閑話休題④
 無形であるはずの熱が異形の形を持って抱き締めてきて、からからに乾く夢を見た。夢で出た嫌な汗と、さらさらとした汗が額に同時に滲んでいるのが分かる。身体が急激に楽になったのを確認し、それと同時に汗冷えにぶるりと体が震えた。所は体をくねらせて、隣で眠るデルウハに気付かれぬように寝所を抜け出そうとする。だがつい数時間前に吐き気に襲われていた身である。風邪に浸食された体には力が無かった。その異形がイペリットの形であったと思い出したのは、起き上がってぶるぶる震えている時だった。
 眠っていた時はあれほど力がまだあると思い、慎重に寝所を抜け出したというのに、そこで力を使い果たしてしまったようである。ウイルスに浸食されただけなのに、筋肉も脂肪もすべて奪われてしまったかのような寒さだ。そこに脂肪も筋肉もあるのに、何の効力も持たない。
 寒い。寒い。寒い…。所はただ震え、先程の夢を怖がる子供のようにその場で動けなくなってしまった。デルウハはすぐ隣で眠っている。手を伸ばせば触れられる位置である。だが起こすと言う選択肢がどうにも浮かばなくて、自分だけの力でなんとかしようと所は立ち上がった。がくがくと震える手をさすって、自分の体を必死に抱き締めて、洗面所に向かうことにしたのだ。足の裏も寒さで震えている。素足の指や皮膚はフローリングの床を掴んだはずなのに、なかなかそこから歩くのが難しい。所自身は今の状況を熱が引いた為と思い込んでいるが、体はまだ高熱を発しているのである。正常な判断が出来ていないのだ。ただただ猛烈な寒気は、薄着で雪山に放り込まれたかのような…槍ヶ岳はもう少し寒かったけれど、体の奥に入り込んだ寒さは種類がまた違う。それでもとん、とんと足を置くように歩き出した。その時である。
 「何してる」
 背後から声が聞こえた気がして、所は振り返った。デルウハが気付いてくれたと思ったのだ。だがそれは幻聴であった。振り返っても、そこには眠るデルウハの寝息しか聞こえない。都合の良い夢を見過ぎている。先程眩暈でロフトから降りる時、助けてくれたから今度も助けてくれるはず。そんな夢想にとらわれ、勝手に幻滅しそうになるのだが、所はそこで思いとどまった。そもそも自分が起こさない判断をしたのだから、デルウハを起こしてはならないのだ。それでも、研究所で待ち望んだ軍事的指導者であったように、助けてくれないものかとどこかで期待してしまう。風邪で体調が悪いので、なおさらである。げほ、と所は咳を吐き出した。途端に、苦みのある味が唾液と共に口の中に広がる。まだ熱があるのは明白だが、先程よりはましだと判断して所はなんとか今着ている服を脱ぎ始めた。下着も汗でびっしょりと濡れている。昼にデルウハに体を拭いてもらったタオルが洗濯紐につるして干してあった。絞ってあるが濡れている、だからひとまず干して明日洗う予定である。何気なく所がそのタオルに触れると、半分乾いているかのような湿っているかのようだった。
 今の所は、全身の汗を拭きたいのだ。今から真新しいタオルを出して、お湯を沸かして、冷ましてからタオルに漬けて、それで汗を拭く。理想的な形は頭の中にある。あるが、そんなことをしている体力は今の彼に無い。お湯さえ沸かせられないだろう。目の前には使用済みであるも、少々だけ湿ったタオルがある。身体を拭くのは問題なく、衛生観念からすればもちろん使用するのは悪いものだが、今の所は熱で正常な判断が付かない。使用済みのタオルを手に取り、息を大きく切らしながら彼はタオルを肌に押し当てた。
 「本当に何してる」
 今度は幻聴では無かった。所は振り返る元気もないため、タオルで体を拭き始める。だが、後ろからやってきたであろうデルウハに取り上げられてしまった。代わりに、新しいタオルが彼の背を拭いて、脇腹に回り、脇を拭いて首を拭く。
 風邪の際は、上半身並びに下半身も汗をかくものだ。下着を履く前で色気は無いが、太もものきわどい部分も随分汗で湿っていたので拭いてもらう。足の裏さえ丁重に。そこは少しくすぐったかった。デルウハの顔を見ていないが、彼の呆れたような声が降って来る。
 「起こせよ。なんで起こさない」
 「…すみません。あまり感染させたくなくて」
 「今更だな。悪化したらどうする、…まだ熱あるぞお前」
 デルウハのおおきな手が所の額を埋め尽くす。通常の体温であろうが、そのなまぬるい温度もなんだか所は落ち着いた。
