閑話休題➄
デルウハは物音で目覚めていた。
「デルウハ殿。ご気分はいかがですか」
「ああ寝不足だ。どこかの誰かが夜中動き回るからな」
「それはすみません、もう少し眠っていてください」
からっとした所の声が聞こえてくる。デルウハは目を開けた。キッチンに所が立っている。どうも昨夜に風邪でひいひいと苦しんでいた記憶が無かったかのように、彼は元気で溌溂とし、背筋もぴんと伸びているようだ。若いからと言ってそこまで落差があるものだろうかと、デルウハは疑う気持ちで目を凝らした。だが何度見ても、所は元気そうである。
「何してんだ」
「えっと、ゼリー飲料のストックを探してまして」
「ちゃんと食えっつっただろ」
食事の事になるとデルウハは途端に厳しいのである。だが所は昨日のように素直には返事をせず、頬を膨らませ、反論の意を示した。
「いいじゃないですか、一食ぐらい」
「ダメだ」
このまま所を野放しには出来ないと、デルウハは起き上がった。中年に差し掛かった体は気だるさが僅かに指先に残っているものの、筋力と生活習慣で補える。だがデルウハが起き上がるのを見て、所は怪訝な顔をした。
「どうかされました? 少々お加減が優れないようですが」
「悪いか。年だからだよ」
「でも、うつったということは…」
「ねぇよ」
デルウハは断言する。だが所は懐疑的である。距離が大分近い所にいたので、感染経路として申し分ない条件が揃っているのだ。かつて科学者として人体を知り尽くそうとした彼からすれば、デルウハが発した一言だけでウイルスが退けられるとは思っていない。それは言霊信仰に近いものだ。科学的では無い物であるからである。
「睡眠不足、感染者との接触。いくら成人で体力に自信があるからと言っても、感染経緯としては十分です。まずデルウハ殿の睡眠改善を命じます」
「断る。あんたの食事の方が先だ」
「もう治りましたから」
所は、若い自身の体を過信してそう言った。風邪を一晩で治したのは若さである。あれほどの眩暈と吐き気、そして寒気に襲われたと言うのに一晩で治ったのだ。若さとはすばらしい。若さとは全てを退ける。かつて槍ヶ岳の研究所にいた時は、デルウハに初めて会った時には失われていた若さである。だから余計に所は過信していた。もう風邪は治ったのだ。
「俺から見りゃ、お前も治ってないのに治ったと主張してるように見えるがな」
「治ってますよ。ほら、熱も下がりました」
そう言って体温計を取りに行こうとした所の額を、昨夜のようにデルウハの大きな手が覆う。
「ん、下がったな」
「そうでしょう?」
「だが、まだ感染してから二日目だ。油断出来るもんじゃない」
「若いから大丈夫です。過去にも、私は一晩で治ってますから!」
「本当か? そんな鍛えてるようには見えんが…」
「若さです」
所はふふんと鼻高々だ。デルウハに自慢することではなく、風邪が治って嬉しいのだろう。妙なテンションの高さを見せて、もう治ったからと繰り返す。デルウハは考えた。若い人間を説得するのは少々骨が折れるが、出来ない事ではない。問題は、所がただの若者ではない事だ。彼には六十年分の知恵も経験も詰まっていて、そのうえでさらに二十年分の知恵と経験がある。老獪であるといってもいい。その人間を説得し、ベッドに縛り付けておくにはと考えて、不意にデルウハは所の顎を取った。ぐいと己に引き寄せると、自分から顔を近付ける。口付けをするつもりだった。
だが。突如として手が、口と口の間に挟まった。所の手であった。所は顔を横にして、不貞腐れた様にしながら言う。
「……風邪の感染力は二日から四日です。経口感染の例も多い。…ダメです」
「じゃあ、まだ風邪に感染してる自覚はあるんだな?」
「…卑怯ですよ、そんなの」
所は不貞腐れたように言う。風邪は治ったと言う主張と、感染力がまだあると認めるのは矛盾があるのだ。デルウハを気遣えば自己の体の感覚より、正しい知識を優先する。それが科学者であった所の矜持だろうと思ったのだが、その点に付け込んで正解だ。所はデルウハから離れると、キッチンに向かう。昨日洗って乾かした鍋を手に取った。
「じゃあ、お粥作ります。…デルウハ殿は寝ててください」
「………一人で作れるのか?」
「い、一応一人暮らししてますので…ッ」
デルウハの怪訝そうな目を受けて、引くに引けなくなったのか所は鍋に水を適当に張り、それをぐつぐつと煮だす。米を出し、そこからの手順を必死に考えているようだ。
「…ええと、でんぷん質の融解温度は…」
「不安だ。俺が作る」
「…できます」
そうデルウハを見上げる所は、意地になっているらしい。彼は妙なところで胆力を発揮することがある。裏を返せば頑固にもなり得る。だがデルウハはそこでなだめすかしたり、機嫌を取る気にはなれなかった。それなりに濃い付き合いだからである。腕を組み、正論を立て並べる。
「現にお湯を作る時点で計ってないから、不安なんだが」
「め、目分量でもできます」
「料理初心者が真っ先に言うやつだな」
「うう…炊飯器でも出来るのに」
「鍋のが上手い気がするんだよ。いいから代われ」
完全にふてくされたような所が、俯いて目を逸らす。だがその代わり、デルウハの腹辺りに抱き着いて来た。子供をだっこする哺乳類のような形になる。
「……」
「邪魔なんだが」
「……卵入れてください」
「分かった分かった。寝てこい」
「…私の方が年上でしたのに」
「今は俺の方が年上だ」
今のデルウハは四十になる。同じく老獪といえる知能と経験を持ち合わせている。それなのに、コミュニケーションとはいかように不便な物か。所がすごすごとロフトに戻っていくかと思ったが、デルウハの眠っていた場所に戻り、デルウハが寝ていた隣に寝転がる。そんな事に心が動くのか目で追うが、デルウハはまだ所には執着ぐらいしか抱いていなかった。朝日が窓から差し込んで、部屋が明るい。いい天気になりそうである。