「よく来たな」
 デルウハは確証を持った笑みで、所を部屋に迎えた。昨日の揉め事は無かったかのような態度である。所はリュックの紐をかたく握り締めていて、まるで初めて学校に行く子供のように不安をか弱い紐に託している。生唾が溢れて止まらず、瞬きを忘れた目は乾いてまつ毛が当たっているようで痛い。喋り出そうにも口腔内の唾をごくごくと飲み干すのに集中しており、所は喋れなかった。だがデルウハの手が肩にかかり、中に招き入れられると一歩、一歩とゆっくりと部屋の中に踏み入る。のろのろとした歩みでも、玄関を入ってすぐのクローゼットを抜け、トイレを抜け、シャワー室を抜け、左手には鏡台、右手にベッドが見えて来たところで急激な恐怖に襲われて所は震えた。絶体絶命である。今からこのベッドに押し倒されてしまうのだという思い込みが浮かぶと、所は何も出来ずに震えるしかなかった。
 デルウハはそこで誘導を辞め、足を止めてしまった。そうして、震える所の顔を覗き込む。
 「諦めは付いたか?」
 「………はい」
 デルウハの確信は現実のものとなった。その為、デルウハは非常に素晴らしい笑顔を見せる。
 「そうか。良かった」
 「…デルウハ殿」
 「なんだ?」
 デルウハの機嫌がいいのか、優しい笑顔が所に降る。人の良さそうな優しい顔だった。
 所からすれば、デルウハの言葉や行動は半ば脅しであった。住所も大学も彼に知られている。万が一にでも引っ越しても、きっとデルウハは大学に現れる。休学をしても、退学をしても、きっと彼は住所を頼りに、この顔を頼りに、デルウハは東京中を探し回る事だろう。部屋で震えながら眠れないながら所は一晩中考えていた。春の言葉をお守りに、デルウハの恐怖を払い除けようと試みた。やはり断ろう。そんな小さな決意を持ち、風呂に入っても何故か眠れずスマホとテレビ、本を往復して三時間も経つと、不意にデルウハの記憶の方が色濃く思い出されて、よくあの時は殺されなかったと思い出した。それが愛情表現か偶然かを考えた時、彼の末恐ろしさが記憶から、所の脳に改めて叩きこまれる。記憶を思い出せ。あの人間から逃げ切れるのか? あの人間と真向に戦えるのか? 出来る訳が無いと所は頭を抱えた。その恐怖に支配されたのが深夜一時である。ここから朝の六時まで一睡もできなかった。決して広くは無い一人用のアパートをうろうろと歩き回ろうとして、足音が気になったのでベッドに座り込む。立って歩こうとして、やはり近所迷惑だからと座る。繰り返す意味のない行動は、迫るタイムリミットに対して忙しない心がなんとか平静を保とうとする本能だ。強烈なストレッサーからの逃避行動であろうが、深夜という時間帯と、所は何故か部屋を出るのが恐ろしくて外には出なかった。デルウハが待ち構えていたらどうしようと考えたのだ。その恐ろしい可能性に、勝手に足がすくんでいる。だから部屋の中で結論を出すしかないのだ。所はベッドに座り込むと、祈るように手を組む。祈る先は神か、デルウハか。明日になれば彼が自分を諦めてくれないかと、都合のいい事を祈った。
 「……」
 答えは一つしか所に用意されていない。断る方法を模索すべきだと反抗心が立ち上がるものの、大半の所のこころは諦観を覚えている。受け入れるしかないのだ。幸いにも恋人はいない。婚約者もいなければ、将来を誓い合った人間もいない。だから面倒事が起きないのが幸いである。そう前向きに考えるほか無かった。所はそこで諦観に一気に傾いた。今から愛する者を作ってデルウハの道を妨害することになっても、いやそうであってもデルウハには障害にもならないのだろうと想像できたからだ。彼の手段を選ばぬところを、何度見て来たと思っている。何度も立ち上がった反抗心が、急速に萎える。諦めて身を差し出せと自身に言い聞かせたのが、午前五時。朝冷えに震え、タオルケットを被りながらそう決める。案外付き合ってしまえば、早々に飽きてくれないだろうか。あるいは二か月なら耐えられるんじゃないか。希望的観測を描きながら、今日は講義もアルバイトも無いのでまずは汗を流さねばならないと所は思った。びっしょりと冷や汗をかいている。シャワーを浴び、喉を通らないが昨夜コンビニで買ったサンドイッチを食べなければ。身支度を整えて街をふらつくのもいい。今は、この問題から目を逸らし続けたいのだと、律儀な結論を出した所はふらふらと風呂場に向かった。