 「でも、寒かったんです」
 「寒気に汗冷えか。とっとと着替えて戻るぞ。お前はとにかく休息が必要だ」
 所が新しいパジャマに着替え終わると、デルウハが再び所を抱え上げた。首にすがりつくようにすると、体が全て浮いて、ふわふわとして、風邪の時の特権であろうが、なんだか小さな子供に戻ったようで嬉しい。親にもそうやって抱きあげられた時、嬉しかったのだ。それを成人してから、まさかデルウハにしてもらうとは思わなかったが。あのデルウハにである。情も、愛も何もかもが無く、全てを無惨に破壊してその資源を独占した”悪魔”である。その悪魔に介抱してもらうのは新手の地獄であろうか、自分の価値をどこまで見定めるべきかをつい考えてしまう。
 デルウハは、「顔が好みだった。二十年前なら抱いていた」そう言った。その「好みの顔が目の前で若返り、蘇った、だから抱いた」とも。理路整然としているようで、単純すぎる理論である。そこにデルウハが所をどうしたいかは、抱く以外の道筋を示していない。
 だが彼も人間である。デルウハの他の行動は、所が発見した単純すぎる理論に含まれていない。たとえば、今この時の介抱だとかは、デルウハの理論から外れているはずだが、彼は非常に甲斐甲斐しいのだ。所はデルウハの隣の寝所に戻ってきて、デルウハに抱き着いて眠る。なんだか数時間前と同じ繰り返しだが、睡眠時間が削れたことにデルウハは文句を言わない。それが情だとか愛だとか言われてしまえば、急に嚙み切れないものを口に含んでしまったかのようになる。だからそれは違うと信じて、でも今所は風邪をひいている。心細い次第である。デルウハの肉体が、その温度が、介抱が、特別な意味を成すと思い込んでもやむを得ない。だが、過去に、槍ヶ岳でそうして深い関係を結ぼうとした者を、次から次へと振り払ったデルウハの姿を思い出すと…完全に信じられない。宙ぶらりんが人間はストレスである。
 だが所は考えぬようにして、デルウハにひとまず介抱について謝罪するのだった。
 「デルウハ殿、…すみませんさっきから」
 「なんだ。文句は治った後だ。終わったら肉食いに行くぞ」
 「えっと肉…ですか。…焼肉でよろしいですか?」
 「他に何がある?」
 「しゃぶしゃぶ。すきやき…ステーキにハンバーグのお店も…豚肉でよろしければとんかつもありますね」
 「焼いた肉が良い」
 「スイス料理のお店もありますよ。少々遠いですけど…」
 「スイス人に生まれて料理は食べ尽くしてきた。もういい」
 「ははは…そうでしたね」
 切れの悪い会話である。所長はいつものようにデルウハの意向を汲み取る余裕が無いらしい。
 「はは…では、デルウハ殿の好きなお店にしましょう…私はどこでもお供しますから…」
 「まずは熱を下げてからだ。未来に気を取られ過ぎるな」
 「分かってます。でも、未来予想が現在を救う事もありますから」
 デルウハの胸元に顔を埋め、所は小さく深い息を吐く。風邪の作用かぼんやりとしたきたのだ。先程見た夢では、宿敵であるイペリットが突然熱を持ってこちらに抱き着いて来た。その恐怖でますます体は燃え上がり、その反動で汗冷えと震えが止まらなかったものだ。まだあのイペリットに振り回されるのかと暗澹たる思いである。だが目が覚めるとイペリットを退けたデルウハがいて、その寝顔で安堵したのは事実だ。
 「あの。デルウハ殿? …デルウハ殿がいてくださって、よかった。私はずっと安心しています…」
 所のまごうことなき本音だった。それにデルウハは反応を示さなかったが、その短い文章を言うだけ言うと、所はことんと眠りの世界に飛び立ってしまう。残されたデルウハは、どこかで聞いたようなセリフだなと思った。そうだ、デルウハはよみに似たようなセリフを言った。いつかから奪ったのだ。自分の本音ではないものの、人間を有効化に置くための効率の良いセリフだ。
 今は非効率な状況で、別にデルウハの心象を操ろうと言う所の思惑なども微塵もない。ただの感謝である。それが情があれば心を少しでも動かすのだろうが、情はまだデルウハには必要価値が見出せぬのか、所の言葉はただの恋人の信頼関係を上げた要素として頭に刻むのだった。
  はーとありがとうございます!
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