戦場で足音の判断は大事だ。歩幅、歩調、メンタルも戦況も、人間の歩幅は大事な情報源である。デルウハは砲撃の中、イペリットの足音の中、ハントレスの歩幅よりも小さな歩幅が歩き回っているのを聞いた。子供の足音である。ハントレスも子供だが、それよりももっと小さいものだ。ぺたぺたと、雪を溶かす程の高い体温が踏むように滑るように歩いている。無邪気な、何も考えていなそうな足音である。所長が横でついているはずだが、イペリットとの戦闘ではしゃいでいるのだろう。
まだ一歳程度で、本来はよちよちと歩き出しているはずだが怪物としての改造を受けた子供は、自由奔放に歩き回るだけの筋力があるようだ。きゃあ、と甲高い声も聞こえる。本来なら戦場で煩わしいものだが、この場合は仕方ない。何せハンターとしての改造を施した子供である。デルウハの子供である。甲高くはしゃぐ声の興奮そのままに、デルウハを呼ぶ声が聞こえる。まだ舌っ足らずだ。隊長と言いたいらしい。
「ちょ! た、ちょ!」
「どうした」
デルウハが穏やかに答えると、屈んだ所長と手を繋いでいた。空いた手の、小さな指が眼前のイペリットを指差す。
「り。い、り!」
「なんだ、どうした」
「イペリットが好きみたいですね。やはり小さいうちに見てるから…」
「ちょっと、和やかにしないでよ!」
そんな会話を切り裂くように、よみの怒声が戦地から響いた。イペリットと対峙しているのはハントレスである。子供の遊び場ではない。だがハントレスの中でも、子供ににこにこと笑っている者もいれば様々である。だが子供はよみの声をまねて、体ごと首を傾げて見せたのだった。
「うやかー?」
「真似しないで!」
「ちょっとよみ、小さい子に八つ当たりしないで。前に集中して」
「分かってるわよ!」
いちこにも噛み付いたが、よみはすぐに前に出てイペリットの体を切り刻む。おおー!と子供がぱちぱちと拍手をした。すぐに手を繋ごうとする所長の横で、まっすぐな目をして手を叩いている。よみが一瞬得意げな顔をするが、すぐに顔を赤くしてそっぽを向いたかと思えば、ふんと鼻を鳴らした。
「デルウハ、いつまでこの子連れてくんの?!」
「だから言ったろ。こいつはお前らの後輩にあたる、戦闘も見せるって」
「そうだけど、なんかさあ! 緊張感っていうかさあ」
「おみちゃ、つおい」
「なんかさあ!」
よみは褒められているので無下にも出来ないようである。顔を赤くなりながら文句を言っている。デルウハは周囲のハントレス達を見回しながら思う。子供がいるせいで、それもイペリットに怯えない子供のせいで緊張感というものは確かに存在しない。だが士気が下がっているかと言えば、一概にそうとは言えなかった。イペリットを背後に回らせないという緊張感の中で、意識は前に集中せざるを得ない。諍いもなく、子供がイペリットを倒す度に新鮮な反応を示すので、無意識に力が入っている。気負わずに進めている。軍隊という規律の中で得るのにはイレギュラーなものだが、無垢な子供の効果はデルウハの予測を上回りはしたが、下回りはしなかった。子供を所長が抱え上げたところで、どこかちぐはぐな遠足かピクニックじみた空気は終わった。所長に抱き着いて、子供は体に頬を押し付けてハントレスを見やるだけだ。
「帰るぞ」
デルウハの一言でその場は終わる。所長が後をついて帰り出したので、六人も後に続くのだった。
「もうミルクじゃないんだ」
「そうだね、そろそろ離乳食の時期でね」
子供、九重(くのえ)の食事風景はハントレス達と同じところで行われた。なるたけ距離感を詰めた方がいいと言う所長の意向である。ハントレスも少々眉を顰めるものの、積極的に追い出す事はしなかった。よみは特段気に食わないようであったが、それでも無視はせずに、スープが口に運ばれているのを見ていた。
