警察からのお知らせとは、大変に心を削るものがある。その知らせを受けたスミスは、たまたま在宅であった。記事を纏めるために取材内容を整理していたのだ。イサミはフルリスト・サタケが繁忙期だからと連日退勤時間は伸びているため、まだ帰ってこない。警察からの知らせは愛娘のルルの事だった。当然と言えば当然だろう、イサミがトラブルに巻き込まれる可能性よりもルルの方が高い。学校を出てから自由に歩きまわるルルが、何かやらかしたのか。知らぬ番号の電話は出ないことにしているので、検索してみて血の気が引いた。今は電話番号を改ざんする技術があるからとスミスは一旦自分を落ち着かせる。イサミがいない。スミスにとっては日本は憧れの地で暮らしたい土地であったが、あくまで異国の地である。緊急事態に、異国で頼れる者が近くにいないとなると不安感は増す。納税もしてるし定期的に居住権も定住権も獲得しているのに、国家権力と対峙した時にはその自信ががらがらと崩れ去る気がした。ええいままよと折り返してみる。
「もしもし…」
「××警察署の生活安全課です」
「あ、あの。着信がありましたんですが」
「折り返しありがとうございます。お調べしますのでお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「ルイス・スミス…です」
「ありがとうございます。ただいまお調べします」
保留音にすら生唾が出る。何があった、何が起きた? 詐欺だとかではなくその興味の方が先立って、早くしてくれと焦れる。だが思ったよりも早く保留は切れた。
「××署の生活安全課××と申します」
落ち着いた男性の声である。スミスはそれでも生唾を飲み込んだ。
「あの、電話は…」
「申し訳ございません。お嬢さんがけがをされて」
「ルルが!?」
思わず声が上ずった。電話の向こうは慣れているのか、スミスにも冷静に応対する。
「お嬢さんは今の所無事です。ただ実は、お嬢さんは傷害事件の被害者でして、保護者である親御さんにご連絡を」
「傷害事件!?」
「落ち着かれてください。大丈夫です、あまり信じやすいとね、似たような詐欺もありますから。落ち着いて」
警察はどこまでも冷静である。そうだ、詐欺事件もある。この電話が正しいとは限らない。妙に冷静になり、ルルにチャットを送ると、今警察署と出た。
「ルルは何の傷害事件を…!? 逮捕ですか? ルルは今年、受験生なのですが…!?」
「落ち着かれてくださいお父さん。娘さんは被害者です、加害者は別にいますから」
「あ、ああ! そうでしたか」
つい心配が度を超えてしまったので、会話内容を詳しく聞いていなかったようだ。だが警察はよくある事なのか淡々としている。
「そこで事情聴取などが必要ですが、保護者の方にお迎えに来ていただいて。その方がお子さんも安心されるでしょうから」
「すぐ行きます!」
「…お父さん。今回は正真正銘の事件ですが、今後は詐欺に引っかからないように」
警察に苦言を呈されてしまった。だが慌てていてスミスはそれどころではなかったようである。わたわたとジャケットを着込み、イサミにチャットを打とうとして…そこで理性が働いてくれた。ここでスミスが慌てて警察だのルルがそこにいるだのと打ったら、かえってイサミは心配するだろう。混乱を愛情と想像力が上回り、押しとどめた。スミスはひとまず警察署に着いてからルルの事を伝えようと思いなおし、そのままスマホを握りしめたまま玄関を出ようとして…鍵を持っていくのを忘れたのでもう一度戻った。イサミに対しては冷静だが、やはりルルの事で平静ではないらしい。言われたとおりにスミスが警察署に辿り着くと、駆けたので息が切れた。受付に駆け込み、生活安全課を教えてもらうと待合室のような場所にルルがちょこんと夕焼けの中を座っている。その頬にはガーゼが貼られていた。
「あ、スミス!」
「ルル! …はぁよかったー。心配したんだぞ! なんか急に警察から連絡来るから!」
「だってルルのスマホ、充電もうない」
