ある春の終わり掛け、学年が上がったばかりの二年生が一人、午後の短い放課に三年生の教室を訪ねていた。
「シャンシャン先輩!」
「その声は…って呼び方も一人しかいねぇよな、道貴じゃん。どうした?」
シャンシャン先輩と呼ばれた彼、丹波燐は駆け寄ってきた道貴に声をかける。焦ったように動くふわふわした髪と愛くるしい水色の瞳は、かっこいいと言われるのを目指す道貴には悪いが、ひとつひとつの行動に可愛らしさというものが滲み出ていてとても二年生とは思えない。
視線の下から必然的に上目遣いになるそんな可愛い後輩に先輩心が燻る。こんな模範的な"可愛い後輩"からのお願いなら誰だって聞きたくなるというものだろう。快く了承する、はずだった。
「はぁ!?明日新入生の教室に一緒に行ってほしいだぁ!?」
一番、アカペラ部の中でそのおねだりには向かない性だというのに。
比較的早めに終礼が終わった燐は道貴を二年の教室まで迎えに行った。部活がない日でも雨夜や壱とよく帰るが、今日は用事があると掃除だった二人を置いて急いで来ていたのだった。ただ道貴と帰るだけだけどな、なんて対して悪く思っている訳ではないけれど。
まだ学校が終わったばかりで生徒の少ない、日の暮れかけた住宅街を歩きながら話す。
「本当に俺で良かったのかよ?」
「あ、実は長放課に声掛けに行ってて…雨夜先輩とか、壱先輩が良かったんですけど」
「悪かったな!強面で!」
「あっ!?いやそういうわけじゃ…!」
ちょうど雨夜先輩が委員会、壱先輩が行方不明になってて!と道貴が慌てて弁明する。全くフォローになっていなかったが、燐の思考は壱の行方不明という聞き慣れたパワーワードに気を取られて気づかなかった。
何はともあれ、道貴がそこまで探していたのには教師からのアドバイスがあったからだという。「新しく出来た後輩のために先輩との繋がり作ってあげなよ!」とお節介迷惑極まりない一言に真面目に答えようと頑張っていたのだと。
「しっかし、そんなのまだ学校にも慣れてない新入生が先輩なんて構ってられないだろ…。そいつ誰?山川?」
「いや、教頭先生に言われちゃって断れなくて…」
「あ〜教頭か。確かにそういうことしてたわ、全然俺らの学年で聞いてるやついなかったけど」
「え!?」
無視して良かったんですか!?なんて俺らの安否を気にして強張る道貴の顔を見る。相変わらず童顔で分かりやすい表情に思わず笑みが溢れた。
「大丈夫だろ。誰も何もされてねぇしな」
あからさまに顔を緩めると、不意に難しい顔をして燐の方から顔を逸らした。道貴は何も言わない。駅にあと数分で着くというのに会話が途切れてしまう。燐は、少しずつ駅に近づくにつれて増えていく雑踏に少し気まずく感じた。
横断歩道の前で横から聞こえてくる障害者用の無機質な誘導音に足を止める。ぽつり、道貴が呟いた。
「…ごめんなさい。始めにそうやって聞けば良かったですね。ボク、真に受けて巻き込んじゃって…」
「お、おう?別に道貴は悪いことしてないしな?そんな謝ることじゃねぇよ。てか怒ってねぇから!」
そうは言っても気を遣わせてしまったので…、なんてしゅんと項垂れる耳やら尻尾やらが見える。そんなに気にしてたのか、なんて思わず道貴の頭をくしゃりと乱した。
「シャンシャン先輩…!?」
突然の出来事に困惑する後輩に何か小動物を愛でている気分になる。散々ふわふわの髪をくしゃくしゃにすると、燐は一歩後ろの顔を覗き込んで笑った。
「道貴、別に俺に謙遜?っつうか何つうか…そんなに気を遣わなくて良い!俺が気にするタチでもないこと知ってるだろ?」
信号が青に変わる。
先に進んだ燐の後ろ姿を見て道貴は言われた一言づつを噛み締める。
燐には憧れを持っていた。壱とも雨夜とも違う憧れの種類に、特別な感情を持っていたことにも間違えはなかった。かっこよくて、自信を持っていて、道貴にだけの"特別"をくれて。
だから、迷惑をかけたくなかった。教頭に紹介を、と言われた時に自慢のアカペラ部の先輩たちが一番に浮かんで声を掛けに行ったことに後悔はなかったけれど、燐を紹介することには抵抗を感じた。そんな自分が身勝手で、応じてくれたのにその必要がないと知ってホッとした自分に嫌気がさして。
でもその不安を除いてくれたのはやっぱり燐で。
「…はい!」
自分から一歩引いていた足を隣に戻す。学校を出た時の憂いた気持ちは無くなっていたことに、やっぱりシャンシャン先輩を後輩に紹介したくない、なんて思いを再度実感した。