「早くない? この前ミルクだったのに」
「あーよみ、意外とちゃんと見てるんだ? あんなに嫌ってるのに」
にこがくすくす笑う。よみがきっと睨みつけた。
「別に嫌ってないわよ! いつもちょっと邪魔なだけ!」
「うあ? おみちゃ、じゃーま?」
くのえが首を傾げて繰り返す。よみは言葉を失った。
「…ッ…なんかよく聞いてるし…!」
「はは、子供は意外とよく聞いてるよ。それでも、邪険にしないでありがとう、よみ」
「フン…!」
所長が礼を言うが、よみはつんと横を向く。デルウハは同じ空間で、サンドイッチからハムを歯で引きずり出している。癖なのだ。子供がスープをちゃむちゃむと音を立てて咀嚼したあと、所長に向かって顔を向けた。
「まんま、まんまー!」
「ミルクは無しだよ」
「うぅ、まんまぁあ!」
ばたばたと手足が暴れ、テーブルに当たる。その際、テーブルがひび割れた。ここは談笑スペースであり、テーブルに耐久性がある訳では無い。唐突な強烈な振動が床を伝わり、足を震わせたのでいちこは驚いてサンドイッチを落としそうになった。やはり強化人間なのだと思う。その強烈な怪力の持ち主は、所長に向かって駄々をこねていた。
「やーだー! まんま!」
「くのえ、文句を言うんじゃない。もうそろそろ断乳の時期だし…」
「まんまー!」
子供が専用の椅子の上で、腕を振り回した。所長が窘めようと、その背をとんとんと叩いた時だ。距離が近くなったおかげか、子供は所長の腕を掴む。その腕ごと、体をぶんと振り回し、空中に所長を放り投げた。幸いにも壁に叩きつけられる、といった大惨事は起きなかったが…成人男性が浮き上がり、遠くに投げ飛ばされたことでその場にいた全員が唖然とした。どすん、と成人が床に叩きつけられる音がして、痛みに呻きながら所長が床で動けなくなったのを見る。
「だ…大丈夫…!?」
唐突な怪力の蛮行に、ほとんどの者は所長の心配した。肝心の子供は何をしたのか特段気にする様子もなく、座っている椅子でまだぐずっている。取り乱すむつに、いちこが真っ先に所長の元に辿り着いて助け起こす。デルウハもも、よみもにこも、いつかも呆然としていた。だが子供は、注目が所長に集まっていることが気に食わないのか、なんと余計にぐずり出し始めたのだった。泣き出した声にハントレス達は振り返るが、なんとなく同情心も無い顔だ。
地獄だな…。
デルウハは思う。怪力の子供を育てるのは、多少なりともこういった弊害があるのは予測出来ていたが、これはしんどい。テーブルは壊れ、所長は空を飛び、世話人がいないのは自業自得であるも子供にそんな事は理解が及ばない。
所長が倒れたら、これ誰が世話するの? デルウハは無理である。万が一にも子育てで怪我をしたら、指揮に支障が出るだろう。だがその空気を察することなくまるで無視するかのように、一人のハントレスが子供に近付いた。みちである。
「よし、よし。食べたかったんだね」
「うぅ、まんま…」
「よしよし」
みちがひょいと子供を抱え上げる。子供は怪力であってもみちも怪力だ。再生能力もある。慣れぬ手付であるが、宥めるように腕に抱えるとみちは子供を揺らし始めた。見よう見まねという感じだが、子供は突然の環境の変化に驚いているのか、そこまでみちに警戒心を抱いていないようだった。ただ揺らされて、きょろきょろと天井を眺めたりみちの顔を見つめている。だんだん揺らすのが板について来た時、所長がよろよろと立ち上がった。いちこは顔面蒼白で尋ねる。
「け、検査した方がいいんじゃ…」
