烏羽の夜だった。所には、夜の闇はすべてを飲み込むような漆黒に感ぜられた。それほど漆黒が身に近かった。身を衝く絶望に、星を飲み込んだ闇色の空が手招きしているような気さえした。東京の夜は電灯が多く、人気もある。それでも誰もいない場所は生まれる物だが、所が歩いているのはホテルが立ち並ぶ観光地だ。寂しさなどあるはずもない。皆興奮を抱え、観光を終えて帰って来る場所である。仮の住処である。そこにホテルのコンシェルジェ達が笑顔で出迎えてくれ、居心地の悪さなど微塵も感じさせようもない。
所は学生然とした格好で、少々高級ホテルには不釣り合いだったが、デルウハの言う階に向かう為にフロントを抜けてエレベーターホールへ。フロントにいた受付は幸いにも一週間前に来た所を覚えていたらしく、にこやかに頭を下げた。所も頭を下げる。これからこの高級ホテルらしからぬ振舞をデルウハの部屋で行うとは思われないために、なるべく平静にと所は努めていた。また抱かれてしまうだろうと思っていたからだ。
こんこんと扉をノックすると、デルウハは笑顔で迎え入れてくれた。
「こんばんわ…」
「よく来たな。入れ」
一週間前と違う洋服のデルウハは、機嫌が良かった。所がリュックを下ろすと、当然のように所を抱き締めてくる。まだ服もそのままでシャワーすら浴びていないが、腕の中に入れるという愛情表現を優先してくるところを見ると、本当に自分は愛されているのかという疑問が浮かび、それと同時に何故か寒気のようなものも覚えた。モンテローザの悪魔が、何の見返りもなく愛してくるのが末恐ろしいのだ。その愛情に応えられるのかと自問自答をすれば、答えは否である。デルウハの合理的主義が常に行き過ぎている部分を深く深く知っているからこそ、自分がその合理に撥ねられれば簡単にデルウハは手を離すだろう。たとえば崖に落ちかけている所が、デルウハが掴む手だけが頼りの状況に置かれたとしても、彼はいとも簡単に手を離すのだ。このままでは、いつ首が刎ねられるか分からない断頭台にいるようなものである。この緊張感を常に持ち合わせる度胸は、所には無い。
所はデルウハとの間に、そっと手を割り込ませた。そして緩やかに押す。デルウハの体はびくともしないかと予想したが、肩に置いた手を残して案外あっさりと離れた。だが怪訝な顔で所を見下ろしている。その翠の瞳に負けてはならぬと、所は奥歯を噛み締めてごくりと生唾を飲み込んで見上げる。所の身長は前世と同じくらいで、175cm前後である。対するデルウハは190cm程度だろう。本能的に巨大な個体との対峙には勇気が必要だ。
「あの、デルウハ殿」
「なんだ」
「お話があります」
「話?」
デルウハは怪訝な顔をするが、すぐに聞き入れるつもりがあるのか、椅子に座るよう促した。だが所は首を振り、その場で言葉を続ける。
「デルウハ殿。私は。その、私はデルウハ殿とお付き合いをするつもりはありません」
「何?」
「デルウハ殿とお付き合いは出来ません。それだけは、お伝えしようかと思っ…て」
所は、言葉を全て喋る前に息を呑んだ。デルウハの顔色が変わったからだ。先程までの愛情に満ちた手は、肩に置かれているものの力が入っている。所を傷付けぬようにはしているが、指先にまで力が巡り巡っているのが分かった。その力は憤怒であろうか。所はひっと上げかけた声を必死に飲み込んだ。デルウハは合理的な男である。怒りをむやみやたらと撒き散らす人間ではない。傍目には情緒が整い、むしろ安定した精神の持ち主だと評価される事さえある。他人の死を恐れないほどの合理主義でなければ、極めて付き合いの浅いのならば有益な人材であろう。そのデルウハの怒りが自分に向けられていると分かると、所は吐き出してしまいそうな恐怖を飲み込むのがやっとだった。