 それが決意を決めた朝である。結局夜に一睡もできなかったせいか、昼前の11時に緊張の糸がはちきれて所は眠ってしまっていた。気が付けば17時である。約束の時間は20時であるから、まずは食事をと思っても腹は鳴るものの食欲が無かった。ふらつき揺れる心を持て余していたら、気が付けば家を出る時間になり…今に至る。所は顔を上げた。
 「本当に私を愛していただけるのですか…?」
 「愛がどういうものを指すかどうかか? その議論は無駄だな。客観性に欠ける」
 デルウハは冷淡である。だがその正当性はあった。形か物か、あるいは金か。愛情表現だと感じるのは千差万別であろう。ただデルウハの手が、所の服にすいと伸びるのは、分かりやすい肉欲の表れでもある。それを愛情とみなすのなら、正しいものかもしれない。恭しくリュックを下ろされ、ボタンをぷちぷちと取る丁寧な仕草には無駄がなく、所をベッドに連れ込む気を隠さない。もう脱ぐだけになったロングシャツを確認し、デルウハは淡々と告げた。
 「洗浄してくるんだな。器具は前回のが余っていて」
 「いえ…昼から何も食べていないので大丈夫です。食欲が無くて」
 そこで機会良く、ぐううと所の腹が鳴った。結局17時からは、どうしても腹が鳴るので風邪用に買ったゼリー飲料一本でしのいだ。それでも満腹になる程度だからよほど思いつめていたのだろう。所は体と心は連動しているのだと思った。身体は丈夫であるべきだと思ったが、煩いに引きずられている。若い体はすぐに死にはせずに、指先は少しだけ寒いものの倒れる程ではない。所がデルウハを見上げると、信じられない物を見るような顔で彼は絶句していた。
 「朝しか食べてないのか」
 「ええ。9時くらいから…でもゼリー飲料は食べましたよ」
 「はあ?」
 デルウハは素っ頓狂な声を上げる。所は何が気に障ったのだろうと思った。洗浄の必要が無いので褒めてもいいくらいなのだが、そういえばデルウハの行動原理を思い出す。彼は食にこだわっていた。三食の食事が何よりも大事であった。それは今の飽食の世界でも同じらしく、デルウハは所に見向きもせずに背を向けると、何やらごそごそとし出す。服を半端に脱がされた所がぽかんとしていると、彼はなんとルームサービスのメニュー表を差し出してきた。
 「何を食いたい」
 「え、でも、食べたら出来ないですよ…」
 「そんな事は分かってる。いいから選べ」
 「あ、じゃあこの中華で…」
 レストランにある中華粥がおいしそうだと思い、所はそれを指差す。分かったとデルウハは中華粥だけでなく、小籠包や天津飯、麻婆茄子などもルームサービスで注文した。風向きが変わったと所は思った。このまま無理にでも抱かれると想像していたが、食を抜いた所に対してデルウハは妙に甲斐甲斐しい。だが注文が終わるとデルウハは所の元に戻り、ベッドに座らせるとそのまま覆い被さってきた。所の背がベッドに沈む。
 「え」
 戸惑っていると、デルウハは服を脱ぎ始めた。思わず所は驚くが、服だけ脱がされてしまうとデルウハが足を寄せてくる。ルームサービスが準備されているというのに、所は思わずデルウハの腕を掴む。だが完全に抵抗は出来なかった。
 挿入はしないものの、性器を股の間に擦り合わせて発散した。デルウハはそれだけ終わらせると、所を抱え上げてシャワー室に放り込む。二人してシャワーを浴び、所の髪を乾かしたものの、まだデルウハの髪の水気が拭き取れてはいない状態でルームサービスがやって来るのだった。
 「すみません、見苦しいところで」
 「いえいえ。ご注文ありがとうございます」
