「あれ、忘れてきちゃったかな……」
「何」
「リップクリームです」
昼休み。弁当を出したあとの鞄の中をがさがさと漁っていた晶が諦めたようにため息をついた。探し物をしていた指先で自分の唇に触れる。
「うーん、乾燥してきてたんですけど」
「僕あれ嫌い」
ずずっと紙パックのいちごみるくを吸い上げながらオーエンはつっけんどんに言う。ストローを咥える唇は乾燥知らずなのか、荒れている様子は少しも見られない。
「甘い匂いがするくせにちっとも甘くないのがムカつく。無駄にベタベタするし」
「それを人は保湿と言うんですよ」
そもそも食べ物じゃないですし、と付け加えた先で、オーエンは豪快に大口を開けてシナモンロールにかぶりついた。購買で人気なパンの一つだ。
「オーエンは必要なさそうですよね、リップ」
「乾燥したことない」
「うわー、羨ましい……」
まぐまぐと小さな口の中にシナモンロールはどんどん吸い込まれていく。晶も彼に倣って持ってきていた弁当の包みを広げた。
「いっ……」
食べ始めてまもなく。大きめの唐揚げを一口かぶりついた拍子に、とうとう唇の端が切れた。ビリリ、としびれにも似た痛みが走る。思わず出た悲鳴にオーエンの視線が晶に向いた。
「なに」
「くちびるが切れました……」
「ふうん。かわいそう」
微塵も可哀想とは思っていない口ぶりでオーエンはにやにやしながら二つ目のジャムパンの袋を開けた。細身に見えて、甘いものなら無限に入る胃袋はパンでも適用されるらしい。
切れた唇を押さえながら、晶はそっと唐揚げを咀嚼する。こうなっては弁当を食べるのも一苦労だ。小さく箸で切り分けてから食べる他ない。
「ねえ。血が出てるよ。だいぶ深く切ったんじゃない?」
「えっ、本当ですか? めちゃくちゃ痛いと思ったらそこまで……?」
「自分で見てみたら」
「……鏡も忘れてきちゃって……」
「馬鹿なの? それでも高校生?」
「たまたま! ポーチ丸ごと忘れちゃったんですっ!」
辛辣なオーエンの言葉は乾燥で切った唇以上に痛い。血が出ていると言われると余計に。
「ううっ……」
「はちみつでも塗っておけば?」
「持ってないですよ……」
「使う?」
「あるんだ……!?」
はい。と学ランのポケットから出されたのはボトルタイプの蜂蜜だった。さすがにミニサイズではあったが、蜂蜜を携帯する男子高校生などオーエンくらいだろう。言えば練乳や角砂糖くらいなら難なく出してきそうな雰囲気ではある。
ありがたく蜂蜜のボトルを受け取って、ほんの少しだけ小指の指先に垂らす。切ったところに見当をつけて、慎重に唇に蜂蜜を塗った。
「甘い」
「当たり前だろ」
「んん、でも、ちょっとピリピリするのが治ったかもしれないです。ありがとうございます、オーエン」
「対価は? 何をくれるの?」
「えっ、お金取るんですか?!」
「別にお金が欲しいなんて言ってないだろ」
ちょうだい、と言わんばかりに白い手のひらが差し出されて、晶は動揺した。現金の持ち合わせはあっただろうか、いやそれよりも甘いものの方がいいかもしれない。
「えっと、お金もお菓子もどっちも持ち合わせていなくて……」
「あっそ。ならこれでいいよ」
これとは。と聞く前に差し出されたオーエンの手が晶の後頭部に回される。彼女が逃げを打つ前にオーエンは晶の唇を奪った。晶が固まっている隙に、オーエンはちゅう、と軽く唇を食んでから離れていく。
「あま」
「えっ。へ? な、ん……?」
「今日のところはこれで勘弁してあげる」
目を白黒させている晶を見て、オーエンは心底意地悪く笑って見せる。自分の唇についた蜂蜜を舐め取る仕草が余計に晶の羞恥心を加速させた。
「うわーっ!?」
「あははっ」
理解が追いつかない頭で、取り敢えず悲鳴をあげた。赤くなったり青くなったりする晶を見て、オーエンは実に楽しそうに笑う。
せっかく塗った蜂蜜は全部オーエンのキスで持っていかれたし、おまけに考えなしに叫んだせいで、晶の口角は更に深く傷ついた。