BGM:Lovesick
①プラサタ
キリスト教徒で懺悔はあるのかと尋ねられるプラムマン。懺悔はあると回答し、誰でも入れるものなのかと尋ねる。サタケに神の道は誰にも開かれているものだと問われ、ハワイの教会の懺悔室(民間人は避難済み)にて、プラムマンに恋情を抱いていると懺悔する
→プラムマンがそれを知る。懺悔室には誰もいないはずであるが、教会に祈りを捧げに来ていた。サタケの告白は切実で、吐き出すようで、涙を携えはしないが苦しい告白だった。その美しさに、醜さに、弱さに、心が動く。だが良いものか悪いものかは分からなかった。サタケはその後も何事もないかのように日常を送る。プラムマンも再び日常を送る。だが少なからず通じあう心に、ほのかな期待と厳しい現実を思う。そのうちに空母にて、プラムマンからボクシングの褒美にサタケがいいと言い出す。時間を共有するが、互いに言い出すことなくついぞは別れる。その半年後に元ATFの結婚ラッシュで訪れた教会で再会を果たし、プラムマンは懺悔をする。貴方の気持ちを知りながら踏みにじった、責務も何も無い軽い関係に落ち込んだのは手落ちで、後悔していると。サタケは笑いながら、あの時間は宝物だったと口では言うものの涙が零れ落ちて。
「懺悔は、どんな教徒でも許されるものなのかな」
「どうかなさいましたか」
「いや、日本には懺悔というシステムは無いから、ちょっと気になってね」
サタケがプライベートな事を漏らすのは珍しかった。ATF発足から数日後の事である。多国籍軍の先鋒、あるいは切り札をまとめるTS部隊に就任した重責が肩にべたりと貼りついてのしかかるのか…その気分転換になるならと、プラムマンはその何でもない会話を引き延ばそうとした。
「どのような方でも、神の道は開かれているものです。他教徒を断ったという話は、聞いたことがない」
「そうなんだね。確かに日本の寺や神社も、どんな宗派でも客人として受け入れている」
「素晴らしい話です。信仰は違えど、神はどのような者も見捨てぬのでしょう。…私はそこまで熱心な教徒ではありませんが、それでも神が見ていると感じることもあります」
「君でも?」
「ええ。戦場で生き残るのは、最後には運になりますからから」
神が選別しているとしか思えぬ緊迫した状況は、何度もプラムマンの身に訪れた。飛び散った同胞との違いは、僅かな運の差ばかりである。神がそこにいるとしか、納得できないものであろう。その戦地での信仰をサタケに押し付けるつもりは無いが、サタケは神に縋りたい気持ちなのだろうか。そうであれば尊重し、機会を奪われてはならないと考える。
「もしよろしければ教会があったはずです。ご案内しましょうか」
「いや、場所は分かるんだ。ありがとう、助かるよ」
サタケはほほえむ。プラムマンは出過ぎた真似だと詫びるが、サタケは首を横に振った。
「君の気遣いにはいつも助かっている、ありがとう」
サタケが自然に笑うのを確認し、プラムマンはひとまず会話の終了を感じた。この話題はこれで終わりであろう。サタケはタブレットを真剣な眼差しで見つめ、操作をし始めてプラムマンを呼び止める。
「すまない、”上級曹長”。この件なんだが」
サタケ・リュウジではなくサタケ二佐に戻ったのであろう、プラムマンは一礼し差し出されたタブレットを確認した。
オアフ島にある教会は、かつての先住民の血と感染症との上に建っている。宣教師はこの美しい未分化の地に、キリスト教という新たな価値観を持ち込んだ。歴史において米国は常に勝者であったが、教会が建つ地面には何世代も前からその地で暮らす者達の思いがしみ込んでいる事だろう。サタケは米国の歴史を非難するつもりはないが、ハワイの景色に、不釣り合いな美しさだと思った。自然が生み出す岩肌を楽しんでいたところに、突然直角の人工物が現れた居心地の悪さがある。唐突な人工物は自然の中で浮き上がっているが、サタケが見上げた教会は色褪せ、次第に自然と同化しようとしていた。暗がりに木の白い肌が浮かび上がり、星を衝こうと三角屋根が突き出している。やはり少々の不自然さはあるものの、この教会は百年ほどハワイに暮らしてきた移住者だ。サタケは教会の扉をくぐった。観光客は避難し、住民も避難所に暮らしている。この教会に住まう牧師も同じように避難を余儀なくされているはずだ。日本であればご神体を持ち出すところだが、教会の壁にそびえたつキリストの像は、人よりも少し大きく持ち運びは出来ないようである。