「充電器借りたらどうだ?」
「そんな余裕なかったー。あのね、心配かけてごめん。でもルル、ヒーローだから」
そう言って誇らしげにする娘の横にちょこんと座り、スミスは大きなため息を吐く。本当に詐欺ではなさそうだ。地域の警察署であるし、この建物自体がドッキリ番組のような大掛かりなセットでなければ…いやセットなどではない。しっかりとした建造物で、地に足が着いている。ただそこでふわふわしているのはスミスだけだ。ルルの向こうに、一人の女性が座っているのに気が付いた。少々ほうれい線が沈んでいるが、美人である。どこか儚げで頼りない感じがある。ルルのいる所に夕日が差し込んでいるが、隣の席には何も差し込んでおらず暗がりだ。余計にそう見えるのだろう。スミスと同年代というよりも、少し上であるのは間違いない。スミスと目が合うと、彼女は力なく会釈してきた。スミスも会釈する。
「ルル。いったい何があったんだ。ちゃんと説明してくれ」
「その点は、私から説明差し上げます」
顔を上げると生活安全課の××だと電話口での男性がそこに立っていた。スーツ姿の中年の男性である。分厚い眼鏡をしているが、その眼光は鋭い。何もしていないのにスミスは思わず生唾を飲んだ。別室に連れられ、概要を話すと言う。ドラマで見るような広い別室かと思ったが、生活安全課の手前に置かれた応接室のような場所だった。電話が鳴り、警察の人間が忙しなく行き来し、かえって緊張感がある。どきどきと心臓を高鳴らせて聞いた概要はこうだ。
ルルが下校の帰り道であった。何の問題も無く、いつもの特撮同好会の帰り道。受験生だからいいんでしょうかと心配そうなクラシナとユザワの懸念をはねのけて、意外と長く学校にいる事になった。同好会は新入生を募って3人程増えている。だが特別どこかの教室を使うわけではないので、ルルの教室かユザワの教室かクラシナの教室で流転していた。だがそれもまた楽しい移動である。グループチャットで今日の報告をするか、移動教室で出会えたら口伝えで今日はどこを使う!と伝えていた。その公開された楽しさが噂を呼び、なんだか学校で一番楽しそうな部活であると全校生徒には周知されている。アンケートを取り、ランキングを作ったのなら上位になるだろう。そんな特撮同好会の後、るんるんとした足取りで帰っているとつい人の声が聞こえた。帰り道を少し外れた公園の方向である。それが会話や笑い声だったのなら、気にしなかっただろう。だが聞こえてきたのは怒鳴り声だった。それも子供の声である。子供の怒鳴り声だ。その中に聞き覚えのある声が耳を拾ったので、ルルは聞き耳を立てたと言う。
それは同級生のタツジの声だった。幼稚園の時から一緒に進学しており、まあ昔からルルをいじめてきた男の子である。それが好意から来るものだと昨年、学校にテロが襲撃したどさくさで知る。イサミの口からスミスにはそれも伝えられていたので、いじめっ子でルルを好きな相手が?とスミスは自然と眉をひそめる。だがルルはタツジの告白を断ったと聞いている。だが同級生で顔馴染みだから、ルルは気に掛かったのだと言う。
「別にタツジは好きじゃないから。意地悪するやつは論外」
そう聞いて安堵してしまうのは、スミスが親として未熟だからか、あるいは同性だからか。自身に苦笑しつつ、スミスは続きを促した。
「それで、タツジ君の声がしてどうしたんだ」
「見に行ったの。なんか、ただ事じゃなかったから」
「そこで被害者が、お嬢さんの同級生の男の子がですね。加害者に絡まれていたそうです。公園にて、所謂恫喝を」
「どうかつ…すみません、なかなか日本語が難しくて」
「いえ、脅しておどす。まあ簡単に言えば、怖がらせて金銭を巻き上げたりすることです」
「ああ、なるほど!」
警察官はどこまでも淡々としていた。スミスのありがとうございます、という満面の笑みにも特に反応しない。思わず間が持たなくなって、ははと苦笑するとスミスはルルを見やった。
「そんな場所に近付いたのか?」
「うん。まあ、困ってたから」
