何度も髭越しに口付けを試みてみるようだった。恋人同士の戯れならば一般的に狙う唇に届くはずもないのに、いやたくわえられた髭があるから阻まれるだけで髭が無いのならば上唇を吸い上げる事が出来るのに、髭髭ばかりで髭の話題からは離れよう。休題。しかしサタケはその試みで唇だけでかきわけて上唇に当たらないかと挑戦している。ちゅ、と立つはずの音がざりざりざりとかき分ける音に切り替わって、キスをされているプラムマンは困惑に眉を顰めている。この年下の恋人が思い付きで動くことはたまにあるし、それもまあ年下の可愛らしい思い付きだからと一事が万事受け止めていた。突然甘えたのスイッチが入っても、突然性欲のスイッチが入っても最終的には納得できるし、自分相手だから彼が乱されるというのは心地が良い。だから今日もそんなスイッチが入ったのだろうが、どうせだったら下唇にキスしてくれればいいのに髭ばかり。休題しようにもサタケがキスするのは髭ばかりで、つまらない。もちろん髭はプラムマンの一部であるが、神経がそこまで過敏ではないのでサタケの唇の感触も楽しめない。ただ自分の鈍いところを目掛けて、恋人が夢中になってキスをしているのをひた眺めるだけである。これではつまらない。
 「リュウジ」
 「ん?」
 答えと共にリップ音がやんだ。プラムマンはサタケの頬に手を添えると、指先で優しくなぞる。触れるか触れないかの手前で産毛をなぞるようにすると、ぞくぞくするのか目を細める、サタケの好きなやり方である。今日もうっとりと目を細めた。恋人がただからかっているだけだと自分を納得させようと思ったが、意図を持って性欲に直結する行為をしている自覚があるらしい。
 「なあに、トーマス」
 「いい加減下にキスをくれないか」
 「君の胸に?」
 「そうじゃなくて」
 プラムマンが即座に訂正すると、おかしそうにサタケが笑う。そして笑った後に白状した。
 「ごめん、映像で見た熱烈なキスをしてみたかったんだけど…君じゃ難しいらしい」
 「髭を剃ってきましょうか」
 「いや、それも君の一部だからね。やっぱり口をこすり合わせるみたいなキスは難しいかな」
 「お望みなら、俺からする」
 「ええ? だって私からは出来なかったのに」
 「やりようがあるさ」
 そう言うが早いかプラムマンは上体を起こした。今まではサタケに馬乗りにされ成すがままにされてきたが、上体を起こせばサタケの体はぐらりとバランスを崩す。倒れそうになるのをプラムマンの手が支えれば、もう主導権はプラムマンにあるようなものだ。サタケは目を白黒させ、次に来るであろう恋人の行動に唾を飲む。
 「本当にやる?」
 「やるとも。おいでリュージ」
 顎を掴まれたらもう完全にプラムマンのペースである。サタケは抵抗もせずに口付けを受け入れて、目をとろけさせるとそのままキスを堪能するようにつむった。舌と唇の感触でとろとろと溶けていく。こころはどろどろと溶け合ってしまうようだが、生きた肉体は細胞が個を主張してそれがとても邪魔になる、だから頭の片隅で人間の体の融点を必死に思い出そうとする。こころはとっくに融点を迎えていた。溶けて冷えて固まったら、また離れなくてはいけないけれど。互いを堪能しながらベッドに寝転がる。肉体はこころに置いて行かれて、こころだけが二人の触れる場所に宿って熱い。冷たい肉体を温めようともっと互いに近付いてすり寄る。透明な汗がシーツを濡らして、夜半だというのにまだ情事は終わらないようだった。
 「暑いな」
 ところ変わって翌日である。肉体には予定があり、五感が求める場所に行かねばならない。今日の目当ては名古屋港水族館である。利便性の面で名古屋駅近郊のホテルを取ったが、隣の金山駅まで乗り継ぎをして地下鉄の名港線でおよそ30分弱。暗闇の中でごとんごとと揺られ、意外と長い時間にサタケはうとうととしてきていた。もう10時過ぎである。多少遅く出て、軽い昼食を近辺で済ませたのちに水族館を堪能する予定だ。近郊にはレストラン街や土産物など商業施設はあるものの、どれも混むからもう少し離れた場所で済ませるつもりだった。港が近いのだ。駅近辺であれば何かあるはずだろうと甘く考えている。しかし眠い。昨夜、少しだけ睡眠時間を短くしたのが良くなかったのかもしれない。それともプラムマンの傍だと安心するのか、ここが日本だから気を抜いてしまっているのか。プラムマンにとっては異国だが、日本の地下鉄の治安はそこまで悪くはない。眠る手前で顔がかくんと垂れた時、プラムマンの肩に当たったようだ。横目で窺うと、なんだか笑っているかのように見える。子供扱いだなと思いながら、反論する前に眠気に抗えずにもたれるようにして少しだけ眠った。次に起こされたのはアナウンスだった。
 「リュウジ、起きろ」
 「うん」
 寝起きは悪い方ではない。しゃきっとした頭で立ち上がり、何事もないかのようにすたすた歩き出す。駅で直通かと思ったが、歩くらしい。日傘か帽子が必須だと聞いていたので帽子を取り出す。だがその前に食事だ。簡単に済ませたいが、目に付いたのがインドカレーの店だったのでそこに入った。ナンが採算度外視でかなり大きい。これは軽くじゃないなあと言いながら、二人はぺろりと平らげると時刻は11時前。店員に礼を言って再び歩き出す。潮の香りがし始めた。