イエス・キリストが月光のステンドグラスの中で、磔になり人間の業を担っている。救世主であるはずの彼を疑い、石を投げて槍で突いた。今のATFが敵を世界中に発表した時、きっと同じような目に遭うのだろう。真実は時に人間の心を傷付け、必要以上の反発を招く。だからゾルダートテラーの存在も、ブレイバーンの存在も、キングを筆頭とした上層部は頭を悩ませているようだ。サタケはキリスト像を見上げた。十字に磔になったキリスト。ATFと類は違うが、真実を伝えて迫害された者。同じ轍を踏まぬように慎重に行動する必要があるだろう。サタケはキリスト像から目を離すと、告解室を探した。教会の奥に小部屋があるらしく、小さな扉がある。そこにサタケは踏み入った。
「懺悔をさせてください」
誰かがいる訳ではない。だが格子の向こうは殆ど見えず、長年教師がそこにいたのだろうと思われる気配が色濃く残っている。だから誰かがいるかのようにサタケは続けた。
「私は今未曽有の状況に置かれています。宇宙からの謎の大戦力に、多国籍によるありあわせの軍…。指揮系統はてんでばらばらで、纏める事に不安を感じております」
誰も聞いていないのに、サタケは続ける。
「人を愛しました」
その単語を言うと、サタケは滑り落ちるように言葉が止まらなくなった。
「この状況ではないのは分かっています。でも愛しました。止まらなくなりました。誰かに縋っていたいという願いを、全て叶えてくれる相手がおりました。だから私は、愛することを止めることが出来ない」
サタケは日本語である。時折英語も混ざっていたが、完全に日本語に戻っていた。今の状況下では英語が主な言語である。日本語は自衛官仲間でしか使えない。だが、母国語は思わぬ感情を連れてやって来る。英語では抑えてられていた感情を、母国語は全てを解放した。
「私は、私は怖い」
「死ぬのが怖い」
「その時に傍にいてくれる人間に縋りたい」
「怖い時に手を握ってくれる人間が欲しい。そんな年ではないし、そんな事は許されない。分かっているのに」
「トーマスに手を握ってもらいたい…」
「合同演習で出会った彼に、また再会できた幸運を噛み締めたかった。彼が補佐官なんて、冗談じゃない…」
「誰がこんなみっともない姿を見せたいんだ…。もっと綺麗に、格好良く見せたかったのに」
「トーマス。その腕に抱かれたい。それだけでいい」
「愛してもらえなくても…いや、嘘だそんなの」
「君に愛されたいよ……」
サタケの告白は切実で、吐き出すようで、涙を携えはしないが苦しい告白だった。その美しさに、醜さに、弱さに、心が動く。だが良いものか悪いものかは分からなかった。
では誰の心が動くのか? サタケではない。プラムマンである。彼は偶然にも同じ教会に祈りを捧げに訪れていたのだ。十字架を見上げようとした時、話し声がしたので告解室にそっと駆け寄ると、サタケの声だった。日本語であるが、自分の名前を呼んでいることは分かる。僅かな日本語の知識が、殆ど吐き出すようなサタケの口から漏れた単語をなんとか捉えた。愛されたい。彼は自分の名前を呼んでいる、その中でかろうじて拾った単語に、サタケの秘めたる思いを盗み聞きしてしまったことになる。プラムマンは静かに告解室から遠ざかると、教会の裏口から外へ出て行った。サタケに気付かれぬように細心の注意を払い、なんとか宿舎に戻った。何も言うまい。それがプラムマンが決めた事であった。
翌日サタケは通常通りにプラムマンに挨拶する。いつもの顔、表情である。告解室の顔は見えなかったが、あまりにも泣きそうな声だったから、いつも通りのサタケにプラムマンは安堵したものだ。安堵。何故安堵したのだろう。サタケは恋情を完全に隠し、誰にも悟られぬようにしている。安堵は、サタケの隠ぺいを自ら望んでいるという事だろうか。サタケにはこのまま、あの美しい告白を皮切りに、元の指揮官に戻って欲しいからか。…醜いエゴだ、とプラムマンは己の中に靄が立ち込めるのが分かる。合同演習で過去に出会い、恋情を抱いたのはサタケだけでは無かったのだ。プラムマンとて似たようなものである。だがそれは顔が愛らしいのと、その顔に似合わずに豪胆な中身に軍人として惚れ込んだもので、恋情と認めるのには淡すぎる物だった。あの顔を赤らめる時があるのかと、そう考えた事がある程度である。赤らむことのない酒豪で、可愛い顔だから飲めないだろうと酒を勧めた馬鹿どもを返り討ちした記憶に新しい。もしかすれば恋情であれば恋情だろう、だが年齢も国境も差がある人間同士で何が出来るのか。淡いの色のまま霧散していく程度のものに、火が点くことはあるのか。プラムマンは自問自答している暇は無かったが、つい思考が軍事会議から解放された時に考えた。彼を抱ける? その答えは出ないが、触れる事は可能だろう。…認められない。