このままでは怒気だけで殺されてしまうのだろうか、デルウハならば所を始末するのは簡単であろう。ここはデルウハの宿泊先であり、密室である。何故人目のあるところでしなかったのか!? 所は己の判断力の無さを恨んだ。今言う事では無かった、もう少し機嫌を取るべきだったと後先にも役に立たぬ後悔が波のように押し寄せる。ここで人生が終わってしまうのだと思ったが、肩に置かれたデルウハの手は所の首ではなく、所を壁に押し付けたのだった。壁紙がごりごりと頭皮に当たる。ああこの前もそうだったと所が恐怖感からのんびりとした思考に意識を飛ばしていると、デルウハが喋り出した。
「誰の差し金だ?」
所はぞぞぞ、と背筋を這うものを感じた。
数時間前の大学にて、所は聴講を終えたデルウハが帰ったのを見計らい、逃げるように教室を出てすぐに、友人に別れを告げて人気のない場所に向かった。デルウハに怯えて逃げ込んだスペースである。だが幸いにも大学の端にある場所は、学生や関係者でなければ分からないであろうほど奥にあり、いつ置かれたのか分からない古いベンチがあるだけである。そこで安全を確認すると、所は安心して本を開いた。図書館で借りた本である。古い小説である。初版であった。古書特有のにおいがするが、この小説が好きなので何度も繰り返し借りていた。何かに迷った時には学術書ではなくこういった小説からヒントを得た前世の癖を思い出すのだ。気持ちを落ち着けたい時は、いつもこの場所でお気に入りの本を読む。友人にも教えていない密かな楽しみだが、そこで所に声を掛ける者がいた。
「あ、しげ君だ」
「春君」
春と呼ばれた青年が、純真に笑いながら所のいるベンチに駆け寄って来る。同い年であるが、少々その動作は幼かった。その顔は吉永春にそっくりである。所は最初、この青年を見て大層驚いたが、彼は何も知らぬ他人の空似のようで、前世の記憶などはさっぱり無いようだ。それでいいと所は思った。あまりいい記憶でもないだろうから。それよりも純粋で、少々幼い印象があるこの青年にまっすぐ育ってもらいたいと、老婆心のような見守る気持ちと、少々の吉永への贖罪の気持ちで接している友人の一人である。だが学部が違い、この本を読むスペースで主に出会う友人だ。
「いつもの?」
「そう」
「好きだね、しげ君は」
そう言ってベンチの隣に腰掛けずに後ろから覗いてくる春に、所は面白いよとだけ言う。
「何度読んでもいいものはいいよ」
「変わってるね」
「そうかなあ」
春は天真爛漫というのか、幼い挙動は可愛がられやすいが同時に妬まれもしやすい。悪目立ちするようである。だが人の悪意には特に反応もせず流すので、少々の奇人と同学年からは見られていた。大学にも入り、人を妬んでいる場合ではないだろうと所は思う。だがほんの一部の幼児性の残るグループは、春を気に食わないとしているようだがそれも本人は馬耳東風である。そんな春は、所にわりと懐いていた。前述のように所は春に、吉永の面影を少し重ねているし、奇行を起こしても保護者のように宥めたり窘める役割だったから、所を見つければちょこちょこついて回っていた。
「なんか悩んでる?」
春は率直である。隣に座ったかと思うと、唐突に所の心を見透かした。所はぎくりとする。心が読めるとかつて吉永は言った。それを完全に信用し、あるいは研究対象にならなかった過去があるが、勘が鋭いのは彼の特徴なのだろうか。吉永が記憶を取り戻したら、もう春との付き合いは無くなってしまう。それが嫌だと所は勝手ながら思っている。この友人関係でたったひとつの歪な点だった。だが春はそんなことを知らず、所の顔を見透かすように覗き込んでくる。
「なんか悩んでる」
