出ていますが」
 「裾野が広がるってところか」
 「そうですね。日本の教育は少々閉鎖的ですが、大学は好きに学べますから」
 「あんたが経済学部ってのは驚きだったがな」
 焼いた伊勢エビの身が、デルウハのフォークに突き刺されてつるんと殻から外れる。彼はむき身をそのまま口に運ぶ。やっぱり箸はまだ使えないのだ。所はその様子を見ながら、自分も箸で身を外す。
 「今の日本では、潰しがきかない学部は好まれないんです。でも、経済学部はそれはそれで面白いですよ。昔の私では理解が及ばなかった世界です」
 「あんたは根っからの科学者だったろ。知識の持ち腐れじゃないか?」
 「昔は、ね。子供の頃は科学者になるつもりでしたけれど。家庭環境や経済能力を鑑みると、どうしても」
 「そんな金掛かるのか」
 「金にならない研究はどうしても、米国や諸外国に飛んだ方が早いのでね…」
 ハントレスを作り上げた研究は、所だけの功績ではない。脈々と受け継がれたあの研究所の成果である。だが当然、所長として統括していた所に知識が無いわけはなく、一流の科学者であることは間違いないのだが、それでも金を出してもらえなければ、ひいては人類に、一般大衆に分かりやすい研究でなければ続ける事すらままならない。
 「事業仕分けなんて物もありましてね…何の役に立つか分からぬ研究は切り捨てられるんですよ」
 「ひどい話だな」
 デルウハは日本酒を飲む。潮の香りを洗い流し、きりりとした辛口と米の香りが立ったあと、喉の奥から焼いたエビの香ばしさが立ち上って来る。悪くない組み合わせだ。
 「あの研究所も、国家として大々的な援助は出来ないし、細々と続けていたからこそ自給自足になったんです。日本という国は、目先の金にしか興味が無いのですよ」
 「もったいない話だ。俺が金出したら、また研究するか?」
 「デルウハ殿が?」
 日本酒を所も喉に流し込む。ああうまい。所はほんの少しアルコールに酔ったように小首を傾げると、ふふっと微笑んだ。
 「もちろん。出していただけるのなら今すぐにでも。…はは、なんて」
 所は冗談のつもりだった。だから自分で笑う。そうか、とデルウハが真剣な顔で呟いた、その些細な変化は日本酒の香にまぎれて気にも留められないのだった。
 店を出ると信号待ちになった。地下鉄の駅はその先にある。繁華街で飲み屋も多く、時間帯ではサラリーマンやOLだけでなく所と同じ大学生や、高齢者などの他者多様である。信号待ちをしている最中、所はデルウハに口吸いされた。
 何故? 疑問を思う間もなく引き剥がそうとすると、デルウハの力がより強くなり濃密な口付けになる。突然の恋人たちの接吻に、交差点の向こうからは囃し立てる声も聞こえて来て、所はより引き剥がそうとするがデルウハの手はひたすらに力強い。その時、信号が青になって音楽が鳴り始めた。その音楽がデルウハの耳にも届き、一瞬だけ力が緩んだので所はなんとか顔を引き剥がすことに成功する。もう同じように信号待ちをしていた人々は、一時的に目的を同じとしていた人々は横断歩道を渡り始めていた。残っているのはデルウハ達二人くらいなものだ。所は顔を赤くしながら、デルウハを見やった。顔は平然としている。いつものデルウハである。だが、ほんの僅かな変化に所は気付いていた。
 「…デルウハ殿、酔ってますよね?」
 「酔ってない」
 「嘘です。日本酒が合わなかったのでは?」
 「酔ってない」
 酔っぱらいは総じてそう言うものである。所にも覚えがある。あの合理的で慎重なデルウハが、大衆の面前で見せびらかすようにキスするなどあり得ない。この愛情はもしかしたら本物かもしれない、と所は思う反面、酒に酔って抑止力や理性を失っているデルウハは正直脅威であった。もし急性アルコール中毒で倒れでもしたら、所だけでは彼を運べないだろう。この場で襲い掛かられても同じ事である。まだキスだけで済んでいるからよしと見るか、これ以上の奇行に走られたら、所だけでは止められないと見るか。所は後者を選び、足早にデルウハの脇から体を支えると歩き出した。青信号が点滅している。短い横断歩道だから、すぐに渡れるので問題はない。