プラムマンは息を吐いた。認められぬ恋情である。だから本能的に奥底に沈めたのだろう。だから認められない。触れたい愛したい抱きしめたい。どれも認められぬ感情である。今更この枯れた身を焦がすものか、プラムマンは再び奥底に沈めるのだった。
「よくやってくれた。ヤジも飛んで大変だっただろう」
スミスとイサミがボクシングをするというので、サタケがブレイバーンと結託してイサミの本音を引き出したのが同日の午後の事だった。スミスからの礼を受け取り、サタケはレフェリーだったプラムマンを労う。甲板はどんちゃん騒ぎであった。二人は喧噪を避けて空母の中に戻っていく。キングへ報告に向かう為だ。落水者も出たが、無事にすべては終わった事を報告せねばなるまい。
「あの程度のヤジなど」
「しかし命知らずもいるものだな。君にヤジを飛ばすなんて」
「何処の誰かは分かりますので」
「おや、怖い事だな」
サタケは屈託なく笑う。その笑みは悪戯が成功した子供のようだ。久しぶりに見たサタケの屈託ない顔である。空母により日本に向かう僅かな期間で、彼が平静を取り戻して笑う余裕が生まれたのなら、プラムマンは安堵する。勝手なエゴの安堵とは違い、サタケの身を案じたものだ。
「貴方が笑ったのを久しぶりに見ました」
「そうかな。君の前だと子供っぽくなっていけない」
サタケはすぐに顔を平静に戻した。だがすぐに取り繕えない物だなと緩んでしまう。
「すまない、なんだか安心してしまったみたいだ」
「それは重畳です」
「格好がつかないな」
そう笑うサタケは、プラムマンを見やる。
「そう言えば、君の何か希望を叶えたいな。レフェリーを引き受けてくれたことへの礼でね」
「希望ですか」
「そうだな、出来る限りは叶えたい」
穏やかな会話である。サタケとプラムマンは言葉少なではあるものの、互いの癖を理解していた。だからサタケは酒を要求するのかなと考えていた。少なからず通じあう心があるのに、彼らの間にはほのかな期待が漂うものの、厳しい現実を思うと足を踏み出せないでいる。プラムマンはつい
その足を踏み出したくなった。若い勇気に当てられたのだった。プラムマンは立ち止まると、サタケも立ち止まる。振り返ると、プラムマンは膝を着いていた。驚くサタケの手を取り、見上げながら真っ直ぐに見つめる。
「…貴方がいいです」
言ってしまったと思った。だがサタケが顔をみるみるうちに赤らめたので、初めて見る顔だとプラムマンは溜飲が下がったせいか、思わず小さく笑みを漏らしていた。サタケは顔をより赤くしながら言う。
「…笑わないでくれ」
「失礼。緊張の糸がほぐれてしまいまして…」
「君も緊張なんてするんだな」
憎まれ口だ。若造の小さな拗ねるような声に、プラムマンは今度こそ笑ってしまった。
「しますとも」
「……いいよ」
この瞬間は結ばれたと思った。だがその一度きりだった。ATFに次々と訪れる試練に、愛し合う時間など二人には残されていなかった。たった一度の逢瀬に充たされたのか、それ以降互いは”信頼できる指揮官とその補佐官”であり続けた。たった一言であった。離れたくないと言うだけで良かった。だがついぞ二人はその言葉を口にすることなく、…ATFは解散した。
二人が再開したのは、ATF内の隊員同士の結婚を祝福する為に訪れた式場だった。髪をセットアップし、互いに正装をしている二人は目線が合うと、互いに物珍しそうに見つめ合う。だがすぐに笑った。
「久しぶりだな」
「ええ。お元気そうで何よりです、一佐殿」
「最先任上級曹長も元気でよかった。君の叱り飛ばす声が恋しいと思っていた所だよ」
あくまで冗談めいた言葉であるが、サタケは余裕のある笑みを見せる。束の間の逢瀬も、何もかもが夢であったかのようであった。挙式は思い出があるからとハワイに集結することが多かった。大半のATFの元隊員達はハワイのオアフ島にて挙式を舌から、再びこの地で集まるなんて皆思い出話と近況報告に花を咲かせているのだ。プラムマンはサタケを誘い、教会に向かった。パーティは盛り上がっているし、二人が抜けてもそこまで問題は無いだろうと判断し、静かに離席させてもらったのだ。教会はいつも通り、暗がりで白い肌を浮かび上がらせていた。サタケはその教会に懐かしさを覚える。あの時はプラムマンへの恋情にて心が乱れたものだ、今思えば、直近のATF結成で精神的に不安定になっていたのだろう。人肌を求めて、かつての恋情を思い起こしていた。それに振り回されたのだ。サタケはそう自嘲する。横にいたプラムマンは十字架を見やると、静かに喋り出した。
「私は懺悔しなければなりません」
「え?」
