吐くべき息が肺の下に溜まったら、それは水になって人間は溺れるらしい。吐き出そうとする息を押し込めて、押し込めて押し込めた。息は本能的なものだ。理性がその本能を押さえる言葉を次々と考えて、息に重しを付けた。特段サタケの肺には、言葉がたくさん必要だった。年齢を考えろ、国境を超えられるものか、同性の向こうに何が残る。重しをつけられた息は肺の下で痛みを伴いながらのたうち回って、呼気ではなく水になった。それなのに押し込めた水は、まだ肺を登る事を夢想している。噎せながら、この口の外に飛び出す事を望んでいる。たまに、理性が利かなくなる事があった。プラムマンと二人きりの時には、肺の水が登ってきて何もしていないのに噎せる。それを心配そうに見つめるそのグレーの瞳を見かえすと、たまに日本で見るスカイグレーの空から君を想起していた、なんて夢想的な言葉も飛び出しそうになる。
それは本能の言葉である。押し込めた言葉はいつの間にかどろどろに溶けるだけでなく、その変態と共に脳にも登ってきて言語野の一部をいつの間にか支配していた。恋心という訳の分からないものが、自身の中でウイルスよろしく暴れ回っているのだ。サタケの年齢をもってしても、その暴走を止める事は出来なかった。年齢と経験則で抑えられるものじゃない。弱まっていくと思われた性欲の下火が、今更焼け木杭に付いて燃え盛るとは思わないじゃないか。
「サタケ二佐、お休みになった方が」
「ああ、すまない。大丈夫、噎せただけさ。年だろうな」
「貴方は煙草をやらないでしょう。まだ弱まるのは早い」
「昔から噎せやすいんだ」
理性が場を取り繕うために嘘を吐いた。プラムマンは所用を済ませるためにタブレットを取り出すと、てきぱきと説明を始める。サタケはその説明を頭に入れることに集中しているうちに、タブレットの画面にふっと指が触れた。プラムマンの指が傍にあって、その指と指が触れ合った。その瞬間に、水が喉を駆け上った。噎せ込みそうになる。それよりも切迫した言葉が、胸から飛び出しそうだった。
あ。言う。
そう思うが早いか、サタケは咄嗟に両手で口を押さえると、舌を押さえるように指を口の中に突っ込んだ! 指を噛み締め、舌よりも歯に集中したのは幸いで、噎せたのだと隠した手がそう思わせることに成功した。プラムマンに奇行と思われても良かった。サタケが思わぬところで告白でもするよりもマシである。耐えろ、この水はいつか蒸発する。それどころではないと耐え忍べ、言葉なんて感情なんて飲み干してしまえ。戦地で愛を育んでいる場合ではない、ここは未曽有の大戦争だぞ!
だから余計に、言いたくなるんじゃないか。
ぴちゃんとサタケの肺の水に、どこからか垂れた雫が落ちた。流せなかった涙が、何故か人体の法則を無視し、押し込めた恋情に呼応してぴちゃりぴちゃりと肺の水に落ちる。涙を送り込んだ本能はそう言った。死ぬかもしれないのに、何故言わない?と。お前は死ぬかもしれないんだぞ。その時、大声で好きだと叫んでも遅いのだ。そう言われてしまえば、ぽかりと自分の体に穴が空いた気がする。長いこと押し込めたこの恋情は、水になる過程でまさかの成就すら妄想していたようだ。抱き締められたい。愛されたい。認められたい。弱音を言いたい。愛してほしい、愛してほしい。自分だけを見つめる瞳が欲しい。溢れる思いは、もう自分では抑えられない怪異のようなものに育った。これを昔の人間が疳の虫など虫に喩えたり、己に悪魔が巣食ったと逃げられる宗教だったら良かったのに。
プラムマンの心配そうな顔は迫真に満ちていた。サタケの両肩を掴むと、大丈夫かと必死に問いかけて来る。答えられないでいると、右から抱えるように抱え上げ、ベッドにまで連れて行ってくれた。ここで告白を無惨にしたって、彼はここで抱いてくれない。プラムマンにその気が無い事を、サタケは知っているからだ。彼は本国にいる妻子を深く愛している。