 「もう、帰りますよ。キスはお預けです」
 「どうして」
 「どうしても何も…!」
 日本酒とデルウハの相性が悪いのか、良すぎたのか。所はとにかく汗が噴き出すのを止められないながら、地下鉄の入り口までデルウハを抱えながら押すのだった。
 
 「酔ってない」
 定宿に戻ってからも、デルウハの主張は一貫していた。フロントの対応も、部屋に戻ってから着替える手付も、全てがしっかりとしていて酔っぱらっているとは思えない。それならば何故、大衆の面前で?という疑問に対してはデルウハは明朗快活にこざっぱりと答えた。
 「したくなった」
 信号の向こうからひやかされた時の声が、まだ所の耳に蘇ってくる。ため息を吐くと、彼はリュックを手近な場所に置いた。
 「…はあ……シャワー浴びてきます」
 「泊まるのか」
 「え、ダメでしたか?」
 「ダメじゃない。ただ、定期的に戻らねぇと失踪でも疑われたら困るからな」
 「荷物が明後日に届くらしいので、明日は帰ります。…でも、デルウハ殿がお嫌なら離れますが」
 「ダメなんて言ってないだろうが」
 デルウハは、既にシャワーを浴び終えてバスローブ姿である。所がシャワーを浴びてしまえば、いつもの共寝だ。今日は挿入は無いだろうが、それでも若い肉体を好きに嬲られる。今日も同じような形だろうと、所が脱いでいる時だった。
 「おい、電話」
 時刻は夜21時を回っている。デルウハの呼びかけに、誰であろうと所がシャツを脱いだ状態でスマートフォンを見ると、そこには「母」の文字が浮かんだ画面が振動していた。慌てて電話に出る。
 「もしもし」
 「あ、繋がった! もうしげちゃん何処にいるの? おうちに行ったらいないから、心配したじゃないの。今日はお友達と一緒に観劇に来たから、夜泊めて欲しくなったの。何処にいるの? 戻ってきて頂戴」
 「あ、いや」
 「ちょっと、何処にいるの?」
 「分かった、分かりました。戻ります、すぐ戻りますから落ち着いてください」
 「じゃあ早くしてね。近くのコメダにいますからね」
 つーつーつー。
 「…誰だ?」
 「母親です。…すみません、急に尋ねて来たらしくて。もう帰らないと」
 はあとため息を一つ吐いて、所は脱ぎかけた服を再度着直し始めた。デルウハは一緒に行って説明してやろうかと言うが、それは所が丁重に断った。
 「多分、東京で勝手に年上の友人なんて作ったと知ったら、卒倒します…」
 「恋人だろ」
 「恋人ならなおさら卒倒します…明日も明後日も、もしかしたら会えないかと思います、すみません」
 リュックを背負い直し、足早に帰る所を見送る。暫しの別れであることを惜しむ訳では無く、デルウハも淡泊に見送った。どうせ戻って来るのである、デルウハの付けた枷はそう簡単に外れまいて。恋人なら別れを惜しんでキスでもしておけばよかったが、あの交差点でのキスは先に済ませたようなものであろう。三日後に戻って来るのだから、と考えると久しぶりの一人の時間である。日本に来て所に会ってからは、夜の時間は殆ど彼に費やしていたし、休日は行動を共にしていた。考えを纏めるのにはちょうどいい。デルウハはこなれた革の手帳を取り出すと、挟んでいたペンで何かを書き出すのだった。
 「しげちゃん。お母さんを待たせないで頂戴。またどっかでお酒飲んで来たんでしょ! もうお父さんに似てないのに、なんでこうなったのかしら。家族誰もお酒好きじゃないのに…おじいちゃんの影響かしらね~本当にお義父さんは、しげちゃんに悪い事ばっか教えて…」
 口を開けば爆撃のようにまくしたてる母に、所はため息を吐く。日中だけに帰る一人の部屋が、夜になるとがらんどうとして見えた。デルウハがいない寂しさでもあるのだろうか? 所は小さく苦笑いすると、来客用の布団を押し入れから取り出すのだった。
 