「貴方がここで、告解室で苦しんでいた事を私は知っています。…たまたま立ち会いました」
「上級…いや最先任上級曹長。それは気にすることは無い。盗み聞きは、感心しないけれど」
サタケは聞かれていたことで焦りはしなかった。既に恋情は奥底に沈めた、一度きりの逢瀬に全てを消化した気持ちでいたのだ。あたたかい腕に抱かれながら、眠った事を思い出にしたかったのだ。美しい最後の思い出に。
「貴方の告白を聞きながら、私は己の気持ちを引き出されました。ずっと隠していた、己の気持ちを」
「日本語じゃなかったか?」
「でも分かりました。貴方が私の名前を呼ぶのもね」
「それは…少し恥ずかしいな」
サタケは苦笑いする。
「貴方の気持ちを知りながら、私は貴方を踏みにじった。利用したのです、断らない事を分かっていながら…」
「最先任上級曹長、それは違うよ。私はちゃんと了承した」
「責務も何も無い軽い関係に落ち込んだのは、手落ちでした。今では後悔しています」
何も言わなかったことをだろうか、互いに枷となるべく言葉を避けていたのは自分も同じである。だからサタケは笑いながら、何も気にすることは無いと言うつもりだった。だが何故か言葉がうまく出て来ない。震える声でなんとか言った。
「あの時間は、宝物だったよ」
そう口では言うものの、サタケの目からは涙が零れ落ちて。
するとプラムマンは、真っすぐにサタケを見つめた。
「貴方を愛しています」
サタケの呼吸が一瞬止まった。そのうちみるみるうちに赤面していく。
「え……」
「国境も立場も、全てを超えて、貴方を愛しています」
美しい思い出が、あの美しい思い出が少しずつサタケの身に蘇る。触れ合った指先の感触を忘れぬように必死に努めたものだ。だがその次第に手は違う物に触れていくうちにプラムマンの指先を忘れてしまった。その日常に流された恋情もきっと忘れていってしまうのだと思った。だが心にまだ居座ったそれが、心臓を飛び出して口から出て行こうとする。気のせいでも、一時の気の迷いでも、無いのだ。補佐官として、指揮官として触れ合った時間で互いに隣が居心地の良いものだと知った。知ってしまったのだから、傍にいたいと願った。国境や立場が、現実が皮肉にもそれを薄れさせて、誤魔化してきたつもりだったのに。まさか欲しがっていた言葉を言われてしまうなんて。こんなにもあっさりと。
サタケの視界の端に、告解室で涙ながらに呟いていた自分の幻影が見えたと思うと、自分に覆い被さってくる。良かった。全てが報われたのだと。プラムマンはハンカチを差し出しながら、恐る恐る尋ねて来た。
「お嫌でしたか」
「違う。ちがうんだ…」
嬉しいんだと二の句を継いで、サタケは言わなければならない言葉を口にした。
「私も愛しているよ」
星の瞬きが強くなった気がした。星空に食い込まんと尖る三角屋根の教会は、何も言わずに白い肌を浮かび上がらせて佇み、ハワイを見つめ続けている。
BGM:Neonsign
➁キンカワ
ネクタイをプレゼントし合った。互いの首をいざという時に締め合えるように。たとえ切り落とされる寸前となっても守り合うような、互いの首の命運を預け合うかのように。毎年になるとネクタイが届く。互いに家は知る関係性である。住所も国も分かっているし、所属も分かっている。ただ互いに会いに行かないだけである。それは億劫なのではなく、国境が遠く離れているからだ。海洋に出ると領海など目に見える物ではない。海とはあまりにも広大で、人間が勝手に境を作っているのだと感じる。海洋に出れば、同じ空を見上げているのだと感じられた。身は一つなので、肉体が会えなくとも心はいつだって傍にいるつもりだった。魂という概念が、キングに理解されているかは分からない。だが半身を預けた感覚で、海洋上では使わぬネクタイをお供に出動するのだ。私物に混ぜていくのには不要な部類であろうが、嵩張らないのでハンカチと共に持っていく。いつ海上で舞踏会が行われるか分かった物ではないのだ。それはカワダの過去の経験から起きている。過去に一度だけ護衛艦に嫌な空気が漂った時があった。心霊現象というのならそうであろう。半透明の船幽霊たちが、ダンスパートナーを求めて華麗なドレス(半透明だが)を纏いながら、お辞儀をして見せた時だ。発砲許可は下りなかった。人ではないからだ、船幽霊は若いダンスパートナーを求めていたから、ありし日のカワダが突き出された。たまたまネクタイを持っていたからである。家族からのプレゼントで、ハンカチと共に持ってきていた。没収するほどの物品ではないが、荷物不備でしごかれたものだ。だがその荷物が役に立つぞとハンカチを締め、カワダは幽霊とダンスをした。