だから彼がサタケに優しいのは、面倒見の良さだ。サタケは寝台に座ると口に入っていた指を出すと、げほごほと噎せた。その背を、プラムマンが撫でてくれた。ごつごつとした大きな手である。頼りがいのある熱い手だ。その背に触れられて、本能はうっとりとして急に静かになってしまった。妄想に勝る現実は無い。だから大きな息を吐き、サタケはようやく深呼吸が出来た。
「最近具合が悪いのでは?」
「…ごめん。君には隠せなかったな。こんな指揮官は、手がかかるだろう」
「体調管理はどうしようもない部分も発生します。体質もある。それよりもこの正解のない戦場です。体調を崩しても致し方ないでしょう」
どこまでも優しく合理的な判断である。病人を責めても病気が治る訳では無い。サタケの状態は未病といえる、手前の段階の病状だ。だからプラムマンは自然に治るものか、あるいは軍医の手が必要か見極める必要があると考えている。こういった見極めは他人の方が正確だったりする。ふと、プラムマンはある予測を口にした。
「私がいると貴方は必ず噎せますな。それも二人の時に…」
図星である。肺の水がまた登ってこようとしている。水の勢いに任せて、言葉を放出させるために。だがサタケは理性的な言葉を呟いた。
「気のせいだよ。一人の時もそうなんだ」
「では、軍医殿に診ていただいてください」
「そうだな。そうすることにするよ」
合理的な会話に、サタケの嘘が功を奏して噎せる事へのプラムマンへの興味関心は、一人でも起きているサタケの異変として認識され、自分が深く関わっていないのだとなればプラムマンからはこの未病は責任感も興味も薄れていくことだろう。他に考える事が大量にある身分である。プラムマンの手を補佐官だからという特権で、煩わせたくないと言うのがサタケの理性的な感覚だ。本能は、彼を求めていたしかないと言うのに。
いいんだ。これで、いいんだ。サタケは自身を落ち着かせるために心の中で呟く。彼の補佐はこれからも続いてく。この戦争が終わるまでは必ず。それだけでいいんだ。理性が許した恋情の言葉は、たった一つだ。このままでいいんだ、と。
貴方が横にいるだけで幸せだ、どうか、どうか俺がどこかに押し込めた恋情など気付かないでください。
サタケの切なる願いで、今日もプラムマンに何も伝えることなく所用を澄ますと、彼は部屋を立ち去っていく。残されたサタケは、果たして、壊れたのだろうか。吐くべき息は今日も肺の下で水になって、機を窺ってはプラムマンへ愛の告白をしようとしてくる。この思いが許されないのなら、どうかお願いします。誰でもいいから罰してくれ。叶わぬ恋に身を焦がした罰として、地獄の業火に焼かれるようなこの苦しみを裁いてくれ。サタケは一人になると噎せが収まった。それが答えで、軍医に診てもらっても診断も下りないだろう。じゃあこれは何の病なんだ。どうか特効薬をくれ、このテクノロジーが発達された世に取り残された恋心なんて、だれか何とかしておくれ。この思いが人間の身を超えるのなら、きっと誰かが裁いてくれるんだろうか、そんな妄想じみた事を思う。今はプラムマンが触ってくれた背中に自分の指が触れ、消え失せるぬくもりをなんとか楽しむだけである。もし肺に水が溜まり切ったら、きっと私は人魚にでもなるんだろうか。
それも妄想であった。目の前のプラムマンの問題に直面するより、その方が楽だからだ。サタケはジャケットのままベッドに飛び込んだ。そこで自身を慰めるように、体の残る痕跡を探すように。とっくに体は本能的に支配されていて、プラムマンの残り香を求めている。ああ苦しい。苦しい。達成感も何も無いのに、サタケはただその行為を止められなかった。とっくに自分は人間ではないのかもしれなかった。