「困ってたって…相手は中学生を脅すようなやつだろ? 怖かったんじゃないか。だから怪我も」
「もーそれはいいって。イサミにもうまく言ってよね。イサミうるさいから」
「…それで、加害者が暴行を加えたようです。被害者の同級生にも今事情を聴いてます。通報はお嬢さんがしてくれまして」
「ルル、通報しながら近付いてった!」
ふふんと得意げである。ルルはスマホをスピーカーにして会話をしながら近付いていったらしい。そうしたら、驚いて離れるかもしれないと思ったのだが、加害者はそうした時ルルに逆上したらしいのだ。そこで拳を振り上げたのを避けようとし、飛び退いたのに向こうはずんずんと近付いて来たという。加害者の攻撃性は、話を聞くだけでも十分に感じられた。スミスにとっては、あまり関わる事のない考え方である。攻撃を避けられたら更に攻撃する。交渉も会話も意味を成さない相手なのだろう。
「加害者の手がルルさんの頬に当たったとのことで、その時に出来た傷のようです。そのやり取りは通報いただいた先で聞こえてましたので、我々もすぐ駆けつけました」
「大事じゃないか、痛かったろう!?」
大仰に心配するスミスに、ルルはぶんぶんと首を振る。
「わりと。その時は必死だったし」
「その後我々が駆けつけたのですが、加害者は既に逃亡していまして。特徴などをお嬢さんから聞き出していたところなんです」
「なるほど、それで…それで、犯人は捕まったんですか?」
「いえ。実はその主な被害者の男の子が、通報に怒ってしまったらしく…加害者の特徴や事件のあらましを聞いても、だんまりで」
警察官はそこでようやくため息を吐く。ようやく見せた人間らしいところは、進まぬ捜査への苛立ちだろうか。
「ルル、まちがってないもん」
「お嬢さんは間違ってないよ。スミスさんの対応は、…ちょっと無謀かな。身長も高い男だったらしいんです」
「じゃあ猶更突っ込んでいくのは危ないじゃないか。そういう場合は、警察に通報して様子を見て」
「だってスミス言ってたじゃん。勇気を持てって。力じゃない勇気を」
「そうだけどぉ! それは無謀と紙一重かな…! 相手はルルよりも背も高くて、攻撃性も強いんだ。そこに突っ込むのは勇気というか、幾ら空手やっててもルルは初心者だし!」
「ああ、空手やってらっしゃるんですか。どうりで身のこなしがいいと」
「ほんと?!」
突然警官がほめたのでルルは喜んで立ち上がった。その頭を押し込むようにスミスは娘を座らせると、いいからと説教を始めようとする。その空気を感じ取り、ルルが頬を膨らませたのを見ながら警官は息を吐いた。
「聞き取りは完了しました。お嬢さんのお話はもう大丈夫です。お迎えも来たことですし、お帰りいただいて大丈夫ですよ」
「本当ですか! じゃあ、すぐに帰ろう。病院に行かないと」
「ご協力ありがとうございました。…はあ、やれやれ。被害者が喋ってくれればいいんですけど、今の所お嬢さんの証言だけが頼りなんですよ」
「ごっついピアス、鼻にも耳にも付いてた。耳とげとげでさ、そんで高校生くらいなの」
「報復は大丈夫だと思うのですが、何かあったらいけませんので、暫く送り迎えはお父さんでお願いします」
「あ、はい。分かりました」
そう言って警官に促され、二人は別室から出る。そこでスミスはスマホを見やり、イサミに簡素なメッセージを送った。内容は分かったし事情も事情だ。あとは夜間病院で診断書を取って、被害届を出す手はずを整えて…色々あったので、被害届の提出方法に慣れたのがちょっと悲しい。スミスがルルを連れて出ようとすると、タツジの母親が待ち構えていた。面食らう。
「申し訳ございませんでした…!」
「え、え? えっとタツジ君のお母さんで…」
「たぶん」
面食らった二人が話していると、目に涙を浮かべて母親は言う。
「こんなに迷惑を掛けて、恫喝もされるなんて…お父さまになんて言えば」
「ああ、いえ。大丈夫です。こちらこそ、ルルが……なんというか」