氷のように冷たい手に足は震え、まるで生きる気力を全て奪うような霊に気絶しかけながらも、踊り切ったカワダに、船幽霊は祝福した。それが現在の出世の一因に作用しているかは分からない。だがこの時から、ネクタイはカワダにとって大事なものになった。それを、キングに話し、毎年の誕生日プレゼントはネクタイに決まったのだ。キングからの柄は、自分が選ばぬものだから大変に新鮮である。今年はどんなものだろうとうきうきと待っている。だが今年は事情が違っていた。キングが退役して、日本国にやって来ると言うのだ。カワダは考え得る最大のもてなしと、最大限の身だしなみで出迎えるために注力していた。そうして、空港にやってくる当日に、車両同士の接触事故を直前で回避した。目撃者は、見た事も無いドレス姿の女がいたのに気が付いたから、慌ててハンドルを切ったのだと言う。その出来事をカワダは知ることは無い。ただ自分が贈るハンカチを大事に助手席に置き、空港まで走るだけだ。もうすぐ愛する人に会える。ハンカチで愛する人を縛る計画は終わったが、これからも彼のネクタイで首を絞めるだろう。
ネクタイをプレゼントし合った。互いの首をいざという時に締め合えるように。たとえ切り落とされる寸前となっても守り合うような、互いの首の命運を預け合うかのように。
カワダの家には、毎年になるとキングからのネクタイが届く。互いに家は知る関係性である。住所も国も分かっているし、軍の所属も分かっている。ただ互いに会いに行かないだけである。それは億劫なのではなく、国境があまりに遠く離れているからだ。ハワイと日本ではあまりにもである。気軽に飛んで行ける距離ではない。彼らの間に横たわる海はあまりにも広大である。
だが互いに海の防衛に属する身である。カワダはひとたび海洋に出れば、キングも同じ空を見上げているのだと感じられた。海洋は空と同じで、水平線はどこまでも並行だが、一つなので繋がっている。だからキングも同じ空を見上げている。そんな慰めじみた事を考えるのは寂しさの表れだろうか。
だがいくら願ってもカワダの身は一つである。肉体が会えなくとも心はいつだってキングの傍にいるつもりだ。それは日本人特有の魂という概念になるのだろうが、キングに理解されているかは分からない。明確に話したこともない。だが半身を預けるような感覚で、カワダは海洋では使わぬネクタイをお供に出動するのだった。私物に混ぜていくのには不要な部類であろうが、嵩張らないので常にハンカチと共に持っている。それにはキングからのもらい物というだけでなく、明確な理由があった。いつ海上で舞踏会が行われるか分かったものではないからだ。十中八九、誰もがそんな事はあり得ないと言うだろう。海上の舞踏会など、豪華客船の中では起きるが、あくまで国防の為の軍艦や戦艦では起きない。そう考えるのが普通であるが、それはカワダの過去の経験から起きていた。
カワダが若い頃、さる護衛艦に搭乗していた時のことである。日中の航海はきわめて平常で、何の問題も無かった。だが問題は夜に起きた。その光景は今もカワダは覚えている。真っ暗な空に真っ黒な海。目の前にはまるで軍艦を飲み込まんとする巨大な口があるかのようであった。ブラックホールに吸い込まれた者はこのような光景を見るのかもしれない。本能的に忌避するような何とも嫌な感じが漂い、皆何故か緊張していた。星すら見えないのはなぜだろう、先程まで晴れていたのにいつの間に分厚い雲が覆ったのだ? 何とも足の速い異常に目を光らせていた時、甲板に人影ありと報告が入った。緊張感はより高まった。この暗がりに乗じて、どこの国かは分からぬが侵入者が海からやって来るのだ! 甲板に走る者、指揮は甲板の姿を捉えようと躍起になった。サーチライトが点灯し、甲板を映した時だ。そこには何もいなかった。
だが次の瞬間、全てのライトがふっと消え失せる。故障か?! そんな事はあり得ない、だって一つならまだしも全てが消えた! 全てだぞ! 緊迫感はますます高まった中で、甲板にうすぼんやりとした明りが点く。まさか、と誰かが呟いた。侵入者がわざわざ灯りを点けるとは考え難い。だがそれでも明りが点いたが、まるで夜光虫のような蛍のような僅かな光だった。司令部の前に、その発光体が突然窓に貼りつく! 人間だった。
「うわあ!」
