目下の現状は逃亡防止である。だが世界は狭く、それなりに広い。たった一人の人間が逃げ出したところで追えない事は無いだろうが、それでも手間であるのは事実だ。ハル・キングの身柄は米軍基地から関連企業への出向という形になり、一時的な転向を余儀なくされた。一時的だという話ではあるが、退職勧告に近いものはある。ハル・キングから大統領や首脳との会議において、ブレイバーンの存在はこの世から秘匿されていはずだが、全世界を自由に飛び回る自由なマリーンと自衛官により、ハワイに集合した彼らは黄金の機体によって一つになった。だがそれはブレイバーンと勇気融合したATFには理解が及んでも、各国の人間には到底理解しがたい状況であった。世界平和の為の、またプライバシー保護の為であったことまでは理解できたが、ブレイバーンが自ら現れるとは何事であろう。どうしようもない説明を繰り返したところで、キングの立場が針の筵になる以上に浮き上がりはしなかったのだ。関連企業は米国だと目立つからと言って、オフィスが日本にある企業に身に移された。腫物に触るような扱いである。頼むから大人しくしていてくれ、これ以上何かが起きると世界の真理が次々と塗り替わり、せっかくの平和が訪れた世界に混沌をもたらされてしまうのだ。もうこりごりなのだ。戦争の後の混乱だけで人類は手一杯で、宇宙からの未知の文明の侵略者は、傷口だらけの地球に染みるのには痛みが伴う。だからキングも出向には異論を唱えることも出来ず、日本に押し込まれるように会社のオフィスで、新設された部屋にぽつんと置いておかれている。60歳にもなれば新しい仕事を覚えるのにも手間だろうという優しさか、腫物か。ただ与えられた仕事は事務作業だったので、それを淡々とこなしていると来客が訪れる事があった。カワダである。
「ハル。お元気ですか」
「ああ、変わりない」
「それはよかった。奥様とお子さんは?」
「一時的な物だからと本国にいる。流石に付いて来て貰うのには、幾分か体裁が悪いのでな」
「それは勿体ない。いらっしゃったのなら、案内ぐらいは出来ましたのに」
「孫もいるし、向こうで暮らした方が問題は無いだろう」
多少なりとも妻子に情があるようにキングは話しているが、夫婦仲は昔から冷めきっていて互いに自由を貫いているのが現状だった。家族という体裁を保つのに、あるいは組織を運営するのに優秀な妻とわきまえた子供達、その孫が鎹になっているが冷めた愛情が取り戻るかと言えば、ほとんど無い。よくある事である。家族を愛情の営みではなく、人類発展の為の組織として見れば運営は良好な状況だ。だからキングの出張にもついては来ないのだ。カワダはそこまでの事情は知らないようで、世間体でもちろん案内すると言ったのだろう。カワダも海将として多忙の身だが、休暇を取ったのか定期的にキングに会いに来てくれた。カワダは金曜日の午後にやってきて、突然こう言い出す事がある。
「明日出掛けられますか?」
「明日か、スケジュールは空いているが」
「月曜日も空けられますか」
「この状況だ。逃げなければ、檻の中で自由の身だよ、私は」
企業としても深く干渉する気はないようで、労働基準法よりも緩い規則でしばりつけている。ただし月曜から金曜までの定時出社と定時退社は義務付けられて、そのデータを本国に提出さえすれば問題ないと言わんばかりだ。15時に昼食を取りに出ても、カワダに誘われて16時に会社を出ても、18時までに戻ってくれば誰も文句を言わない。透明な檻は隙間だらけで、体裁だけ保ってくれという日本人らしい檻である。だからカワダもだんだんとその仕組みが分かっているのか、大胆に誘ってきている。
「今日から青森県に行きませんか」
「それは急だな。この前は京都だっただろう」
「ええ、今度はねぶた祭りでも見に行きましょう」
「案内は任せよう。休日は問題ないだろう」
本当に問題ないのである。休日は当日に申請しても人事は何も言わなかった。ただ、出社と退社の規定だけは守らせている。だから16時過ぎにメールで送っても、了承の自動送信だけが返って来る。さてとキングは翻訳を頼まれている古い資料の打ち込みを終了させると、ガラス張りの壁から外を見下ろした。夕焼けが少しずつ東京の街を覆っている。カワダは約束を取り付けると帰っていった。メールでいいじゃないかと以前言ったが、どうせ暇でしょう?といたずらっぽく笑ったので、それ以上は何も言わなかった。