「へそを曲げて、今何も話さないみたいなんです。私も困り果ててまして…」
「あいつ、変なところあるからなあ」
ルルが思わずつぶやく。好意の是非はおいておいて、幼稚園からの付き合いである。幼稚園児でよくルルに泣かされてた子が、もう中学三年生なんだなあと今更ながらスミスは時の流れを感じた。やんちゃなルルはいつもタツジの嫌がらせにめげることなくやり返していたので、しょっちゅうスミスは謝ろうと試みたが、タツジの母親はそういえば謝罪を受け入れてくれなかった気がする。というより、保育園に来ていなかった気がする。唐突に思い出したスミスははっとして母親の顔を見た。違う、もしかしたら祖母じゃないか。そう思うと女性はハンカチで涙を拭った。
「私、祖母なんです」
「ああ、すみません。お若いのでつい…」
「いえ。あの子の父親は忙しくて…嫁も政財界に進出する時だって言うのに」
「政財界…」
思わぬ聞きなれない言葉に、急にスミスは目の前の祖母が何か意図を持ってその単語を口にしたのではないか、と思った。そう考えた途端、急に子供同士の付き合いから成人した者の社会的地位を争うような関係性に放り込まれた気がしたのだ。ルルは釣り合わないと暗に伝えているような、そんな居心地の悪さである。スミスが横目で窺うと、ルルがそれに気付いていないのが幸いだ。
「あの、それじゃあ俺達はこれで」
「ああ、引き留めてごめんなさいね。それでは失礼致します」
祖母に別れを告げ、そそくさとスミスは立ち去る事にした。ルルは不思議な顔をしていたが、構わない。あまり関わりたくない相手である。それよりも警察署の前に待ち構えていたイサミに雷を落とされ、それどころではなくなった。内容が薄すぎる、他に心配するしか内容で送るな。心配したわ。そんな真っ当な意見を聞きながら、スミスは平謝りするのだった。
結局その日は病院に行き、ルルの診断書を取ったものの犯人が捕まったとはとんと聞かなかった。大事を取って三日ほど休んだルルは元気に登校していくし、イサミは心配そうであったが繁忙期には敵わず、スミスに送り迎えを頼んで早出していく。色々起こる時は、同時に起こるものだ。スミスがルルを中学校に送っていくと、何故か校庭が騒がしかった。教師が走って来るのが見える。三年生の校舎の前で、机がひっくり返っていた。本来なら校舎の中、教室にあるはずの机が、頭からひっくり返って地面に埋まっていた。無惨である。
「うわ」
スミスが思わず声を漏らすと、ルルが呆然としながらその場から動かなかった。友達と買ってこっそりと貼ったシールが、特撮の戦隊がデフォルメされた可愛らしいデザインが、潰れた机の裏側に貼ってあったのだ。それを見て、ルルは自分の机だと知った。だから呆然とし、スミスに話しかけられても動かない。その行動でスミスは察した。なんとなく、机の裏にあのシールがあることから、もしかしたらルルかその近しい関係ではないかと。ルルが動いたのは、タツジがいそいそと教室に逃げ込んだのを見てからだ。まるで弾かれるように飛び出した娘に声を掛けるも、ルルは振り返らずに校舎を駆け上がる。タツジとは別クラスだが、顔は忘れようもない。ヒワダと同じクラスであるので、彼女が驚いた顔をしたのを見て確信に変わる。
「タツジ!」
振り返ったその顔に食ってかかると、ルルは机を直すだとか忘れて彼の襟をつかむ。
「あんたどういうつもり!? ルルの机飛ばすなんて!」
「ちがう、ちがう! 俺じゃない!」
「じゃあ誰がするのよ」
「俺じゃない! 俺じゃないって!」
「スミスさん!」
カイガ先生の声が後ろから聞こえる。ルルはタツジの言う事にそもそも耳を傾けていなかったが、大人の声に急にはっとしたように周囲を見渡す。とにかく皆驚いていた。朝来たらルルの机が校舎から放り出されていたのに驚いたのに、そこで被害者のルルがタツジに食って掛かった。もしかしてタツジが犯人なのではないか。その疑念が三年生の中に沁み通るのには時間はかからなかったのである。
「ルルちゃん、巻き込まれるのはよくないよ」