誰かが叫ぶと、満足したのか人間の形をした者はけたたましい笑い声をあげてぐるぐると船を回り始めた。幽霊だ。何体もの鬼火が甲板に降りて来て、それが発光して人の形になる。彼らは半透明の船幽霊だった。鬼も恐れぬ自衛官達であるが、船幽霊に発砲許可は下りない以上は何も出来なかった。身体が凍り付いたようにその鬼火たちを見つめていた。すると、幽霊達は何やら格好に特徴があるのが分かった。女性は可憐なドレス姿、男性は紳士服を着ているのだ。西洋のダンスパーティーを思い起こす格好である。だが少々古めかしいので、時代の差を感じる。彼らはくすくす笑いながら、甲板に我が物顔で居座り始めた。すると、ひときわ大きな鬼火が、華麗なドレス姿の婦人となり、甲板に降り立つ。どうやら格があるらしく、甲板の幽霊達は皆彼女にお辞儀をした。彼女は、半透明の体でほほえんだらしい。遠巻きに見つめる自衛官達にお辞儀をして見せるのだった。
「ダンスでもするつもりか?」
誰かが呟いた。若いダンスパートナーを優雅に待つように、巨大な扇をぱたぱたと自分に仰いで見せる。どうやら、その言葉通りにダンスをお望みのようである。誰が行くかという話になった。何せ幽霊とのダンスである。するとそこで、カワダはネクタイを持っていたと誰かが叫んだ。余計な事はまたたく間に口伝され、彼が着替えて突き出されることになったのだ。
カワダがネクタイを持っていたのは偶然だった。自衛官になったからと家族からのプレゼントされたもので、ハンカチと共に持ってきていたのだ。若いカワダにはお守りのようなものだった。没収するほどの物品ではないが、荷物不備でしごかれたものだ。だがその荷物が役に立つぞと囃し立てられ、若いカワダはあっという間に甲板に出されてしまった。まるで生贄である。だがこの状況を打開するのには必要だ。不慣れな仕立てにじろじろと幽霊たちの冷たい視線が突き刺さる。だが、女幽霊は若いダンスパートナーに喜んだらしい。手を差し伸べたカワダの手を恭しく掴んだのだった。
幽霊とのダンスなど人生で初の事だった。彼女の氷のように冷たい手に足は震える。身体的な冷たさだけではなく、本能的な恐怖があった。彼女に触れていると、まるで生きる気力を全て奪われる気がしたのだ。冷たい奈落に突き落とされる感覚である。周囲にはカワダを逃がすまいとしたのか、盛り上げるようにダンスをする霊に囲まれていたから、逃げ場は無かった。気絶しかけながら、それでも気力で踊り切ったカワダに、船幽霊達は満足したのか、拍手を打って祝福した。そして女が満足したように消え失せると、周囲の幽霊達も消え失せる。どうやら何かに合格したのか、満足したようだった。一人きりになった甲板に、若いカワダは倒れ込んだ。
「カワダ!」
仲間たちが駆け付けるがその声は耳には届かず、結局三日三晩昏睡していたらしい。気が付いたら医務室のベッドの上だったので、カワダはその眠っている間の事を何も覚えていなかった。ああよかった、よかったと仲間が喜ぶ横で、カワダは寝込んでいたとは思えない程の気力と体力を回復させ、そのまま従事してその航海は無事に終わったのだった。
若い頃だから生き延びたのだ。今だったら生きていられまい。カワダはそう思っている。それが彼の、現在の出世の一因に作用しているかは分からない。だがこの時から、ネクタイはカワダにとって非常に大切なものになった。この出来事はとうの昔にキングに話している。そうして、毎年の誕生日プレゼントはネクタイを贈り合うことに決まったのだから。キングからの贈られる柄は、あまり自分では選ばぬものだから大変に新鮮である。今年は一体どんなものだろうとうきうきとして待っていた。だが今年のカワダの誕生月は、今までと少々事情が違っていた。
今までは遠い身を案じ、互いの為に贈り物をしあって慰めていたのである。だが今年に入ってキングが退役することになり、なんと今回は日本国にやって来ると言うのだ。カワダは考え得る最大のもてなしと、最大限の身だしなみで出迎えるために注力していた。最高の状態を常に模索し、いよいよ彼が空港にやってくる当日である。
カワダは愛車で空港に向かった。けっして浮かれていたことは無い、平常時の運転である。だがその道中で、車両同士の接触事故に巻き込まれそうになったのだ。原因は先方がスマホのよそ見運転である。だが直前で向こうが急ハンドルを切ったので、カワダは事なきを得た。事故にもならなかったからただクラクションを鳴らしただけで終わったのだが、その運転手は事故の直前、見た事も無いドレス姿の女に気が付いて慌ててハンドルを切ったと言う。
その出来事をカワダは知ることは無い。ただ自分が贈るネクタイを大事に助手席に置き、空港まで急ぐだけだ。もうすぐ愛する人に会える。ネクタイで遠方の愛する人を縛る計画は終わったが、これからも彼のネクタイが自分の首に収まるだろう。これからもきっと命運を預け、互いに守り合う関係でありたいと願う。信号待ちにネクタイの箱を撫でて、スマホをそわそわと見やって、青信号になる前にスマホを置くと発進した。もうすぐ空港である。