 地下鉄から今降りたばかりなのだろう、駅から出た集団と一緒になる。彼らも皆水族館に行くのだ。行く途中で多少集団はばらけたものの、一番大きな一団に従えば目的地に辿り着くものだ。日差しを遮るものがないまっすぐとした道をUターンするように歩けば、同じように開けた道が見え、その向こうにしらせと名古屋港水族館がある。あれだ、とサタケが指差すとプラムマンも頷いた。確かに日差しを避けるものがないな、商業施設に逃げ込めばいいとしても、それならば歩いてしまおうと思える距離だ。だが歩いてみると予想以上に遠い。見えているのに、あまり近付かない。そう思っているといつの間にかチケット売り場の近くまで来ていて、ようやくだ。電子チケットだからすんなりと中に入れる。潮の香りがして、海が見える事が少しだけ空母を思い出して懐かしい。だが暑さに負けてしまった、すぐに二人は中に入る事にした。
 「ナゴヤは暑いな…」
 「うん東京より暑いかもしれない。熱が溜まりやすいとは聞くけれど」
 そんな会話を繰り広げていると、目の前には巨大な水槽が現れる。天井につきそうな巨大な水槽に、ゆうゆうと泳ぐもの。あまりの水槽の巨大さに圧倒されていると、その水槽は隣にも続いていた。サタケが呼ぶ。
 「こっちだよトム」
 「まだこの水槽は続いているのか? 信じられない。まるで海だ」
 「日本一大きいんじゃなかったかな」
 「世界で一番かもしれないな」
 少々興奮しているプラムマンに、そんなに喜ぶなんてとサタケは笑う。とはいえ、この雄大さには圧倒される。大型の哺乳類が悠然と泳いで、まるで人間を見下ろしているかのようである。
 「さあ行こう。いっぱい見るものはあるんだよ」
 マイワシのトルネードに間に合ったので、二人はそれを眺める。美しい音楽に、美しい…おっと、これは実際に見ていただきたいのでここで休題。
 「こんなに美しい水族館は初めてかもしれない」
 「そうか、それなら嬉しいな」
 自分が携わっている訳でもないのに、プラムマンがそう言うとサタケは嬉しくなる。昼時にはレストランが混んでいるのを見て、サタケは他で食べてよかったと安堵した。そこのレストランで食べるのも良い機会であろうが、旅を円滑に楽しむために今回は取捨選択した。他の展示室は明るいが、いつの間にかサタケはプラムマンの手を取っていた。展示を眺めていてつい、何の気なしにである。とはいえ日本で男性二人が手を繋いでいることに違和感を覚えないわけではない。特段、180cmを超える目立つ二人であれば。急いで離すのもおかしいし、プラムマンは気にせずサタケの手を握っている。さあどうするかと思っていた矢先、観光客と思われる外国籍の老夫婦が後ろを通りがかった。ご婦人はきさくに英語で話しかけて来る。
 「あら、坊やはお父さんと来たの?」
 ぽかんとしたサタケに、先に噴き出したのはプラムマンだった。だが必死に咳で誤魔化している。その間にサタケがにこにこと人の良い笑みで間に入るようにご婦人に話しかけた。
 「ええ。そうです」
 「そうなの。ここは美しくていいわね、楽しんで」
 「ありがとうございます」
 流ちょうな英語を交わし、老夫婦と離れるとまだプラムマンは笑いをこらえていた。だが手を離さない。周囲は英語を流ちょうに操る日本人とおぼしき青年が、老いた父親の手を引いているのだろうと納得したようで、奇異な物を見る目線は消えていった。残った問題は、水槽に頭を押し付けそうに笑っているプラムマンだけである。サタケは叱るような声を出した。
 「トム!」
 「失礼。…失礼」
 そう口では言うが顔は笑っている。笑い足りないという顔である。それを必死に飲み込み、こほんと咳を一つ。平然と手を繋いで結局残りの展示もしらせも存分に堪能した。最後まで手は繋いだままだったが、あまりにも堂々としているので誰も気付かないというようだった。異分子を目敏く見つける日本では珍しいことである。まるで潜入ミッションだ、とサタケは水族館を後にして笑う。多分電車は込み合うだろうから、手を離さざるを得ないだろう。だから駅まで歩くまでは繋いでいる。大道芸が水族館の道の途中で行われていて、人々が集まってやんややんやと拍手をしていた。
 「見に行くかい?」
 「どうせなら思い出を増やしましょうか」
 プラムマンがそう言うので、サタケも近付いてみることにした。カラフルに編まれた糸だけで高く高く飛び上がる独楽に拍手をして、そうして夕焼けが海から迫って来ている。それもまた美しい光景だ。大道芸人の顔も赤々と照らしている。もう一度一芸、もう一度拍手。つないでいた手はいつの間にか外してしまっていたが、もうそれも気にならないくらいに万感の思いを込めて拍手するのだった。
 「そういえば、昔はこの水族館に来たカップルは別れるって言われてるんだった」
 「そんな不吉な由来が?」
 「まあ子供の噂程度のものらしいけどね。広いから、疲れるんだろう」
 「疲れたら余裕がなくなり、お互いの嫌なところが見えるのでしょうな」
 「私達はどうかなあ」
 「さあ、今日も貴方は美しいので欠点は見過ごしてしまいましたな」
 あまりにもさらさらと言葉を並べるので、これは心がこもっていないなとサタケはプラムマンを小突くのだった。
  
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