 にこやかに応対するデルウハに、従業員はにこやかに対応する。その穏やかなやり取りの横で、所はリュックを持ってトイレに身を隠していた。隠れる必要は本来なかったのだが、思わず後ろめたさで隠れしまったのだ。だが靴を隠し忘れたことを、デルウハがの声を聞いて思い出す。だが後の祭りであった。ボーイが下がっていく音は聞こえなかったが、ドアの向こうの足音が小さくなっていく。デルウハは水気のある髪で、トイレに向かって振り返った。
 「もういいぞ」
 所はおずおずと出ると、リュックを置くと、慌てて風呂場に行ってデルウハにタオルを差し出した。タオルを受け取ると、デルウハはそれで水気を取る。
 「気が利くな」
 「デルウハ殿…すみません」
 「靴まで隠さなかったのは落ち度だな。まあもう分かってるだろうがな。向こうはプロだ」
 「うう」
 所は呻く。宿泊者に来客がいるのは、もうフロントで把握しているだろう。だが隠れたことでかえって後ろめたさが増して、ホテルを穢した気がするのだが、かえって隠れた方が奇妙な行動であったようだ。自身の行動を逡巡する所に対し、タオルで水気を取り終えたデルウハは、風呂場に戻るとドライヤーで乾かした。乾いた髪で椅子に座ると、そばにあるテーブルに料理の乗ったサービスワゴンを引き寄せる。そのままテーブルに何皿か料理を乗せると、たちあがる湯気に食欲が刺激されてデルウハは生唾を飲む。一方の所は、脱衣所で脱ぎ散らかした服を畳んでいた。すると、デルウハの声が聞こえて顔を出す。デルウハは手招きしていた。
 「こっちに来い」
 「へ?」
 所は不思議そうにデルウハに近付く。すると、彼は自分の膝にすとんと所を座らせたのだ。何の抵抗もなく、座り込んだ所は自分でも驚いたようだった。
 「え、え、重いですよ?」
 「いいから座ってろ。食べるぞ」
 「ええ…」
 そう言いながら、皿を手渡され、少々落ち着かない中だが食事を開始することとなった。風呂上がりのにおいが、料理に掻き消される。だが芳醇な匂いに所も食欲が湧いて来た。取り皿によそわれた中華粥は、すきっ腹に流し込むと随分と美味しかった。やわやわとした米が、噛むと甘くて全身に沁みる。出汁のきいた味が単調にならずに舌を満足させた。置かれた赤いくこの実をするりと飲み込むものの、奥歯でそれを噛み締める。甘酸っぱい実だ。ほふ、と湯気の立つ粥に、先程までずいぶんと緊張していた全身がほぐれる気がする。食べ物に与えられた安心感が、ようやく所の身を包んで解放してくれたようだ。
 あとの問題は、デルウハの背にもたれなければ良かった。背筋をしゃんと伸ばしていればよかった。だがそれも、デルウハの手があえて所をもたれさせようと腹に回って来るので、もたれざるを得なかった。
 「ちょ、あの、デルウハ殿…零れたら危ないので」
 デルウハの足は素足だ。だがそれでも気にせずに所を抱き寄せ、小籠包をとっくに平らげて天津飯を口に運んでいる。片手で器用なものである。もくもくと食事を進めると、そのうち中華粥は空になり、満腹になった所は息を吐いた。
 「口開けろ」
 そう言われた所の口に、天津飯が差し込まれる。レンゲから離れた米と餡と卵は、先程の中華粥よりも固さもあるし味も濃いが、それでも若い体は栄養を欲していたのか食べられた。飲み込んだ後、所は不思議そうにデルウハを振り返る。
 「分けてくださるんですか?」
 「食ってないんだろ」
 「そう、ですが…」
 これは大層な愛情表現である。食にこだわるデルウハが、なんと食事を分けてくれている。前世は食うに困るような状況であったから、飢餓状態にならぬように食事を確保するのは分かる。飽食の時代だからこその優しさか、それともこれが彼なりの愛情表現か? 所は前世のように愛想笑いをしていた。
 「はは…デルウハ殿から食事をもらうのは、なんだか気が引けますね。召し上がりたいでしょう」
 「俺が食べろと言ってるんだ。とっと食べろ」
