所長なら奥の部屋にいらっしゃいます。そう案内されたデルウハは研究所の奥、私室と思われる人気のない場所に足を踏み入れた。
「所長、ちょっといいか」
そう声を掛けて、壁いっぱいの棚いっぱいを埋め尽くす研究資料の林の中で、巨大な培養器を前にしている所長を見つける。デルウハが更に足を踏み込んだ。だがふと培養器の中にいる物が視界に入ると、デルウハの足は本能的な忌避でぴたりと床に貼りついて、止まってしまう。デルウハの顔は理解が及ばないとばかりに歪んでいた。新種のイペリットを見上げたかのような、そんな種の顔である。
「ああ、デルウハ殿」
「…なんだそれは」
所長が手を置いている培養器の中には、女がいた。といっても顔は無い。頭が無い。そして手は肘から下が無く、足はふとももから下が無い。ただ美しいすらりとした女体は揃っている。顔と手足は不要とされた人権の無い生き物だ。女の裸を見るのは久しぶりだが、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケ像の欠ける事で得られる美しさとはまた違った…あの躍動のある想像の余波のある美しさとは違う、生命への冒涜を感じる。女は何も言えず、抵抗も出来ず、ただ短い手足で生きているだけに過ぎない。深く考えると頭が痛くなりそうな人間もどきである。それにデルウハが怪訝な顔をしているのを、きょとんとしながら所長は答えた。
「デルウハ殿のお好みの女性を作り上げようかと思いまして…」
「余計な事をするな」
「え? でもデルウハ殿が仰ってたので…射精したら殺していい女性をと」
言った。だが本意ではない。所長に相手をさせるための方便であった。
性欲の処理はどうしても人間に付いて回る課題である。デルウハとて例外なく、頼んだのは娼婦でも研究員を差し出す事でもなく所長に相手を求める事だった。妊娠もない、縋りつきも勘違いもしない。肉体が衰えていようと丸ごと愛す訳では無いのだから、問題は無い。そうして契約関係は継続していたはずだが、所長は新たな動きを見せている。
「それで作ったのか?」
「ああ、いえ、まだプロトタイプです。研究所内でも一時的に必要となった事もありますので…強姦対策に」
つまり生きたダッチワイフ? いやそれよりも雄牛の精液を採取する擬雌台に似ている不気味さだ。その乳房だと性器だけが目立つ女体に、男どもは無様に射精していたのか? それで収まる? そんな生きてるとも言えない代物で…。
デルウハは考えれば考えるほど心が遠のくのを感じた。いくら何でも蹂躙していい場所と悪い場所がある。デルウハにそう言わしめるのだから、この研究所も大概であろう。正直に言うのならば、デルウハはこの生きた雌は不要だと考えた。
「要らん…」
「え、ああ、そうですか」
残念そうに所長は言う。だが珍しく食い下がってきた。
「乳房の大きさも選べますし、お好みの体型に変える事も…あ、頭をすげ替えて好きな顔にすることも出来ますので。それでも…?」
余計にデルウハの心が遠のいていく。その嫌悪が表情に出ていたのだろう、所長はそれ以上の追究を諦めた。
「あ、お嫌ですか…」
「嫌だが。それでなんで俺が食いつくかと思ったんだ」
「そうですか、残念です」
所長は残念そうに培養器を見つめる。その顔は女体に何の感情も抱いている様には見えなかった。ただ生み出した子供を見る顔である。ふられてしまったね、と優しい言葉を掛ける顔は穏やかだ。改めて培養器に入った体を見やると、まだ少女の体のようにも見える。もしかして、これから成長するのかと考えると、デルウハはぞっとした。研究所の倫理観を問うのは今更であるが、それにしてもだ。所長が穏やかな顔でいることも、それがまかり通っていた過去も。
「それはどうなるんだ」
「ああ、分解して肥料になります」
肥料…深く考えると口にするものに巡り巡って来るようで、デルウハはぐるぐる巡る思考を意図的にシャットダウンした。考えてはならない。
「しかし残念です。デルウハ殿のお好みの女性が作れましたのに」
「なんであんたはそんなこだわるんだ。…負担が掛かるからか」
所長が振り返った。ふるふると首を振る。
「負担はありますが、そこまでお気になさらず」
「嘘だな。そうじゃなきゃここまで作らんだろう」
「ははは…それは…そうですね。残念ながら私は女ではないので」
所長がそう言いながら、培養器から顔を離す。そうしてデルウハに向き直ると、首を傾げた。
「そう言えば、何か御用でも?」
「ああ。忘れるとこだった」
研究所の倫理観によって、大事な用件を頭から追いやるところであった。手短に所用を済ませると、所長は明朗快活に答えをくれる。
「それでは、明日にでも進捗を」
「分かった」
会話をしている横では培養器があるが、デルウハはそちらを見ないように話をしていた。デルウハなりに倫理観の欠如を目に入れたくなかったのだが、所長はその行動にきょとんとして何かに気付いたようである。
「デルウハ殿は、女性に興味が無い…ですとか」
「なんでそうなる」
「いえ、もしそうでしたら申し訳なかったなと」
「別に興味が無いわけじゃない。上に姉がいたから、女に幻想を抱くことはしなかったが」
「ああ、お姉さまが。そうなりますと、女性の扱いは慣れてらっしゃるでしょう」
「十分すぎるほどにな」
姉が三人いるのだ。女性に過度な期待も幻想も抱くことは無い。そのおかげで合理的な判断はいつだってデルウハの身を助け…あるいは悪魔の所業を延長させた。だから同性に走るという訳でもなかった。美醜は、皮をむいてしまえば筋肉の塊だ。そこに何の差も見当たらない。同性だろうが異性だろうが、己に縋りつき執着を見せなければ問題ないのだ。
「それなら、やはりこちらを完成させても…」
「それは要らんと言ってるだろう」
デルウハの顔が怖くなったので、所長はひっと声を漏らした。いつもの事だ。彼は顔に出るし言葉に出る。適度な恐怖感はデルウハへの畏怖を助長させ、適度な主従関係を持続させる。所長の従順さはここで培われるのだ。失礼しました、と所長が謝罪をするのを受け流した。
「デルウハ殿の好みを知られる、良い機会と思ったのですが…」
「好みね」
「でも、美醜は一皮むけば同じですからね。一皮むけば、皆同じ筋肉の塊です」
所長は何気なく呟いた。その目は培養器を見つめている。デルウハはその視線を、自分にぐいと押し戻すために所長の顎を掴むと、体を引き寄せた。所長は目を白黒させている。
「デルウハ殿?」
「今日空けといてくれ」
「ああ…はい」
所長はすこし項垂れる。準備が必要なのは所長の方なので、事前予告はありがたいのだが、一体何が彼の火を付けたのかは所長には分からなかった。