「あの時幾つだった」
若い男に聞くのには、幾分か不思議な質問であっただろう。人通りの多い繁華街で、消え入ることなく聞こえるデルウハの質問に、所は首を傾げながらも答える。
「私は還暦前でしたかね」
「還暦?」
「六十です。六十前ですね」
傍目では、繁華街にいる所は二十代前半にしか見えない。年齢について齟齬があるものの、所は事も無げに当たり前のように答える。
「デルウハ殿の二倍ほどは年を取っていたでしょうね」
「そうか。まあその位だとは思っていたが」
「ははは、あの時より今は快適ですよ。若さとはすばらしい」
「あの時、二十年若ければあんたを抱いてた」
所は思わずデルウハの顔を見やる。デルウハは四十を迎えたと聞いたが、その体の張りは衰えずに、首も太く身も厚みがあった。肌も衰えていない。二十代の所は心底驚いたような顔をして、デルウハを見やった。
ここは長野県にあるさる研究所ではない、日本の首都の東京である。イペリットと呼ばれる外宇宙からの使者は現れていない日本である。幸運にも逃れているのか、ここはイペリットが襲来する前の過去であろう。あるいは別世界。同じ日本でありながらも存在するパラレルワールドか。デルウハと所は、研究所で死んだはずであった。その意識があるままに、彼らは生まれ変わって今この地にいる。広い世界であるのに偶然にも出会えた二人は、日本の繁華街で飲みに向かい、その帰りであった。唐突な告白に、所は目を白黒させる。
彼は今還暦を手前とした年齢ではなく、二十代前半の日本国籍の大学生という肩書だ。生まれ変わった機会に差があるのか、デルウハは四十である。スイス国籍にて生まれ落ち、来日したところを偶然東京の街で所を見つけたようだ。偶然と僥倖に意気投合し、飲んだ後にこの告白である。
「へ?」
「なんだ、問題あるのか?」
「あ、いえ…意外でしたので」
「飲み直す時間あるか」
デルウハの提案に、所は頷く。自由な身とは言うが、幸いにもここ最近はアルバイトを入れていない。探そうと思っている状態で、学業に注力しているのが実情だが、生来の酒好きが祟って酒を飲み歩くのが好きな学生ではあった。両親に迷惑を掛けている自覚はあるが、せっかくの自由であるから満喫している。
「じゃあコンビニでも行きましょうか」
「いや、ドラッグストアにしよう」
デルウハとの会話はエスペラント語である。デルウハも母国語はあるようだが、慣れたエスペラント語を駆使する二人は日本社会においては目立っていたが、人目を気にせずに二人は歩き出す。ドラッグストアは少し歩けば見つかるだろう。じゃあ行きましょうと所が先導するのに、デルウハも黙って付いて行く。日本人の平均身長も伸びているが、デルウハの恰幅の良さは目立った。所は何故か少しだけ誇らしい気分で歩き出す。ドラッグストアはすぐに見つかった。
デルウハの宿泊先は有名なホテルであった。見上げると眩いまでの照明に、豪勢な玄関にはタクシーとドアボーイが控えている。所にはなかなか縁のない場所である。目を輝かせながらデルウハの後を付いて行くと、フロントでルームキーを受け取ると階を聞いた所は先にエレベーターに向かう。フロントは唐突な若い男の登場に笑顔を崩さないが、少々訝しがりながらデルウハに尋ねて来た。
「ご友人ですか?」
「ええ。古い知り合いの息子でして」
ああ、とフロントはほっとしたような顔を見せる。若い娼婦や男娼を連れ込まれてはホテル側としては困るのだろう、その事情は分かっているから、デルウハは極めて愛想良くにこにことしながらフロントを後にした。心証は良くて損する事は無いのだ。そこにエレベーターホールにいる所の声が響く。
「デルウハ殿ー!」
エレベーターが来たと言うので、デルウハは少し駆け足になった。二人の様子に、もうフロントは気にも留めていない。来日して友人に会うような光景はよくあるものだ。微笑ましいとばかりに見送り、エレベーターが稼働する音が聞こえる。
「すごいホテルですね。私は泊まったことが無いですよ」
「見た所、あんたは苦学生じゃないだろう」
「でも中流家庭ですよ。こんなところ、夢です」
若者らしい視点で所は興奮している様を見ながら、デルウハは自分の荷物を抱え直した。クラッチバック一つに、ドラッグストアで買った何かの袋ががさがさと揺れる。所はその中身に特に気に留めていなかった。デルウハが自分の為に必要な物を買ったのではないか、というのが彼の推論だ。その推論は部屋に入った際に、打ち砕かれることになる。