当たり前の事を友達のフイタが言う。ルルは口を尖らせた。
「ルル悪くないもん」
「テロの時も、ヒワダさん逃がしたりしたけど今度はタツジくんが疑われてるし…」
「だって、あいつ以外に考えられないんだもん」
ルルは不貞腐れる。フイタとミオワは今年度も同じクラスになれたのだが、体育の時間で声をひそめて話し合っている。教室で語ると、漏れ聞こえる言葉からタツジの悪者説が加速する気がしたのだ。フイタとミオワは、事の顛末をルルから聞いている。だがルルの言動だけじゃ分からないと言うのが二人のスタンスだ。ルルの味方であるも、立場は中立らしい。
「でも、もし別の人だったらまずいよ」
ミオワが言う。ルルは頬を膨らませた。
「むー、ミオちんもフーちゃんもなんでぇ?」
「だって、タツジ君そんな度胸ないでしょ。取り巻きは確かにいるけどさーそんなルルちゃんの机ひっくり返すなんて…」
ルルは体育座りのままジャージに顔を埋める。確かに違った場合は問題だ、現在はタツジは実質的な犯人として針の筵にされている。タツジは議員の息子だとかで、昔から家柄を鼻に掛けるいけ好かない性格だった。まあ中学生になり多少落ち着いたのと、公立に通っているという事はそこまで甘やかされて育っているわけではなさそうだが、それでも端々に出るいけ好かなさを面白がる者もいたが、あえて避けられるところもあって、そこが今回浮き彫りにされたという感じである。ルルはわりと人気者だから、余計にタツジの孤立は目に見えたものがあった。だからフイタもミオワもルルの肩ばかりを持たなかったのかもしれない。ルルはむすっと唇を尖らせる。だが友達に反論できるほどの材料もなく、ただ俯くだけだった。
事態が進展したのはその三日後の事である。スミスが警察に問い合わせても、一週間近く経ってもまだ犯人は捕まらないと言うのだ。タツジがずっとぼやかしていたのかもしれないとスミスは思った。だがすぐに考えを改める。それではまるで犯人を庇っているかのようでもあるし、何のメリットもない。タツジがそこまで意固地になってルルの通報を快く思わなかったとしても、殴られ蹴られた相手がいるのだから、警察に何も言わないと言うのは考えられない。そう常識的に思っていたのだ。だが、犯人が中学校に乗り込んで来るまでは。
「三年生のルル・スミスとか言う女ァ! 出てこい」
白昼堂々と現れた犯人は、全身に穴を空けてピアスを差し込み、そのうち耳からはチェーンで繋がっていた。髪はビビッド色に染められ、目は瞳孔が開いているようで明らかに異常事態である。昼休みを楽しんでいた校庭にいた子供たちは逃げ去り、校舎に叫んだ男にただ一人、ルルだけが顔を窓から出した。フイタが止めようとするが後の祭りだった。男はにやりと笑う。高校生くらいの若い男だ。だが道を外れているようでもある。ファッションが好きでそうしている、とは思い難い佇まいだ。
「てめぇだぁ。懐かしいなあ、一週間ぶりでさあ。降りてこい」
男は木製のバットを手にしていた。明らかに野球としての使い道ではない、凶器として手にしている。ルルが真っ先に校庭に出たので、男は満足したように笑った。
「ああその面田だァ…てめえよくも通報しやがったな。おかげでやりにくくなったじゃねぇか、ああぁ?」
「…なんの話」
「まあいいや。今はてめえをぶん殴ったら帰ってやるよ。大人しくしてろよ、そのすました顔に今度こそ拳入れてやっからな」
バットで肩を叩きながらも男は挑発的にそう言い、ルルに近付いてくる。その様子にルルは動かなかった。下手に動くともしかしたら校庭にいる他の学生が狙われるのではと考えて、動けなかったのだ。そのうちに男の手が届く距離になり、ルルは小さく後ずさりをする。だがもう目の前だ。ぶん殴ろうと男が拳を振り上げた。咄嗟にルルは目の前に飛び込もうかと考えていると、彼女を庇うように誰かが間に割って入って来たのだ。
「え」
タツジである。殴られた彼が吹っ飛んで来てルルにぶつかり、そのまま地面に倒れ伏した。そのしている間に暴力を纏った男はにやにやしながら近付いてくる。
