「私が砂糖菓子でしたら溶けてますね」
 カワダがごちる。男が全身鏡の前に立つことはそうない。まあ自衛官であるから、肉体を確認するのに見たことはあるが女性ほどではないだろう。着替えの際に、体に赤いものが付いていると気付いたから、上裸になって鏡を見た。そうして確認したのは、カワダの身に付いた歯形であった。肩の横、背にも散らばっている様に見える。だから出た不満である。歯型を付けただろうキングはその後ろで朝のコーヒーを淹れていた。カワダにも私室はあるが、そこに全身鏡は置かなかったので、前の住人の忘れ物であるものをありがたく使わせて貰っている。だからわざわざキングに見せつけるようにカワダは言ったのだ。指で届く範囲の傷跡をなぞりながら、外傷を慈しむように。コーヒーを淹れ終わったキングは、カワダに近付くと背後から抱き締めた。昨夜の性交渉の流れで付いた傷である。キングは傷をつけた張本人だが、それでも慈しむようにカワダが届かない部分を指でなぞる。
 「君が砂糖菓子なら、とっくに舐めて消え去っていただろう」
 「こんな噛み跡をたくさんつけて…」
 「誰かに見られるわけでもないのだし」
 「見られたらどうするんです」
 そう言いながら着替えを再開したカワダの顎を掴むように、キングの手がするりと入り込んで顔の自由を奪った。だがキングに向かってカワダは鋭い目線を向けるだけだ。
 「まだ物足りないので?」
 「コーヒーが冷めるくらいには」
 「ダメです。10:30にはミツさんと約束があるので」
 カワダの手がキングの手を押しのけ、つれない態度で全身鏡の前から去ってしまう。さっと着替えを済ませ、熱いコーヒーを飲んで目を本格的に覚ましている。カワダは少々寝起きが悪い。現役自衛官だった時は矯正したのだろうが、退役した今はなんだか自由を満喫するかのように眠気に負けそうな顔をしていることがある。染みついた早起きの習慣は消え失せないが、覚醒しないのは体質だからどうしようもない。飲み干すと、カップを置いてカワダはキッチンに向かった。
 「コーヒーありがとうございます。貴方は、10時に猟友会の皆さんと会合でしょう」
 「麻雀をやるらしいから、すぐに帰るよ」
 「私は、ミツさんとは積もる話がありますので」
 「イサオ、当てつけは良くないな。私の行動も浅慮だが、拗ねる姿はみっともない」
 「どうとでも思われていいです、貴方には。昼食はカレーをご用意してます。夕食は、この前貴方が獲った鹿肉ステーキです」
 ATFで一緒になった時は有能な男だったが、共に暮らしてみて更に有能さが際立っている。日々のスケジュールを把握し、調整し、栄養バランスや食費まで考えている。考える事が嫌いではないと言っていたが、ここまで完璧だとは。自身で出来る事は多々あるのだが、カワダが先回りして行動してしまうので甘えている。だから反論もしづらいのだ。
 「それでは、私は掃除と洗濯を済ませてから出掛けますので」
 それだけ言うとカワダはさっさと洗濯物を取りに向かった。やれやれとキングはため息を吐いた。別に劣情に振り回さなければ生きていけない程飢えてはいないが、今後は噛むのを控えなければならない。この年齢になって生まれる激しい劣情に、自分でも驚くのだがそれを受け入れてくれる存在がいてこそだ。機嫌を取るのに、今晩チェスにでも誘ってみようかと考えた。だがとりあえず、今は自分のコーヒーを飲んで片付けてから出掛けよう。猟友会の集まりは義務ではないが、田舎に暮らすうえでは集まりは重要である。キングも狩猟免許を持っている為、無視はできない。ATFの解散後、ブレイバーンの出現はあまりにもキングの立場を危うくした。むしろ針の筵だったのを、なんとか乗り切っている間には殆ど記憶が無い中でカワダが耳元で囁いたのだ。一緒に逃げましょう、と。その言葉に奮い立ち、二人して退官したのち世界を暮らし歩いている。以前はヨーロッパの山にある一軒家に暮らしていたが、諸事情により日本に越してきたのだ。そのうえでコミュニティに繋がっていなければ悪目立ちする。
 「だいぶ慣れたかね?」
 「ええ。おかげさまで」
 繕い物をしながら、ミツという老婆は手元から目を離さずにぶっきらぼうに尋ねる。彼女は一人暮らしだ。カワダの目には、ミツ一人が着るには明らかに多い量の衣服や作業着が彼女の前にあった。その量を着るのかと尋ねると、村中の者が持ってくるのだと言う。ミツはこの村では数少ない女性で60歳代で、他に80歳、70歳代の女性が二人だけ。だから一番若い女性だからと、繕い物を持ってくるのだという。
 「それは、断れないのですか?」
 「断ったら生きていけませんよ。イサオさんも、あんま出来る事は言わんほうがいい。この先輩方は自分だけ楽して、女は仕えてりゃいいと思うんでね」
 「それは、あんまりでは」
 カワダが言うが、ミツは静かに首を振った。この村ではミツは偏屈と言われている。既婚歴はあるが離婚し、出戻ってきて長らく両親と暮らしていた。子供がいなかったのが拍車をかけ、石女だの影で叩かれているのをミツは知っている。そのくせ、彼らの息子や娘は盆正月に戻ってきたりしないのに、孫にもそっぽを向かれて帰ってこない者が多いのに、ミツを下に見ては安寧を得ている。そういう醜さが、ミツも心を閉ざす要因なのだろう。そのうえで、村を出て行っても帰る場所も無いのでここで朽ちるのだと彼女は言う。カワダと話している間にも、がらがらと勝手に引き戸を開けてミツさんいるかい、と村の男衆が入って来た。中にはカワダよりも年下の40代もいる。彼らは作業着を、無造作にミツの前に放り投げた。まるで女中のごとき扱いである。