  所の翌朝は、まな板と包丁の音で目覚めた。一人暮らしをするのだから、包丁位持って行けと母親が揃えてくれたものである。その実、所はほとんど使っていないので新品同様であった。一人前の鍋や土鍋も同様である。その包丁や調理道具は今、その母が握っているのだなあと所はあくび交じりに思った。近所のコンビニで材料を買って来てくれたらしく、たまたま腐らないからと買っておいた味噌を使って、みそ汁を作ってくれていた。ご飯は炊いてあったので、ありあわせだが漬物とコンビニの総菜のポテトサラダと焼き魚。有り合わせどころか調達された朝食を、所はありがたく手を合わせていただいた。
 「自炊もしなきゃだめよ。材料も近くで売ってるんだから」
 母の小言も、みそ汁と同じでどことなく懐かしい。ほっとする朝食を終えると、母は行きたい場所があるからと洗い物を終え、布団を干すだけ干すとさっさと帰ってしまった。嵐のような人である。昔から、気が強くて少々気圧されることもあり、思春期には圧迫感さえ覚える程に干渉と自由を愛する母なのだ。所は人生経験が二回目であるから、母親に圧迫されっぱなしでもないが、それでも距離を置きたいと考える母である。だが、デルウハとの距離が得られたのは少々だけ良かったと所は思った。講義は午後からであるので、午前はしばらくぶりに部屋でのんびりしようと、ソファーにごろりと寝転がる。テレビを点けた。相変わらずの日本である。平和な国で、イペリットのニュースなどは無い。朝のワイドショーは政治批判や、新店舗、新技術の情報ばかりであった。平和だ。のんびりとしていて、当たり前のように、人類は平地で息をする。所もその息を存分に吸って、新しい一日を迎えるのだった。
 ホテルの部屋のチャイムが鳴ったのは、その日の晩の事である。日中に所用と観光を済ませたデルウハは、早めにシャワーを浴びて部屋にて寛いでいた。手帳には大量の覚書が追加されている。エスペラント語とスイス語が入り混じり、日本の住所のようなものも書かれているが、走り書きなので詳細には読み取れない。デルウハだけが分かるものなのだ。
 そこに、チャイムである。ルームサービスでも頼もうかと考えていたところだが、まだ頼んでいない。また、日本においてデルウハを尋ねて来るような知り合いはいない。所だけである。まさかと思い、彼はドアスコープを覗いた。ドアの向こうに、見慣れた学生が立っている。他に誰もいないようだ。
 デルウハは扉を開けた。
 「なんだよ。明日荷物来るんだろ」
 「そうなんですけど、一言目がそれですか…」
 所は呆れたように言う。デルウハとしても随分早い再会だと思った。親が来たから帰ると言ったのが昨夜で、明日には所の家に荷物が来る。だから所がずっと家にいたいと言うのは理解出来ることだ。だがその合間を縫うように、今デルウハのホテルに所は訪れている。所は俯いていたが、怪訝な声のデルウハを意を決して見上げた。
 「意外と寂しくなった…と言ったら笑いますか」
 意外な言葉だった。デルウハの手が所の肩に伸びかけた、その時だ。
 「しげちゃん!」
 もっと意外な声がして、所は慌てて振り返る。そこには、昨日と同じ服の母が何か言いたげな顔で立っていた。デルウハは静かに手を引っ込める。彼はバスローブ姿であり、今にも所を部屋に迎え入れるところだ。なんというのか、これはあまりにも誤解を招く環境ではなかろうか。誤解ではないが、母親にデルウハとの関係を赤裸々にしているとは思えない。何故そう思うのか? 彼の母親が怖い顔をしているのが、何よりの証拠である。
 所は呆然としながら言った。
 「え、お母さん…」
 「何してるの!?」
 語気が随分と強い。おそらく過干渉な親なのだろう、とデルウハは思った。
 
 はーとありがとうございます! 
 わーい、はーとありがとうございます!
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小説です!
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とりき
二次創作タグつけ忘れてて、もしかしたら分からないかもですが…
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とりき
それでもよろしければどうぞ!
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