「大丈夫。背中を打っただけだよ」
「昔、背中打つのヤバいって言ってなかったぁ?」
「ほら聞きなさいよ所長、あのにこすら心配してんのよ!?」
「なっ、別に心配なんてしてないし!」
「そんな事言い争ってる場合じゃないでしょ! でも本当に、検査した方が…」
「ふええん」
いちこが心配している間に、みちに抱き上げられていた子供が泣き出す。所長が立ち上がろうとするのを前にして、ハントレスの数名の視線がデルウハに突き刺さった。その目線の内容は分かっている。父親なのだから、お前が行けという顔だ。デルウハも薄々分かっていた。この場を収めるのには、赤の他人であろう所長が世話するよりも、血が繋がっているデルウハが子供を宥めるのが適切であろうと。だがただの子供ではない、怪力の子供である。子育てなど殆どせずにデルウハの手を離れ、隊長と呼ばせている程度の距離感の子供である。
だが、ここで子供の面倒を放棄した瞬間、ハントレスからの信頼はがくりと下がるのが目に見えている。その為パフォーマンスでも良いから、子供の面倒を見なければならない。みちに近付くと、デルウハは両手を差し出した。ここに子供を置けというジェスチャーである。
神よ……。
信仰心の全くないデルウハが思わず形式上で祈ったのは、これが全くの賭けであったからだ。宗教とは根深いものである。刷り込まれた万能なものに、デルウハは託すしかなかった。今は、みちだから無事なのだ。子供は怪力で理性の欠片もなく、己の好きなように動く。デルウハに牙を剥かない保証は無い。それどころか所長のように吹き飛ばされるのが目に見える結果である。それでも今のデルウハは、この愛情や愛着に少々難のある少女達を纏めるのに、人間的な信頼が必要である。その為に負け戦に及ぶのだ。だが万が一にでも勝機があるとしたらと願わずにはいられない。みちが子供をデルウハの手に置いた。日本人ならば南無三と唱える所で、子供は泣かなかった。
「ん?」
デルウハが目にしたのは泣き止み、じっとこちらを見つめる翠の瞳だった。勝った! 賭けに勝ったぞ! デルウハにしては珍しく正気を掴んだようである。だがまだ腕を折られる可能性は消え失せておらず、気は抜けない。だが泣き止んだ子供に、むやみやたらに腕を折られたらそれは子供側の問題でありデルウハの信用が下がることは無いのだ。どちらにせよ今は、デルウハに何かあっても全ては子供の責任である!
「泣き止んだな」
「あう。ちょ、まんま」
だが子供の要求は一貫しており、デルウハとしては振り出しである。このミルクを求める要求を突っぱねるために、説得と互助理解を得るのには…まだ子供に理性が足りない。デルウハは腕に子供を収めた。軽い身だ。怪力だから重いという訳ではないようだ。子供はデルウハの服を掴んだ。デルウハは内心ぎょっとするが、ここで動揺してはならないのだ。
「なんだ?」
「まんま!」
子供の要求は変わらない。だがデルウハはわざと誤魔化すように揺らしてみて、静かな口調でつとめて冷静に言う。
「今日はスープだ」
ぐしゃあっと、子供の顔が歪んだので、デルウハは思わずほっぽりだしそうになった。まずいまずい、機嫌を損ねると無情な怪力がまた発揮される。みちに変わってもらいたい気分だが、みちは子供の顔を覗いてあやしたり、可愛いともてはやしている。協力もとい押し付けるのは無理だ。泣き出した子供の声に、所長が駆け付けてデルウハから奪うように抱き上げた。そのまま泣き出した子供を手慣れたようにあやし始める。そのうちに子供の手が、所長の腕をつねるように掴んでいたが、それを外させる気分にデルウハはなれなかった。
最初からやってくれない?