翌日は朝から移動で、夜になるとそのねぶた祭りを観覧しに行った。靴は歩きなれたもので必ず来てくれという忠告通りに、海釣りに行くようなしっかりとしたアウトドア用の靴で向かうと、カワダもしっかりとした運動靴であった。チェスが趣味の一つで、トレーニングに励む以外に外に向かう趣味があったのかと尋ねると、まあトレーニングだけですよと返される。さあ、と手を引かれて歩き出したのは大混雑の人込みに身をなげうつのだった。あまりにも人混みが激しく、肝心のねぶたを見る時には両肩をぎゅうぎゅうと押す誰かのぬくもりが両端から体の奥に迫って来るようで、汗がだらだらと流れる。大衆は少しずつだが歩きながらねぶたを見ていた。だからその波には逆らえず、ぎゅうぎゅうの中でほんの少しずつ、1センチずつ歩くような中で、カワダをなんとか右斜め前にいるのを確認しながら人を見ているのかねぶたを見ているのか分からない。ホテルは以前から取っていたらしく、ロケーションが完璧な場所にあった。もう疲れただろうとカワダが連れて行ったのは、シティホテルで窓からねぶたが見られる。キングが断ったのなら、彼は一人で来るつもりだったのだろうかと疑問に思う程にいい宿だ。半年ほど前から予約していなければならないような部屋である。部屋はそこまで広すぎないが、人混みから解放されたカワダが浮かれながら窓に小走りに近付き、しゃっとカーテンを開く。覗き込めばねぶたの頭が見えるほどの高さだ。この高さを覗き込んでいると、何故か地面に急速に惹かれてしまうようなうっかりと身を投げそうな高さ。それをねぶたに熱心ですねとカワダは評したようだが、キングはああとだけ返した。これ以上覗き込んでも、ホテルのガラスには厚みがありキングが飛び込めるほどの大きさはない。それに馬鹿らしいので自殺願望に似た好奇心をやめ、カワダがせっせとウイスキーやつまみを用意するのを手伝った。
「いいんですよ、ハルは。座っていてくれれば」
「君にそこまでしてもらうのは申し訳ない」
「私が好きでしてるんですから」
針のむしろから追い出されるように日本に転がり込んだキングの寂寞を癒してくれたのは、定期的に訪れてくれるカワダだった。さあとグラスを差し出されて注いでくれる。接待らしいいやらしさはなく、単純に年上だからと敬ってくれるような最低限の礼節まといながら、彼は相好を崩して
ウーロン茶を飲んでいる。そこも彼らしい。まだ酒は苦手なのかと尋ねると、体質が受け付けないまま死にそうですとカワダは返した。このような他愛もない会話は、何度も繰り返してきた。近況は体の衰えから始まるが、それなりに会話の種は尽きない。
以前から二人はそうしていた。初めてカワダに連れ出された時は、外で食事と酒を済ませてホテルに戻って来た。長時間の思い出話に花を咲かせ、その時のカワダはキングの部屋で飲み直す為に付いて来ていた。一方のキングである。当時では日本の待遇に不満が噴出し、いつもより酒が回っていたし足取りも少し覚束ないところがあった。だからだろうか。キングはその時、カワダに抱き着いた。実際にはカワダにもたれかかったのだが、身長差があるせいで腕の中に収まったカワダは、物珍しそうに目をしばたたかせる。香水の少しだけ甘いトップノート、続いて柔軟剤、最後に彼の体臭のようなものが鼻に届く。体温に飢えているといえばその時はそうだった。荒れたキングの心に必要な物があれば、それは体温だ。だから腕に力を込めて抱きしめた。カワダは思った以上に抵抗もせず、ただぬいぐるみのようにじっとしている。…そのうちキングは我に返り、謝罪をしたがカワダは穏やかにほほえみながら言った。
「コート越しじゃ、味気ないでしょう。シャワーを浴びた後にお供しましょうか」
確かに外出から戻って来たばかりで、その時は分厚いコートを互いに纏っていたが、その提案にキングは驚いた。だが是非もなく、言われるままにシャワーを浴びて肌着になると同じようにしたカワダがごろりとベッドに寝転がる。ぽんぽんと自分の横を手で叩くので、キングが横たわると肌着のまま抱き着いて来た。先程よりも感じられたのは肌に触れて来る質感、肌着の向こうにある生の肌である。その呼気だろうか、先程の体臭とは違う生きもののにおいが感ぜられて、シャンプーの香りがした。カワダは腕の中に収まると、そのまま寝始めた。添い寝のつもりだったのだろう、もちろんキングも彼を抱くという選択肢は無かった。互いにそんな年齢でもない。ただ、老いに迫るさびしさに人のぬくもりは暗がりを照らす瓦斯灯のようなもの。数は少なくなったが、炎に近い灯りは心を安堵させるのだ。カワダを引き寄せて眠る。それだけで十分であったし、それ以上を求めるつもりはなかった。だから今日も、同じである。