「ああ? なんだよマジなのかよ」
「…もういいだろう。俺を痛めつけたいんだから、こいつは関係ない…」
「そうだよ。俺は好きでこう言う事やってんだよ。でもなあ、邪魔した奴は問題外なんだよ」
「机、放り投げたのもアンタだろ」
タツジの言葉にルルがはっとして男を見る。男はうんうんと大仰に頷いた。
「あれは予告だァ…結局送り迎えも律儀に男がいやがるしな、手が出せなかったが、今は違う」
勘違いだった、という事が分かってもルルの窮地は変わらない。タツジは倒れたままでひざ下は彼の重みで動かないし、男はもう一度殴りかかろうと迫って来る。バットを片手にして。これが力だ。暴力である。勇気を伴わないただの力である。ひるみそうになったが、ルルはきっと男を睨みつけた。勇気である。勇気を奮い起こして、抵抗の意思を見せたのだ。その目が気に食わないのか、男が眉をひそめたところで警察とさすまたを持った教師が到着してくれた。間に合ったのだ。パトカーに連行された男を見ながら、ルルはほっと大きな息を吐く。そうしてタツジに言った。
「ごめん。あと、重い。どいて」
「あ、ああ悪い」
後で判明した話だが、男の素性は、タツジの母親が政治家の敵役である者の秘書の息子だと言う。昔は政治家同士で関係は良好で、良い遊び相手だったらしい。だがいつの間にか男は道を外れてしまったと、タツジは少し寂しげに言ったのをルルは黙って聞いていた。
「ふうん。いけ好かない中にも歴史あり、なんだ」
「なんだよそれ」
「じゃあタツジを痛めつければ、タツジのママは出馬をやめるかもとかそういう脅しの類って事? ドラマでしか見たことない」
「実際にやる奴はいないだろうな。俺も、まさかそうなるなんて」
タツジはいつもの高圧的な感じではなく、一人の少年としてぽつぽつと喋る。彼が纏う鎧は寂しさの表れなのかもしれなかった。ルルは急に罪悪感を覚えて呟く。
「ねえ。好きには絶対なんないけど、友達くらいならなってもいいよ」
「え、本当に?!」
「答えんの早っ」
ルルは噴き出した。なんだかんだと言っても幼稚園からの付き合いである。このまま互いに喧嘩したようないがみ合った状態で終わるのは勿体ない気がしたのだ。ようやく素の少年らしさを目にしたからか。ルルが手を差し出して、握手する。とんだ顛末であるが、小さな友情が芽生えた15歳の初夏の事だった。
「またルルが心配かけるような事してる…」
イサミは呆れるよりも、もはや心配し過ぎてかえって心は内向きになっていた。心配する己が悪いかのように思えたからだ。ルルとスミスは慌ててイサミをフォローしようとする。
「で、でもでも警察来て無事だったし!」
「そう、そうだよ。一応仲直りもしたし」
「あーそう。ま、いいよ。俺は部外者だからな。勝手にやっててくれ」
「イサミ、拗ねない!」
ルルが叫ぶが、これは拗ねている。ルルとスミスは家族としての法的関係にあるが、イサミには何の法的拘束力はない。ただスミスの恋人というだけである。だからルルとスミスが結託する分には、法的には問題がない。ただイサミとの九年の間に培われた家族としての絆を無視して暮らすと言うのは二人には出来なかった。イサミにも出来ない。だから拗ねているのだ。イサミの機嫌はスミスに任せることにして、その場はなんとか取り繕った。だがイサミが風呂に入っている間、ルルが一番風呂に入ってスミスが順番を待つ間に、ルルはスミスの肩をつつく。
「あのさあ、スミス…」
「言わないでくれルル。俺も分かってる」
「あのさあ…」
スミスは呆れたような娘の視線を一身に受けながら、考えてるからと何の根拠もないような単語を並べた。ルルの目が鋭くなる。だがこれ以上は言っても無駄だろうと判断し、自分の部屋に戻っていく。残されたスミスはリビングで大きなため息を吐いた。そうだ。決戦の時は近い。これはスミスに与えられた決戦である。ルルとはいえ手出しは無用なのだ。はあ、とスミスはもう一度ため息を吐くのだった。