少々最低な事を思うデルウハである。背を打ったと思えない程の素早さだったのだ。心配するハントレスをよそに、もう心配事は子供の機嫌にすり替わって、所長の心配は霧散していくようだった。結局彼らの食事は子供を窘める空気の中、多少気まずいような空気と共にめいめい口に運んで、終わった。
デルウハはハントレスと食事をしない方がいいのではないかと所長に進言した。落ち着いて食事を出来る環境ではないし、よみを筆頭に嫌がる者がほとんどだ。だが帰って来たのは所長の懇願するような目で、少々だけ涙の膜でうるんでいたので驚く。
「…ダメですか? 二人だけですと、気が滅入ってしまって…」
これ断ったら俺が悪者じゃねえか。
デルウハは承知せずにはいられなかった。よみが文句を言ってきたら、直接所長に言ってもらおう。同じ気まずさを味わえば、彼女とて承服せずにはいられない。いちこあたりは大丈夫だ、むつも文句を言うタイプではない。いつかもよみに同調するであろうし、にこも文句は言うものの完全に排斥する気は無さそうだ。みちが今のところ唯一の子供の味方と言ってもいい。これはデルウハには収穫であったし、驚きであった。可愛いものが好きだと言っていたが、それに赤子も含まれるとは思わなかったし、今のところ唯一子供の面倒を見てくれるのはみちだけだ。みちの機嫌だけは上昇傾向にある。
ハントレスの機嫌を総数で示すとしたら、底上げはかなりされている。だがみちの以外の面々は、この子供と関わり方が分からず、戸惑って緩やかな下降傾向にあるといってもいい。特によみは、イライラを完全にぶつける訳でもなく、子供に対してかなり冷たい態度を取っている。その原因は多少なりともよみの半生に関係がありそうだが、基本的に兵士としてのよみのウィークポイントは所長から聞いているものの、彼女らを育て上げた者の意見までは聞けていないのだ。世話人と所長は呼んでいたが、デルウハの見立てでは実際の親子が物心がつくまで育てたのではないかと思っている。乳飲み子の世話をする研究者が大勢いるとは思えないし、産婦人科医がいると聞いたが保育士まで用意していないだろう。つまりハントレス達は、子供の、たとえば今のくのえの年齢の頃には実の親に世話をしてもらっているはずである。だがハントレスとして育てられた彼女らにはその記憶は無いし、その愛情を再確認する為には今まで親が名乗り出ないのだから、確認しようがないというところか。
「よみが当たる原因が分かればな」
「嫉妬でしょうか? …あの子も同じ時分には愛されていたはずですが」
「愛されていたのか、それとも怖がられていたのかだろ」
「…どちらもあるでしょうね」
デルウハが所長室を訪れた時に、アウターを脱いで腕まくりした彼の腕には無数の子供の掴んだ痣があった。
それいつも耐えてるの?
邦画のホラー映画のようである。紅葉と喩えられる小さな手だが、それが無数にあると恐怖感が増す。だが当然とばかりに所長は子供をベッドに寝かせると、デルウハを挟んで椅子に座り込んだ。その目は疲れ切っていたが、デルウハは子育てを任せている身である。それ以上に疲労感のある目を見ないようにした。
「くのえの発育はどうなってる」
「順調でしょうね。このままいけば二週間で一か月程度の発育になるかと」
「二倍程度に速いってわけか。そうなると、この赤ん坊時代もひと段落だな」
「そうですね。それもそれで、少し寂しいですが」
腕を掴まれたり投げ出されたり…どう見ても大変そうであるが、所長は寂しげに子どもを見やる。まだベッドの上には一歳になるかならないかの赤子がいた。食事を終えたのか機嫌良く大人しくしている。デルウハは続けた。
「それより、みちが協力的なのが意外だった」
「そうですね。デルウハ殿に似たので、可愛いのでしょう」
「顔はあんた似な気がするが?」
「どう、でしょうね。私はひいき目に見ているのかも」
「科学者が客観的な目を失うのか?」
「その前に親ですから…」
所長は苦笑いを浮かべる。その顔を見ながら、デルウハは赤子を見やった。子供の顔は成長と共に変わると言う。今デルウハに似ていると言われても、ひいき目に見ても似ているとは思えなかった。
「俺にはよく分からん」
「そう、ですね。もう少し接していただけると分かると思いますが」
「嫌味か?」
「ええ、多少は」
所長はこの子供が生まれてから、少々反抗的になったとデルウハは思っている。かといって殺害や処分の対象には今のところなっていない。一応だが、番であるからだ。α性のデルウハの番は、縁あってΩ性の所長である。番を解消するのなら、デルウハが所長を殺すのが手っ取り早いのだが、その手間を考えた時にデメリットが上回っている。くのえは、所長とデルウハとの子供であった。年老いたΩ性に宿した奇跡の子である。その子供の出産も少々の悶着があったのだが、それは別の機会に語ろう。くのえが泣き出した。所長がすぐに駆け付けると、安心したのかもっと泣き始める。デルウハには、少なくとも世間一般の言う正しい親子の在り方のようには見えたのだった。