「さて、埃を落としたら寝ましょうか」
カワダから提案をいつもされている。キングから誘ったことは一度もない。だがそれもカワダがしたいようにしているのだから、と厚意に甘えているかのようで申し訳ない思いもあるが、だからといってキングから誘うのはどうしても出来なかった。まだ自分にも矜持があるのだなとキングは自身にため息をつく。もう辺境国に飛ばされたのだから、出世も望むようなキャリアも霧の向こうで消えてしまった。積み上げてきた物は強固な石造りの城かと思ったのに、今はそれはまぼろし蜃気楼の城。カワダが先にシャワーを上がったので、ころんと寝転ぶの見つめる。確か八歳違いだが、まだ体は現役世代に近しいような形を保っている。背も縮んだ己とは違う、まだ張りがある肉体だ。キングもシャワーを浴びる。そこまで彼の体もしぼんではおらず、全盛期とは言えないが綺麗なシルエットを保っている。ああ、とカワダがにこにことした顔を向けるので素直に横たわった。カワダの手が勝手にキングの体に触れる。最初は興味を持っているだけだと思ったが、最近は性器をなぶるので意図が違うようであった。だがキングはカワダの好きなようにさせている。性的欲求を引き出すというより、でっぱりがあるから触っている。そんな手付きだ。
「女性を泣かせてきたでしょう」
「そこまで入れ込む女性はいなかったな。妻くらいか」
遊びで入れ込むような女性に出会えなかったのは、幸運か不幸だろうか。日本に来てから、人生を振り返る穏やかな時間と機会が増えたが、カワダと話している時は少しも装飾のない飾り気のない人生を見つめていた。少々味気の無いレールの上の人生だ。いつの間にかつまらないと評することも多い。だがカワダにとっては、まだ出世街道から外れていない男からは十分に参考になるのだろう。そうキングは思っていたが、カワダを払いのける事はしなかった。憐みがあるのならそう接すればいいとさえ思う。今は手がやさしくなぶるくらいしか、体温を感じる場所は無いのだから。
「口に含んでみても?」
キングは変わった申し出に一瞬眉を顰めるが、カワダがあまりにも自然にそう言うので了承した。落ちぶれた男を慰めることで自尊心を保っているのなら結構なことだ。好きにすればいい。多少の捨て鉢な気持ちだが、カワダはいつも数十年来の親友かのように日本を案内して、必ず人込みに連れて行く。一度その理由を尋ねたのだが。
「だって、この人込みは平和の象徴ですよ。奴らが侵攻した時は、こうして空の下に集まる事など出来なかった。これは平和の象徴で、私達の功績なんですよ」
こう返って来た。つまり実感を得るために人混みに向かうらしい。それもスクランブル交差点や満員電車などの交通に関わるものではなく、祭りという日常を喜び日常を祝う非日常は、平和の祭典といって差し支えないのだという。その言にキングは納得していた。だからカワダのいう事に今の所間違いはない。口に性器を含まれても、舌や口がすぼめられるのを見ていても。
「愛妻家がするべき事じゃないな」
「愛妻家はこんなことしませんよ。愛妻家がここに誘うなら、妻でしょう」
急に腑に落ちた。こんな休暇を得られるのなら、妻子を連れてくればいいのにカワダはキングばかり誘う。体裁の良い結婚などはこの世にありふれている。組織としての家族もこの世にありふれたことだ。それがカワダの身にもある可能性を、何故かキングは今まですっかり忘れていた。だから急に整った心具合で、カワダの頬や頭を撫でてやる。心地よさそうに目を細めると、カワダは性器から口を離した。
「さあ、寝ましょうか」
反応は無かった。今日は反応しなかっただけかもしれない。いつ反応するかも分からない。ただ今日も、抱きしめて眠る事にした。
「来世があるかもしれないって信仰は、実は好きじゃないんです」
「だが、日本人は輪廻転生を信じているんじゃないのか」
「だって、その時せっかく手にいれた知恵を手放すんですよ。耐え難いことでしょう、私が私じゃなくなるなんて」
ふわふわとした記憶の中で、カワダの言葉が浮かんでくる。今会話をしているのか、先程の会話を思い出しているのかあいまいだ。
「海になら、全て置いて行ってもいいんですがね」
「誰が引き上げるんだ?」
「それは、私が生まれ変わったら行くんです」
少しも現実的じゃないことに、キングは笑ってしまった。海に置いていく。その時、海底に沈んだ物の中にキングとの記憶も含まれているのだろうか。願わずにはいられない。