 「ミツさんさ。悪いんだけど縫っといて」
 「じゃあ金置いてきな」
 「そりゃあないよ。だからミツさん、貰い手ないんだって親父が言っとるよ」
 何の悪気も無い言い方である。笑い方も立場が下の人間に言うようだ。ミツはそれ以上何の反論もせず、ただ引き寄せて同意を示した。
 「時間かかるよ。なんせ男連中はみんな持って来とるからね」
 「そんなの当たり前じゃないか。ミツさん暇だからね」
 じろりとミツが睨むが、おお怖いとだけ言って男衆は帰っていく。奥さんにしてもらえばいいのに、とカワダが思わず零すとミツが言い放った。
 「こんな不便なところ、嫁ぐ馬鹿はいないよ」
 「またそんな。手伝いますよ」
 「イサオさん、繕い物出来る?」
 「そこまで得意ってわけじゃないですが、アイロンも自分で掛けますし」
 「確かに、いつも服がぱりっとしてるものね。羨ましい、自立した男はこの村にいないから」
 そう言いながらミツは小さく笑ったようだった。でも自分が繕ってばれやしないかと言うと、ミツは自分だって得意じゃないんだと笑った。それにわざとそこまで丁寧にしていないとも。いいんだよ、その程度の関係性なんだからと彼女は達観しているようだ。カワダも針と糸を渡されたので、ほつれを探しにくるくると作業着を回し始めるのだった。
 「なんだ、分からんのかね」
 「すみません」
 日本語を喋るのには片言であるが、キングは理解は出来る。そして彼の年齢はこの村では若い方だと言われたので、基本的に敬語を使っていた。だが年長者の麻雀の誘いには、流石に断りを入れた。新参者が長老の誘いを断るなど言語道断だろうが、それでもキングにはこの日本の村社会は少し居心地が悪い。アメリカの片田舎もこんな感じであるが、男社会の中に独自のルールが制定されている。そのルールを誰かに教えるでもなく、ただ立ち振る舞いの中で戸惑っていると、それは正解不正解だと勝手に評定されて見世物のようにされる。その陰湿さを乗り越えれば迎え入れられるが、キングに敵うような体格の者がいないせいで、最初から見世物としても刺激は最低限だ。カワダから見ると、キングはそんなにいじられていないようだが、それにしてもルールを理解するのに戸惑ったものだ。味方がいなければ四面楚歌になるところである。幸いにも長老の一人が、この体格の良さを気に入ってくれて、それなりに庇ってはくれている。だから今日の麻雀をそもそも初めからやるつもりの会合からも、逃がしてくれた。小さく礼を言って田舎なのに十年以内に建てたという村民会館を出ると、キングは一目散に家に帰っていく。昼食の準備をするためにカレーをあたためてサラダを作っていると、何か果物か野菜かを持たされたカワダが帰って来た。ビニール袋に黄色の球体が見えている。カワダが驚いたような顔をしたが、キングが食事を作る事もあるのですぐに顔を戻す。
 「早かったですね」
 「ああ。君も食べるだろう」
 「ええ、いただきます」
 「イサオ」
 ミツに持たされたのは瓜だった。それを冷蔵庫に入れておこうとキングの横を通り抜けた時、キングに声を掛けられてカワダはそちらを向く。
 「どうしました」
 そう答えた瞬間、カワダの臀部から下に腕を差し込まれてキングに抱き上げられた。ちょ、と思わず声が漏れる。重くないのかと体の心配をしたが、抱えられた向こうにカレー鍋がぐつぐつと音を立てているのが見える。
 「焦げますよ」
 「まだいいだろう。昨夜はすまなかった。君に嫌われると、世界から光が失われた気がするんだ」
 「…大丈夫ですよ。嫌ったわけではありませんから」
 カレーがぐつぐつと音を立てている。ぼこぼこと泡立っていた。
 「だから焦げますって」
 「…君が許してくれるまでは、下ろしたくないな」
 「脅迫じゃないですか。分かりました、怒っていただけです。もう怒っていません」
 「それはよかった、焦げる前で」
 「もう…」
 下ろされたカワダはすぐにカレー鍋をかき混ぜる。焦げてはいないようだ。自分が丹精込めて作ったものが焦げるのは忍びないのである。大丈夫かと確認してから、カワダはキングを振り返った。
 「でも回数は減らしますからね」
 「…本当に?」
 「そうですよ、噛み癖が治るまでは禁止します」
 「善処するよ」
 平和になった世界で必要が無くなった軍人の逃避行で、世界に二人きりのような状態である。この中で互いに軋轢が生まれたのなら、息苦しいのだ。そんなことはカワダも分かっているが、不平不満を伝えるのは必要だろう。肩を優しく撫でられるのを感じながら、カワダはカレーをよそうのだった。 
 
 
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初公開日: 2024年08月11日
最終更新日: 2024年08月11日
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