今度は言い切った。所はため息を吐くと、全てを打ち明けはしないが…少々怖い相手がいて、その人に迫られていると簡潔に話をしたのだ。春はふうんと興味が無いような相槌を打つと、少し考え込み始めた。気の無い相槌の後、熟考するのが彼の癖なのだ。これが分かっていないと無礼だと怒る人間もいるが、癖なので仕方ない。所が待っていると、春は首を傾げてさも当然のように言った。
「断ったら?」
「へ? あ、そうか…」
断る、そうか断るのかと所は思った。デルウハの誘いを断る。デルウハを断る…なんだか言葉として繰り返すだけでも末恐ろしいものがあるが、それは随分と正しい事であった。春はあまりにも当然の事を言っている。
「怖いならやめちゃおうよ。しげ君は嫌なんでしょ」
「あ…そうか。そうだね。それって、嫌なのか」
嫌だったのか。自分の考えなのに、デルウハへの恐怖でかく乱されて自身の気持ちなど分からなかった。デルウハと対峙して、その感情を持ったままでまともな思考であったかと言われれば、離れてようやく正常な思考に戻った気がする。認知の歪みが起きていたと知る。所は春に礼を言った。
「嫌だったかも…ちゃんと断るよ」
「そうだよ、じゃーしげ君はお昼おごって」
「なんでそうなるの?」
「パフェでもいいよ?」
他人の問題解決を促したからか、単純に腹をすかせたのか春は目を輝かせている。その純真な目に所は弱いのだ。分かったよと了承し、二人は連れ立って食堂に向かうのだった。
差し金と言われれば、春が認知を正してくれたということだろう。だが所は友人が、それも吉永に似た友人ですと馬鹿正直に答えることなど出来なかった。デルウハからすれば、どこぞの誰かが所の認知を正したせいで断られる事態に陥ったのだ。怒りはそちらに向いて当然で、幸いにも所には向いていなかった。だが所は、その怒りは全て自分に向けられているのだと勘違いし、恐怖に顔を歪ませる。
「親か、友人か」
「ち、違います。自分で考えて…ッ!」
「嘘だな。住所は単身用のアパートだった、あんたは一人暮らしだろ。親じゃない。友人か、それとも教師か?」
「違います…違いますから…」
春の存在をデルウハに知らすつもりは無いし、差し出すつもりはない。デルウハに差し出したら、春がどうなるか分からない! その一心で所はぶんぶんと首を振る。
「で、デルウハ殿の思いは分かりました…でも私は、その、貴方にこれ以上無闇に抱かれるのは」
「あんたは俺のもんだ。それは変わらん」
「か、勝手に決められましても…!」
所は必死にデルウハに抵抗していた。だがデルウハは一歩も引かないでいる。盤石な岩のように所が押しても全くびくともしない。それほどまでに所への思いが盤石という事か。かえって所は困惑する。そんな素振りをデルウハは今まで一度も見せなかったのに、何故今ごろになって執着を? 同性に生まれ変わってただ年齢差があるというだけで…若いというだけで。所がデルウハの胸板を押した。だが今度は鋼のような肉体はびくとも動かない。もう軍人じゃないのに、どうしてそんな鍛えたのだろう。所が絶望していると、今度はデルウハの手が所の顎を掴んだ。あっさりと捕まってしまい、頭を振ろうにもびくとも動かない。その顔に向かってデルウハの顔が近付き、口付ける。乱暴なものだった。口を口で覆うように、デルウハは無理矢理舌を差し込んで制圧する。驚いた歯が舌を噛み切らぬ時点で、所の負け戦である。奥へ逃げ込んだ舌は捕まらなかったが、デルウハを追い出す手段も無かった。仕方なく所の舌が定位置に戻れば、激しく絡め取られる。唾液が絡む味がした。
所は流されぬように必死であったが、デルウハの方が一枚上手であるのは変わらない。しかしキスだけで力が抜ける事はないので、所はデルウハの腕を掴んで必死に手を抑え込もうとした。デルウハの腕一本を制圧したところで、このキスを辞めさせることは出来ない。些細な抵抗であっても、所は必死にデルウハの腕を掴もうとする。その抵抗を可愛らしいと捉えるか、反抗心だと捉えるかはデルウハ次第だ。舌を絡め終えて解放してくれたデルウハは、反抗心と捉えた。それは所の思うままの事態である。どうやら興ざめしたのか、デルウハは分かったとだけ呟いて、所に腕を掴ませたままだ。