BGM:バケモノダンスフロア 島爺
③デル所
全てが対処療法といえばそうだ。敵が来たから倒す、痛みがあるから治す、壊れたから直す、その繰り返しである。
「所長!」
「で、デルウハ殿どうかなさいましたか?!」
デルウハの言葉に、所長は極めて駆け足で状況確認を求める。日本人らしく察知能力も高く、デルウハの望むような言葉を引き出す所長だが、今日は空回りしたようだ。イペリットか、ハントレスの状況か、何か問題が起きたのかとあらゆる可能性がぐるぐると巡る。デルウハの言葉を待っていると、向こうは続けた。
「缶詰の生産は順調なのか?」
「え、あ。あ、はい。食糧班曰く順調だと」
デルウハの勢いが唐突に緩み、つかつかと歩み寄って来たのが緩やかな歩数に変わる。何故急に勢いが衰えたのか、所長は不思議に思っていると入口にむつがおずおずとこちらを窺っていたのだ。デルウハはその気配を感じ取り、咄嗟に話す内容を変更したのだろう。所長は本意を知りたい気持ちはあるものの、デルウハに合わせる。するとむつが、おずおずとやって来た。
「あの、あのね。…珍しくいちことよみが喧嘩してて」
「ああ、そうか。分かった今行く」
「デルウハ殿、私も行きます」
むつが呼びに来たのは想定外なのか想定通りなのか、デルウハは慌てた様子もなくむつの後に付いて行く。所長も後に続いた。連れ立って歩いた時、デルウハは小さく笑う。所長に伝えたい事がやはり他にあり、その手間が省けたという事なのだろう。デルウハの考えを汲むのにも慣れて来たのか、所長は小さく苦笑いをする。自身が大分デルウハの想定に沿ってきたと言う事だろうか。デルウハの効率の手伝いをする上で、合理的な判断が身に着いたのかもしれない。とはいえまだ、悪魔的な行動には思いも及ばない所がある。デルウハはハントレスの喧嘩をどう止めるのかは気になったが、どうやら些細な出来事だったらしい。よみが誤っていちこの私物にお茶を零したから、その謝り方がどうという問題だ。デルウハが殺すほどではない瑣末な問題であるが、士気に関わるのならデルウハは彼女らを手に掛けるだろう。これでいちこの指示によみが従わないとなれば、部隊としては指揮系統が成り立たなくなる。よみは謝ったと主張するし、いちこは謝っていないと主張する…平行線である。デルウハがどう出るかを考えている間に、彼女らと付き合いの長い所長が先に口を挟んだ。
「よみ、気持ちは分かる。謝ったつもりなのにまだ足りないと言われると、悲しいね」
「そうでしょ!? なんで気が済むまで謝らないといけないのよ」
「それ、よみが勝手に終わったと思ってるだけでしょう?!」
「ああ、いちこ。君も謝ってもらった気がしないんだね? だから怒りが湧いてくるんだね」
「そうですよ! だって適当な返事でしたもん!」
「あんたのそういう所がうざったいのよ…!」
「なんですって!?」
所長はよみといちこの間に入りながら、まあまあと宥めようとした。デルウハが彼女らを殺すのだけは勘弁である。たかが痴話げんかなのだから、士気に関わると言っても殺す程ではない。この喧嘩を宥めて双方納得の上で会話が終わる…それこそが求められる解決策である。
「よみ、先程なんと言ったのか教えてくれるかな」
「はあ? 所長まであたしが悪いって言うの?!」
「そうじゃない。ただなんと言ったのか教えてくれと…」
「ごめん、よ。そう言ったわ」
「聞こえなかったわよ!」
「はあ? 耳ついてるのに何でよ、四つもある癖に!」
「誰の耳が四つなのよ!」
むつも心配そうにしている。みちもいつかも、にこもなかなかこの剣幕には入れないようだ。所長が意を決したように言う。
「よみ、もう一度いちこに謝りなさい」
「は!?」
「聞こえなかったんだ、いちこは。だから余計に怒りが湧く」
「なんで私が…!」
「まあよみは謝りたくないだろうな」
デルウハが口をようやく挟んだ。よみが勢い良く振り返る。
「そう! そうよね!? デルウハもそう思うでしょ!」
「待て、まず事実だけ話す。よみは何故そもそもお茶を零した? テーブルの上に手を振り回さん限り、そんな事は起きないだろう。そもそも茶は誰のだ」
「僕…」
「いつかのか」
おずおずと手を上げたいつかに、デルウハはテーブルを見回す。いちこの私物が置いてある場所と、対角上にいつかのお茶が置いてある。そのお茶をよみが零してしまったのだろう。だがその位置でよみがたまたま歩いたところで、お茶は零れない。だったら何故零れたのかを考えると、よみが暴れたという事だろうか。
