疲れが出たのね、とニーナ中尉は穏やかな口調で話した。スミスはそうですかとだけ返す。軍医の目から見て、イサミ・アオは健康体である。メディカルチェックも問題なく、カウンセリングが必要な精神状態ではないと記録されている。だから海上ボクシングなど無茶が出来たのであろうが、イサミはルルに蹴られて落水した後に深く深く眠っていた。当初は落水のショックでは、あるいは海面にしたたかに打ち付けたのではと仲間からの懸念は尽きなかったが、医師の目から見れば、頭や体に挫傷の跡もなくイサミが綺麗に着水したのが窺える。シミュレーションをした訳ではないが、頭から落ちたのかもしれない。だがすぐにブレイバーンの救出によって助け出されたので、大事には至らなかった。
「それにしても、無茶をし過ぎね。裂傷がこれだけ多いなんて…鼻骨が折れる心配もあったけど、それが無くてよかった。骨折は時間が掛かるもの」
ニーナは呆れたように言う。あと一週間ほどで日本上陸であるからだ。互いに言いたいことを言う為に興じたボクシングである。その必要性は分からぬが、医師から見て頬骨の骨折やひびなどがなくて幸いだった。本来ならもっと折れていてもおかしくはないが、そこはスミスとイサミの若い肉体故だろうか。血反吐を吐く事も想定していたのに、二人の体は細かな裂傷と脳震盪は何回か起こしているものの、顔は少々腫れあがる程度で無事だった。スミスの顔にも幾つもの湿布や絆創膏が貼られ、テーピングで固定されている。むしろ呆れたように診察するニーナの視線の方が鋭かったくらいだ。ボクシングを許可したサタケにも彼女の飛び火がいったらしい。その様子はスミスは知らないが、伝え聞いたところによるとニーナの仁王立ちに、サタケが頭を下げていたということだ。
ニーナは、海水に浸かったであろうイサミの張り替えた絆創膏を片付けている。
「痛かったと思うわ、傷口に海水は。でもその前に眠ったみたいね」
「眠った…?」
「ええ、気絶したという方が正しいかしら。あまり暴れた様子もなく着水して、痣が無かったから」
空母の高さは高層階のビルに相当する。その甲板から一気に落水したイサミが無事なのは、気絶で力を抜いていたからか。そのせいで溺れかけることになったのだが、一つが立てば一つが立たずだ。イサミはそれから引き上げられてからも眠り続けているらしい。スミスが見舞いに訪れた今も、目を閉じたまま眠っている。格好はボクサーパンツのみで、体には細かな裂傷。だが絆創膏を貼るほどではない、若い厚みのある肉体が医務室の片隅で眠っている。
「話しかけても眠ってるわ。海水も吐かせたから水が溜まっていることもないし、バイタルも安定している。心配は無いけど、何かあったら教えてくれる?」
気を遣ってくれたのだろうか、それとも忙しいのかニーナはそれだけ言うと、濡れた絆創膏を持ってどこかへ行った。カウンセリングなどで多忙なのだろう。スミスは礼を言ったが、彼女に聞こえていただろうかは怪しい。スミスも体は軋むように痛むが、それでも海に落ちていないので元気ではある。イサミのベッドの横に椅子を持って来て、座った。イサミは眠っている。
穏やかな、というよりも少々気が抜けたような口が少しだけ開いて、かたく目を閉じている。なんだかバーで会ったようなイサミの真顔が思い起こされたが、幾分か気が抜けたような顔は貴重な気がして、スミスは小さく笑った。ここ最近のイサミの顔と言えば、しかめっ面で視線が合えばすぐに逸らされるような状態だった。それがようやく軟化したと思えば、気が張りつめて身を固くするような状態になって…スミスはボクシングを決行したわけだ。そのどれらの顔とも合わない顔である。珍しい顔である。特殊な環境でのこれが寝顔なのだと決めつけるのは早いだろうが、イサミの寝顔はこれに似ているのだろうか。スミスは見ていいものかとふと疑念のような考えが頭をよぎった。他人の寝顔は少々プライベートな物だ、それを見てもいいのだろうかと何故かよぎった。だがイサミは同性である。雑魚寝も経験する中で他人の寝顔など不可避の生活を送っている中で、イサミだけが特別視であることはおかしいと思い直した。友好国の自衛官の寝顔を、見て悪いものではないだろう。だが見ていいものかという疑念が払しょくできず、その上でスミスは、何故かイサミから目を離せなかった。すう、すうと息が口から行き来する。イサミは穏やかな顔つきで、何も知らずに眠っている。穏やかに穏やかに、ヒーローは人間に戻ったようだった。
スミスはふと、イサミの顔に顔を近付けた。覗き込むように、ゆっくりと上から眺める。少しだけ切れたくちびるに気が付いて、スミスはぐんと顔を近付けた。ふっと息を自分が吐いたのが分かった。その吐息がイサミにかかったのが分かった。自分の肌にも吐息が返って来た。くちびるに、くちびるが重なる。吐息をまるで吸うように、ふっと触れあった。くちびるのほんの少し小高い山のようにとがった部分がある。そこが触れ合って、静かに静かに着地すると唇全体が触れ合った。歯のないところから漏れたイサミの吐息がスミスの歯の下に当たり、その口付けがまざまざとスミスに伝わった。
「……ああ」
何をしているんだと自身に問いかけ、スミスは思わず身を引いた。あのヒーローに、相棒に。イサミに。ただ何も無いはずなのにイサミの寝顔を見てはいけない気がした。何も無いはずなのに口付けをした。その思いに気付いてはならない。塩気のある口付けは、意識の無いイサミの了解を得られなかった暴力的なもの。この行為も、思いも、秘めなければならないものだ。スミスはイサミの口を指で拭おうとして、それが出来なかった。だから胸に秘めたまま、スミスはふらりと医務室を後にする。この思いがいつか淫蕩に見抜かれるのだが、まだここは空母の上である。スミスは潮風に当たると、大きな息を吐いて、飲み込んだ。