 二口目の天津飯が、いつの間にか所の前に用意されている。所はレンゲに顔を近付け、自分からぱくりと食べた。よく噛み締めていると、所の目からほたほたと涙が流れ落ちる。その涙が、デルウハの腿を滑ったので気付かれたようだ。デルウハの怪訝な声が聞こえる。
 「待て、なんで泣く?」
 「すみません…」
 ぐす、としゃくりあげながら所は言う。
 「デルウハ殿の愛情を、信じ切ることが出来ませんでした。先程まで」
 「でも、違うのですね…あんなに大事にしていた食事を分け与えてくれたり、気を遣っていただけたり…貴方にも愛情はあったのだなと」
 大分失礼な事を言われているが、デルウハは流した。というのも、実際問題食事に関してはかなりのこだわりがあるのは事実だし、所をすぐに抱かなかったのも食事が原因だ。だが別に抱くのを諦めたつもりはない。体力をつけさせてから抱いた方が反応もいいし、今後の精神的負担を考えた時に、絶食状態で抱いたと脳に覚えられても困る。適度な幸福感と適度な体力が、長期間にわたって人間との関係をもたせるコツだ。だから食事を優先したのだが、それが愛情表現だと認識されればそれはそれで、楽だと思った。
 唐突にデルウハは所の首筋を舐める。
 「ひ、」
 首筋を舌で下へ辿っていくと、昨日付けた鬱血の跡があった。悩みあぐねて消すのを忘れていたようだが、”了承”の合図である。デルウハはその横にもう一つ、皮膚を吸い上げて鬱血を付けた。
 「ん…!」
 わずかな痛みに喘ぐが、すぐに舌が甘やかすように肩甲骨の手前まで降りて、また首筋に戻っていき、耳に向かうと所の肩がすくんだ。
 「や、あの、」
 耳が弱いのか縁をあまく噛むと所の背が伸びた。舌で耳の複雑な形をなぞっていくと、肩をぎゅっとすくめる。
 「ん、ん…」
 所が困ったように息を漏らすのに、このまま押し倒そうかとデルウハは思うが、まだ料理が残っている。つい手が料理に伸びた。彼の性であるようだ。中途半端に責められた所は、急にデルウハが食欲に向かったので怪訝な顔をして振り返った。だがデルウハは、天津飯をもぐもぐと咀嚼している最中だ。所はどういう顔をすればいいのか分からないまま、デルウハにねだるように声を静かに出した。
 「デルウハ殿…その」
 「食べた後だ」
 「……はい」
 ああ、あの従順な所長が戻って来た。デルウハはそう感じながら、天津飯を平らげる前に麻婆茄子に手を伸ばそう。そう考えて手を皿に伸ばすと、先に所の手が皿を取り、箸を持っておずおずとデルウハに差し出す。
 「あの、どうぞ」
 皿置きに自らなるというのか、あるいは箸で食べさせるのか? 試しにデルウハが口を開くと、所は急いでたれが絡んだ茄子を箸で取り、口に運んでくれる。効率の良い食事の仕方ではないが、この後所にはお預けをくらった肉欲を、散々ぶつける予定である。挿入はしないが、口も手も何もかもを使う予定である。今好感度を上げた方がいいだろうと判断して、もう一度口を素直に開けると、所は茄子をまた口に運んでくれた。従順で素直で、喉に箸を突っ込むなど考えもしない善良さだ。その善良さは前世から引き継いだもので、天性のものだろうか。その善良な相手を引きずり込むのも、悪魔たる身には過ぎた快感であろう。想像すると身震いしそうだ。
 残りの茄子はつるりと飲み込むように皿を傾けると、所は驚いたような顔をしていた。好感度が下がったか? だがもう上げる必要はない。飲み込み、お茶で流し込むとデルウハは椅子のまま所を抱き寄せた。皿をテーブルに置いた彼が、おずおずとデルウハに顔を寄せて来る。その顔も好みなのだ。手で探る若い肌は、湿気を含んでやわらかい。しばらく胃腸が落ち着くまでは落ち着いて、楽しみはそれからだ。デルウハは所に口付けると、抵抗もせずにあっさりと顔を近付けて来る。笑いは漏れないが、このまま抱いてしまおうかと一瞬でも考えるのだった。
 
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