一輪の薔薇。甘い囁きを耳へ。そんな手ほどきを思春期の時に馬鹿にしたが、成人してからその行動をスムーズに行う難しさを実感する。恥じらいも相手への遠慮も、その全てを乗り越えて祖母が好んで見た映画の俳優は美しい相手を口説いた。それが自分に置き換えると、こうも出来ないものか。血と硝煙の中でキスする方が易しいかもしれない。無理矢理にでも彼の顔をこちらに近付けて、いやそれもうまくいかないだろう。
スミスは自身の度胸の無さを恨んだ。だが土壇場にならなければ、ここまで真剣にならなければ自分と向き合うことは無く人生を終えた気がする。その点では、イサミ・アオに、イサミに深く感謝しなければならない。心を奪われたのは久しぶりの事だった。ヒーローへの真摯で純粋な欲望が、イサミという人間性を纏う事でかえって惹かれてしまう。これがイサミが完全無欠で、ルルとのモーテルの事件を無視して笑顔で接する太陽のような人であったのなら、ここまで惹かれなかったかもしれない。黒猫を思わせるようなもどかしさ。伝えられないもどかしさ。海水にまみれたイサミは、ルルには怒らなかったが保護者のスミスには鋭い視線を向けて来る。
「なんで逃げた…!」
「すまない。言い訳のしようもない」
「お前のせいで全身べたべただわ、落水者で迷惑かけるわ、ブレイサンダーの水流に巻き込まれて溺れ死にそうになるわ…!」
陸上自衛隊にて水上の訓練もある程度は受けているのだろうが、巨大な物質が落水すれば渦が出来る。沈みゆく船から離れるのはその水流に巻き込まれ、浮上出来ない可能性があるからだ。それを忘れたのか、急いだのかブレイバーンのせいで再度死にかける事態に陥ったイサミは、その怒りをスミスに向けた。塩水が傷口に染みて、じくじくと痛む。イサミに許されるのなら、汲んで来た海水をスミスにぶっかけてお前も苦しめとするぐらいか。だがここは空母の上である。その子供じみた行動も叶わない。おまけに落水したとの知らせを受けて、イサミと容疑者のルルと観察保護者のスミスはキングに呼び出しを食らい、髪が渇く間もなく状況説明を求められる。イサミをちらりとスミスは窺った。キングの問いとねぎらいには頷き、真摯に答えている。そこにスミスへの怒りは滲んでいないが、それは上官の前だからかもしれない。せっかく仲直りのような形になったのに、とスミスはため息を吐きたい気分だ。
「ルイス・スミス少尉」
「イエッサー!」
「少女の監視は難しいだろうが、落水者は肝が冷える。その点をきちんとルルに説明してくれ。今回は運が良かったが、死者が出ることもあると」
「はい! 必ず」
「かならず?」
真横にいるルルは、あまり罪の意識は湧かないのかきょとんとはしている。ただ彼女はイサミと戯れただけなのだ。それはキング達にも分かっている事である。だからこそ、死者が出ることもあるとしっかりと習って欲しいのも事実だった。ルルが果たして敵であるかどうかというよりも、天真爛漫な彼女の軍へ与える効果は、収容所の架空少女よりもはっきりとしたものがある。だから殺人をしてほしくない、というのが戦局に疲れたATFの本音である。スミスは襟を正す思いだ。
「ルル。あとで話がある」
「え、ええ~」
そういう話に敏感なところも最近身に着けてきた。段々とルルの情緒が育つのを感じている、そのうちに嘘を覚えて世界の裏側を覗き込めるような錯覚を得る事があるのだろうか。だがルルの問題もあるが、イサミとの関係性のほうが目下気に掛かる点であった。これで元に戻って欲しくない。キングへの報告を終え、スミスとルルとイサミは部屋を後にする。ルルはきゃっきゃと、廊下の先に走り出した。ああもうルル!とスミスが咄嗟に呼びかけるが、彼女はきゃーっと叫びながら走って行ってしまう。ともかく後を追い掛けねば、それよりも服を着たはいいがイサミはそういえば髪が渇かぬ状態である。支給品だろうか特定の香りがして、毛先が濡れて黄色人種らしい肌も潤っている。心なしか唇だって潤っていた。ああそうだよなシャワー上がりだもんなと、スミスは内心焦りながら己を納得させようとする。だが目はイサミから離せなかった。空母を歩きながら、普通に歩いているつもりだが、ぎこちなく、ロボットのようにかくかくと膝が曲がったのでイサミが怪訝そうに見やった。
「なんだよ」
「え? え? 別に何も」
「そんなわけあるか。歩き方変だぞ」
まさか傍目から見てそこまでとは思わず、スミスは思わず手を口元に当てた。それがイサミには不思議な行動に映ったのだろう。司令部からは既に距離があるが、誰に聞かれるか分からないのでイサミは声量を押さえながら話す。
「まだなんか言いたいことあるのか」
「ええ? えーと、えー…えー…とね」
「なんだよ、まだあるなら言え。ちゃんと、今度は聞くから」
「イサミ…」
イサミが伏し目がちにそう言ったので、スミスは感動した。イサミが自分との歩み寄りを検討してくれている。一輪の薔薇に甘い囁き。そんな場面を急に脳が思い出すが、今これを行うわけにはいかない。だが無関係ではないと、このロマンティックは無関係ではないと脳は主張している! スミスはううん、と咳払いした。
「イサミ。あのな? 俺は、俺はその」
「なんだ」
「んん……その。君の良きライバル、ってやつになれる…だろうか」
「は?」
イサミは不思議そうな顔をした。スミスは照れながらそう口にしているし、まさか間違いではないだろう。イサミの中の一輪の薔薇と甘い囁きががらがらと音を立てて崩れ去る。浮かれているのは俺だけか、とイサミは目の前のスミスの足を思いきり踏み付けた。
「いった! いた! 暴力は良くない!」
「うるさい!」
イサミはそれだけ吐き捨てると、スミスの前から去った。残されたスミスは、何故か祖父が見ていた大昔の白黒映画に出て来る、一輪の薔薇を思い出す。モノクロなのに美しい薔薇に、透明な水滴がふたつほど乗っていたのが、妙に今思い出した。
「なんか…俺間違ったのかな?」
間違ってはいなく、奇跡的に同じような洋画を思い出した二人である。だが残念ながらそれ以上の奇跡は続かなかったようだ。ロマンチックな結末には、まだ少々遠い二人である。