喜んでもらえるのが嬉しくてピアノを弾くのが楽しかった。好きなピアノを頑張って、上手く弾けたらみんなが喜んでくれて、そんな幸せな環境のせいで僕は世界は素敵なものなのだと勘違いしていた。今では愚かなことを考えていたものだと嘲笑いたくなるほどに。
僕に転機が訪れたのは大学生になってからだった。ありがたいことに特に両親の反対もなく、音大に進学し、思う存分ピアノを弾き、知識を身につける生活をしていた。そんなときに学内でピアニストの卵を探している人がいると噂が立った。どうやらテレビの企画でプロvs音大生をやるらしく、そのスカウトに来ていたらしい。その噂を聞いた時は自分には関係のない話だと思った。僕はただピアノを弾くのが好きなだけで、プロと張り合える実力はないからだ。けれどある日、教授に呼び出されてその話をされたときは驚いたことを覚えている。
「噂には聞いているかもしれんが、テレビ局の人間からピアノの才能がある学生を紹介してほしいと頼まれた。私としては君以外いないと思っている。この話、受けてみるか?」
驚きすぎてその場で返事をすることができなかったものの、面白そうだとも思ったし、家族の了解も得られたので、教授に承諾の意を伝えた。振り返ってみると、ここでこの話を受けなければ今でも楽しくピアノを弾けていたのかもしれない。そう後悔してしまうくらい、その後に起きた出来事は僕を変えてしまった。
プロデューサーから連絡を受け、番組の収録を行う。何もかもが初めてでワクワクしながら、そしてプロのピアニストと話せる、そのピアノを聴ける機会をもらえたことに僕はとても感動していた。職場体験みたいな気持ちで臨んだ収録は特にアクシデントもなく、無事終えることができたのだった。
その番組が放送されたのち、再度番組に出演しないかというオファーがあった。「君のピアノ演奏が好評だった」と言われてしまうと断れず、このときはまだ番組に出演することにネガティブなイメージを持っていなかったので、快諾した。しかし何度もテレビ出演する中で気付いたことは僕のピアノが評価されているのではなく、見た目のいい人間がそれなりにピアノを弾けること、だったのだ。それに気づいたときにはもう時既に遅しで、断るには骨を折るほどの出演予定とイベントが組まれている状態だった。そんな中で僕ができた唯一のことは、ただこなすことだけだった。別に上手なピアノ演奏が求められているわけではない。ただ「イケメンすぎる音大生」がピアノを弾けばそれでいい。そう考えて日々を乗り越えてきたら、いつの間にか音楽にもピアノにも興味がなくなっていた。
そんなある日、人を避けてテレビ局内を歩いていたら、誰かの話し声が聞こえてきた。踵を返そうとしたところで自分の名前が呼ばれて思わず足を止める。
「うん、やっぱり昔から天羽成のピアノは好きじゃないわ。……うん、……うん。分かった、じゃあ」
電話が切れる。アンチなんてテレビに出るようになってからたくさん現れた。僕は案外そういったものには耐性があったようであまり悩むことはなかったけれど、虫の居所が悪かったのだろう。電話を終えた彼に向かっていった。
「昔からだなんて、随分熱烈なことを言ってくれますね」
「……天羽成」
あくまでもにこやかに、怒気を一切隠して彼に近づく。当の本人はさすがに気まずそうだったけれど、逆上されても逃げられてもどうでもいい僕にとっては彼がどう反応するかは見ものだった。
「今も昔も主体性のないあんたのピアノが嫌いだよ」
「え?」
今度は僕が面食らう番だった。てっきり怒るか変に取り繕うかしてくるものだと思ったから、真っ正面から意見を言われるのは想定外だ。
「さっきから、なんだか僕をよく知ってくれてるみたいですね」
「子供の頃に、お前は覚えちゃいないような地元の小さなコンクールで優勝したお前と、そのコンクールにすら出れなかった仲だからな」
ふざけて言っているけれど、僕への嫌悪感を強く感じる。「ちなみに同い年だから敬語いらないぞ」と付け加えていた。
「でもそれって僕のピアノが嫌いというよりも、敵対心に聞こえるんだけど。……それに僕の何を知っているっていうんだ」
同い年だから、というわけではないけども、やはりそれだけでハードルが下がったような気がして、つい言葉が強くなる。しかし彼もそれに負けなかった。
「そりゃ、敵対心はあるに決まってる。だけどそれは演奏の好き嫌いには関係ないし、観客に媚びるような演奏をしていたかと思えば、今度は無個性な教科書通りの演奏をしているくせに、知るも何もないだろ」
昔からというのは嘘ではなかったようだ。僕の演奏の違いを捉えていた。ただ観客に媚びるというのはよく分からないけど。でも痛いところを突かれた感覚はある。彼の言っていることは正しいかもしれない、と感覚で理解したところで、彼を責める気持ちはなくなっていた。
「何で嬉しそうにしてんだよ」
「え?」
理解できないといった彼の様子と言葉で、自分が笑っていることに気づいた。どうして僕は笑っているんだろう。分からないけど、何かに興味を持つなんて久しぶりのことに胸が高鳴ふる。
「君の好きな弾き方ってなに? 人に媚びないのがいいってことなのかな」
「別にそういうわけじゃないけど……そんなこと聞いてどうする」