「なんで暴れた?」
「それは…」
「ごめん。僕が、僕がよみにちょっかいを掛けたから…」
「え、そうなの!?」
いちこが驚く。どうやらその顛末は見ていないらしい。いちこが気付いたら、彼女の私物にお茶が既に掛かっていたようである。そこでよみが近くにいた為、よみが犯人であることを知ったようなのだ。いつかがよみにちょっかいを掛けたせいで、お茶が零れ、結果的にいちこと当事者意識の薄いよみとの喧嘩が勃発したのである。当事者意識の薄いよみが、謝罪の要求を受けるのは不当であると考えるのは仕方ない。
「ごめんいちこ。僕のせいでもあるんだ。言い出せなくて、ごめん」
「そうだったの…でも」
「あたしもごめん! …それでいいでしょ」
「よみ。そういう言い方は良くないけど、謝ったもんね。だから分かった! 許すから、ほら」
いちこが手を差し出す、よみも渋々とだが手を出して、握手して仲直りだ。何とか場が収まる。むつもホッとして息を吐いた。所長も安堵のため息を吐く。デルウハは用件は終わったとばかりにさっさと立ち去ったのだった。所長も慌てて後を追う。連れ立って歩くと、子供たちの喧騒が遠ざかり、気配を感じなくなったところでその足は所長室に向かうのだった。
「はあ、デルウハ殿…良かったです。なんとかなりましたね」
「そうだな、まあつまらん出来事だった」
「子供のする事ですから、こういった事も起きます。それで、デルウハ殿の用事とはなんでしたか?」
「ああ、例の」
デルウハはとんとんと頭を叩く。むつの記憶操作の件であろうと所長は頷いた。
「順調ですが、もう少しお待ちください。完全性を期すにはもう少々いただきます」
「分かった。その間にガス中和薬の効果だな」
「ええ、その実験も行わなければならないでしょう」
そうして会話している間に所長室に辿り着く。だが所用は済んだのかデルウハはどこかへ向かって行った。薬の件はハントレスに感づかれていないだろうし、後の問題は山積みだがひとつひとつ片付けていく必要がありそうだ。所長は息を吐いた。イペリットの殺人ガスが高地にまで登るまで、ほんの前の出来事である。
世界が壊れたから直した。戦うから生きた。それだけであった。地球へイペリットの侵入を防いだ六人の少女達は、世界を救った。その為デルウハの罪は清算され、彼は気が付けば天国のような場所にいた。気が狂うような満腹感と共に。
「腹が減らん」
「天国は何もやることが無いという伝承もありましたね…全てをやりきった者に与えられる幸福な場だと言いますが」
所長が答える。世界を救った功績は罪を打ち消したのか、それともここがそもそも地獄なのか? 真っ白でふわふわとして転んでも怪我をしない空間で、そこには世界を覗くことが出来る穴がある。色彩はそこで得ることが出来るのだ。地獄でも天国でも、デルウハには空腹が無いのでどちらにせよ地獄だった。
「飢餓状態で死んだ人間には幸福な場所かもしれませんね。我々のように飽食の時代では、天国はただ満腹なだけで」
「減らなきゃつまらんな」
地獄には伝承にあるような責め苦も、天国には伝承にあるような極上の体験もない。エデンの園があれば侵入したいくらいである。それほど何も無い場所にぽつねんと置かれてしまって、旧知の人間と話をしたり、下界を見守るくらいしか娯楽は無い。
「そういえば、デルウハ殿」
「なんだ」
「研究所を襲われた時があったでしょう」
「ああ、あの時な」
「何故あの時、私には爆発を選んだのですか?」
自分の殺害方法について聞くか?とデルウハは思うが、ここは天国か地獄である。他に何の娯楽もなく倫理も無い。生存していないのだから、倫理観など崩壊しているのか。デルウハは偽りなども何も無く、単に答えた。
「体が残ると、未練が残るからだな」
「…なるほど。そのお言葉だけで十分です、ありがとうございます」
「何か、勘違いしてないだろうな」
「さあ、どうでしょう」
受け取り方は自由ですからと所長は笑う。デルウハはどうにも不気味だなと思いながら、下界を見下ろした。壊れた世界が治っていくのがよく見える。その分、欲に駆られた人間達の動きも。所長は感慨深げにつぶやく。
「…もう一度この目で見たかったですね。ガスの無い世界を」
「そうだな」
「破壊され尽くした街は無惨かもしれませんが、それでも自然が戻れば、美しい地球が見られたかもしれません」
「あんたの感性は変わってる」
「そうですか、よく言われました」
言われてもその感じなのかよ。まあいいとデルウハは所在なさげに下を覗き込むのだった。いちこが誰かと握手をしている。あの時の体験が、彼女に何を与えたのかデルウハには分からなかった。