デルウハの部屋はダブルベッドだった。体格を考えればせん無きことである。磨かれた洗面所に広めのバスタブ、清潔を保つトイレ。クローゼットを開くのもわくわくとして開いていると、その好奇心は科学者らしいとデルウハは所を放っておいた。その隙にテーブルに置かれた飲み物を選別し、がさがさと袋を流しながらテーブルを缶で埋め尽くしていった。
「日本は酒が買いやすくて助かる」
「そうですね。基準はおそらく緩い方でしょう」
一通り見て回った所は満足したようにして、デルウハのいるテーブルに戻って来る。その時、自分の買った飲み物を選別しているデルウハの手元が見えた。どうやらデルウハは缶ではないものを買ったらしい。つまみだろうかという考えが頭をよぎったが、それにしては無機質な文字が見えてなんだか首を傾げてしまう。
「何を買われたんですか? デルウハ殿」
「これか」
そう言って所に投げるように手渡した物は、浣腸だった。
「腸内洗浄して来い」
そう言うデルウハは、昔に研究所でよく見た、貴重な物をねだる時のような笑顔だった。所は顔を引きつらせながら反論する。
「よく日本語分かりましたね。じゃなくて、あの、嫌ですが…?」
「他にも何種類か買ってある。全部試してこい」
「は…い? いや、嫌です…」
唐突な話である。所には寝耳に水だ。だがデルウハはあくまで笑顔を崩さなかったが、要望が受け入れられないと分かると真顔に切り替わった。そして壁際に追いつめる。対格差があるので、いとも簡単に所はデルウハと壁の間に挟まれてしまった。
「なんで断る。俺の言う事はよく聞いてくれただろう?」
「あ、の、でも今はしがない大学生で…その、世界は平和です…デルウハ殿に恩義を感じる場所ではないので…っ…」
「へえ。地獄で礼も言わせてくれなかった不義理があるのにな」
「それは、それはデルウハ殿の勝手と言いますか…」
ひ、と息を漏らすものの所は果敢にもデルウハに抵抗している。悪魔はあくまで笑みと真顔を繰り返し、所を支配下に置こうとしていた。所の顎を軽く掴んで持ち上げると、デルウハは笑顔を見せる。
「どうしても?」
「え、あの、まったく意図が分からなくて不気味なのですが…」
「抱く準備だよ」
「えぁ、え、えっ?! 再会を喜んで下さるのではないのですか…!?」
所はあくまで己が不利な時でも、デルウハに対しては敬語を崩さない。そういう人間なのだとデルウハもよく分かっている。
「さっき言ったろうが。二十年前なら抱いてたって」
「あ、あれ口説き文句になります…?!」
所はようやく合点がいったらしい。だがそれでも、デルウハに追いつめられていたとしても、了承は出来なかった。逃げられるかどうかをつい目線で玄関を確かめる。その目線の延長線上に、デルウハの掌底が壁を衝いた。
「逃げる気か?」
両手を使えないデルウハであれば、逃げ出すのは可能だ。だが所はその時点で力が抜けてしまった。ずるずると壁紙にもたれかかると、頭皮にごりごりと壁紙が引っかかるのが分かる。悪魔と契約した者は、その魂の髄までしゃぶられ尽くすと言われるが、まさか生まれ変わった先でもしゃぶられることになるとは……。今度は肉体を狙われているが、もともと過去には精神を、根本的な恐怖と畏怖と敬意と情をかっさらっていったデルウハに、所は逆らう由も強い精神力も無かった。項垂れ、絞り出すように言う。
「わ、か、りました。…それ貸して下さい」
「ああ、いい子だ」
デルウハの手が頭を撫でてくる。汗もひいて冷たくなった頭皮に、デルウハの温かくつめたい指の感触がひどく覚えてしまいそうだ。そのまま口付けられる。唇を食むだけの軽いものだったが、デルウハは短いキスに満足したように顔を離した。だが一方の所は、顔を真っ赤にして目から涙がこぼれんばかりである。その表情は悔しさを示していた。不可解な現象に、今度はデルウハは笑顔で頬を撫でてやることにする。
「どうした?」
「…この人生で、初めてでしたのに…」
「ああ。意外と感傷的なんだな。心配するな、これから腫れるくらいはしてやるから」
そう言いながら抱き寄せようとしてくる悪魔だったものに、所はわずかに身をよじらせた。だがすぐに無駄な抵抗だと分かると腕の中で力を抜いて大人しくなるのだった。