ただでさえ変に思われているのに、さらに警戒されてしまう。
「君の言うとおり、僕は今スランプ状態だ。本来の弾き方さえ分からなくなってる。だから何でもいいから何かを吸収したいんだ」
僕からスランプという言葉が出てきたことに驚いた様子を見せ、警戒の態度は解かれた。それによりあとひと押しだと1歩詰め寄る。
「弾き方教えてよ」
偶然かつ最悪な出会いから、まさかのピアノレッスンが始まった。
「弾き方教えるって言っても、俺はお前より下手だからな」
「うん。まずは自己紹介しようよ。僕は天羽成です」
「知ってるけど……俺は平坂直哉」
「直哉くん、改めてよろしくね」
「はぁ? 何でいきなり下の名前呼びなんだよ。平坂って呼べ」
「えぇ? 直哉くんも成って呼んでいいよ」
「い、や、だ!」
直哉くんはあまり出会ったことのないタイプで、話していると楽しい。直哉くんは頑なに名前を呼ぼうとしないので、今のところは僕が折れようと思う。
「そんなことよりレッスン、お願いします」
「そんなことって、お前なぁ……まぁ、いいや。お前より下手な俺に何を教えてほしいんだよ」
「たとえば、今度弾く曲なんだけど……」
楽譜を見せると、それを見るために近付く直哉くんは素直だ。僕のことが嫌いなはずなのに。
「弾くとしたらどんな風に弾くのがいいか教えてよ」
「んなもん、自分で考えろよ」
「だって、僕スランプだもん」
「それ、スランプになってるやつの態度じゃないだろ」
呆れながらも楽譜から視線を外さない直哉くんに期待は高まる。そういうところが僕をつけ上がらせるって知らないのかな。
「俺だったら……ここは上げていくけど、ここは抑えめで……」
独り言に近い声量で話しながら、楽譜を指で追う。曲の中盤くらいでその指が止まった。
「……帰る」
「ええっ! 何で?」
「いや、だって別に俺が教えることなんてないし」
急すぎて直哉くんが分からない。彼の顔を見ても、不機嫌そうにしか見えなくて、何か機嫌を損ねてしまったのだろうかと不安に思う。
「今の話、とっても参考になったよ。弾くイメージが湧いてきた」
そう言って、彼の言った通りに演奏を始める。すると彼は真剣な顔でこちらを見ていて、先ほどの不機嫌さはなくなっていた。
「実際に聞いてみると、ここはもっと抑えて、ここの盛り上がりを良く見せた方がいいかもしれないな」
「こんな感じ?」
また彼の言う通りに弾いてみる。すると態度は相変わらずでも、その目は興味津々だと言いたげだった。それからは彼は機嫌を損ねることなく、むしろ積極的に意見をくれた。レッスンは今回だけで終わってしまうかと思えば、「次、いつにする?」という問いに、空いている日を教えてくれるという予想外の返事だった。そんなわけで、直哉くんとは継続的に会う関係に持ち込めたし、なんならご飯も行く仲にもなれた。ちなみに彼曰く、あのときは不機嫌だったわけではなく、ただ正気に戻って何か恥ずかしくなっただけ、とのこと。その当時は彼の気分を害してしまったと不安に思ったものだけれど、今なら分かる。そんな関係の進み方に幸福感を覚える。
「そういえばさ、この前の成のコンサート行った。あの弾き方、俺好きだ」
「あ、ほんと? 直哉くんと話してたら、こういう感じがいいな~っていうのが浮かんだんだよね」
「俺にはない発想だったけど、前半の演奏とバチっとハマっててすごかった」
直哉くんと一緒にピアノ練習をするようになってから、数か月。今ではこうしてお褒めの言葉を引き出せるくらいには仲良くなれた。彼はいつだって僕の演奏の違いに気付いてくれる。それは彼の持って生まれた才能だと思う。直哉くんは直哉くん自身を才能がないとか演奏が下手だとか卑下しているけれど、僕はそこまでじゃないと思っているし、何より直哉くんの持つ曲の本質を見抜く力だったり、演奏から受ける印象だったり、音に関する感性が誰も持っていない唯一無二の者だと思う。なのにそれを言っても彼自身にとっては当たり前のことだからか、あまり納得してもらえない。そのくせ僕のことを褒めるときはちゃんと褒めてくれるし、悪いところは悪いと言ってくれて、直哉くんを好きにならせるのに余念がない。僕は会うたび直哉くんのことをすきになっているというのに。
僕の直哉くんに向ける感情について考えたことはない。それが何であれ、僕はもう直哉くんから離れるつもりはないし。ただ、直哉くんは結構交友関係が広い。僕は音楽関係の知り合いが多いけど、音楽系に進んでないのも関係して、音楽関係だけでなく、いろいろな人と交流がある。僕の直哉くんに対する第一印象ははっきり言う人だったけれど、それはたまたまで、基本的には相手のために言葉を選ぶ人だった。それに不満を漏らせば、「だから成とは仲良くなるの早かったんじゃない?」なんていうから、膨らませた頬を赤らめるしかできなかった。
最近、直哉くんにとって僕は何なんだろうということを考える。初めは僕のこと嫌いというところで他人とは違ったと思う。でも今は? 直哉くんにはたくさんの友人がいて、みんなと仲が良くて、僕はその枠の中に入ってしまったことで他人との差異がなくなったように思う。仲良くなれたことはいいことのはずなのに、前以上に満たされない気持ちがある。自分でも自分の感情を持て余す今に、どうしたらいいのか何も答えを出せない。