「時間が無いんだよ、俺には」
「二か月後には、帰国されるからですか…?」
「それまでにあんたは手に入れる。必ずだ」
まるで狩猟かゲームか何かであろう言い方だ。
「…人の心は、そうやって手に入れられるようなものではありませんよ」
「じゃあどうすればいい? あんたは従順だった。今まではな」
「それこそ、デルウハ殿のお得意なところでしょう…洗脳でも説得でも…」
そう口にする所の心が離れているのは、デルウハには分かっている。並大抵の凡庸な言葉を並べても、半ば脅すように無理に抱いた過去は変わらない。セックストリガー現象は適用されなかったのだ。だから真っ正直に、こういう時には正直さが必要なのだ。デルウハから見て、どうして自分を選んだのかを所は不思議に思っているし、その疑問が解消されない限りこれ以上の言葉は響かないであろう。だから真っ正直に、所にぶつける他は無い。
「…あんたの顔が好みだった。若けりゃ抱いてた。それだけだ。なのに」
「若返って、蘇って、好みの顔が目の前にあったら抱くだろう」
「え、それだけですか?」
「それ以外に何がある」
所はあまりにも単純な理論に、かえってきょとんとしていた。恐怖に駆られて忘れていたが、そういえば前世のデルウハは単純な行動原理であった事を思い出す。彼は食べるために生きていた。三食腹を満たすために、生きていた。行動原理とはかえって単純なもので、所への好意も、かえって単純すぎたのだ。勝手に所が不明な点を探すのに、恐怖で足をもつれさせていただけだ。所はぽかんとしたのち、掴んでいたデルウハの腕をそっと離した。
「分かりました。疑問は解消されましたが…まだ私は、自分の気持ちが分かりません」
「…」
「もう少し待ってくださいませんか」
「明日だ。ここに同じ時間。だらだら時間を掛けても結論は出ない」
「うう…分かりました」
もはやデルウハとは雇用関係にはなく、人間としての貴賎もなく対等な立場である。年齢差はあるものの、所はデルウハに完全に従う必要はないのに、デルウハの言う事にはどうしても従ってしまう。これが認知の歪みであるのなら、デルウハと完全に離れてその影響下にいない場所で所は結論を出さねばならない。だが東京は狭い街である。もはやデルウハに家の住所も知られていながら、所は完全にデルウハの影響を断ち切ることが出来るのだろうか。それは明日までという猶予を付けているけれど、デルウハは自身に有利な事になるだろうと確証を持っていた。そのため、デルウハは所のパーカーのフードを引っ張り、露わになった首と背の境目に軽く噛み付く。骨の無い肉と皮膚に、口が食い込んだ。思い切り吸い込む音と痛みに、所は呻く。
「い…!?」
「”拒否”なら明日までにこの鬱血は消してこい。”了承”ならそのままだ。蒸しタオルでも使えよ、消えるからな」
「わか、りました」
所は服を直した。デルウハはもう一度顔を近付けると、頬にすっと軽く、小さく口付ける。やわらかい口付けだった。今までの乱暴なものとは違う丁重なものだ。ぞくりとした快感に肩を竦めると、デルウハは所を真っすぐに見つめる。
「いい返事を待ってる」
「…考えさせてください。それでは、失礼します」
所はそれだけ言うと、礼儀正しく礼をして部屋を出て行った。部屋に残されたデルウハは、誰だ入れ知恵した奴はと苛立ちを空中にぶつけるが、所が戻って来る確信を持ちながら明日を待つことにした。今日抱けると思っていただけに、自身の息子を慰めなければならないだろう。こういう時は食事に運動に限る。まだ九時だ。デルウハはルームサービスに電話を掛けるのだった。