手元の天ぷら鍋で、茄子がきゃらきゃらと軽やかな音を立てて油の中を泳いでいる。つやつやに素揚げされた茄子は鮮やかさを増していて、夏の食卓の予感を感じさせて目に嬉しい。
 今日はとても暑いから、夕ご飯は簡単にそうめんにすることにした。一応慶に、「夜ごはんそうめんでいいかな。お昼みたいな夕ご飯になっちゃうけど」と言うと、「いいじゃん、夏だし」との同意を得た。
 そうめんはたくさん買いだめしてあるけれど、肝心な薬味たちがなかったので、向かいの八百屋さんで大葉と茗荷と生姜を買ってきてくれるよう慶にお使いをお願いをした。慶はそれにも、「お、任せろ」と気持ちの良い返事をしてくれた。
 たった三つのお使い物なのに、慶は「オオバ、ミョウガ、ショウが、オオバ、ミョウガ、ショウガ、ミョウガ、ショウガ……あ、オオバ」と手に入れるべきものを忘れないよう、ずっと繰り返し口の中で唱えながら家を出て行った。その妙に生真面目な姿はいじらしく、きっと愛すべきなのだろうとわたしは思う。
 だけど帰って来た慶の両手には、薬味以外の様々な夏野菜が抱えられていた。
 茄子、トマト、ズッキーニ、オクラ、かぼちゃ。主役級の野菜たちの登場に驚いていると、「八百屋のばあちゃんがくれた。お使いだって、夕飯そうめんなんだって言ったら、野菜も食えって」と言いながら色とりどりの野菜を差し出してくる。向かいの八百屋を切り盛りするおばあちゃんの豪快な笑顔を思い浮かべる。体の大きさや風貌に似合わず、人懐こく、裏表のないところのある慶を気に入ったのだろう。今度お礼の品を持って行かないといけない。
 これだけの野菜があるのにそうめんだけで食事を済ませるのは、慶にも八百屋のおばあちゃんにもなんだか申し訳なく、急遽南蛮漬けを作ることにした。暑い夏でもさっぱり食べられるし、そうめんに乗っけても美味しいし、少しは日持ちもする。気持ちお酢を多めにして作った南蛮酢に、素揚げした野菜を次々と投入していく。
「なんか手伝うことある?」
 火の元に立つわたしの横にのっそりと立った慶が、わたしの肩に顎を置いて手元を覗き込みながら問う。「油が跳ねるから危ないよ」と声をかけてはやったが、「ふむ」と形だけの返事をしてわたしの首元に頬をすり寄せて退こうとしない。
「じゃあ、そのかぼちゃを切ってもらえるかな。すっごく硬くて、大きいからレンジにも入らなさそうで。半分に割って、そのまた半分に切って、タネとワタを取って、薄く切って欲しい」
「ほいほい」
 快諾した慶に手を洗うように促す。慶は石鹸を使ってきれいに手を洗う。さっき慶の手の甲に書いた、「大葉、みょうが、しょうが」というお使い品の名前が消えていく。
 わたしの手ではまるで歯が立たなかったかぼちゃを、慶はいとも簡単に一刀両断した。大きな種がたくさん詰まった、かぼちゃの鮮やかな断面がキッチンに彩を灯す。
 慶はスプーンを使って手際よくワタとタネをほじくり返し、半分に切ったかぼちゃをさらに半分に割り、薄い半月切りにしていく。驚くほど迷いがなく、きれいな太刀筋だった。
「かぼちゃ、切ったことあったの? なんでそんなに簡単に切れるの。安物の包丁なのに」
 わたしが驚きと称賛を込めて言うと、慶は何でもないような顔で「硬いっつったって、切りやすい場所なんてみりゃわかるだろ」と言った。慶はときどきわたしには理解できないことを言う。今回も、そのまま聞き流すことにした。
 すべての野菜を揚げ終わり、南蛮酢に浸した時には陽は傾き始めていた。ほんのりと汗をかいている。夏のキッチンで、揚げ物をやるのは重労働だ。ふう、と一息ついて火を落とし、換気扇を止めるとリビングでごろごろしていた慶が再びわたしの元へとやってきた。やっぱり肩に顎を置いて顔を寄せてくる。シャリシャリとした慶の髭が、肩に柔らかく突き刺さる。
「終わった?」
「終わった。もうこのまま食べてもいいし、漬けたら漬けただけ美味しいよ。お腹へってる?」
「ん~。減ってると言えは減ってるけど、とりあえずこっちかも」
 そう言って慶は、わたしの汗ばんだうなじに唇をつけ、そっと舌を這わせた。背骨の一つ一つの隆起をなぞるように。うなじの生え際のところに歯を立てられて、わたしの脳内に「捕食」という単語が浮かんでくる。背中で結ばれたエプロンの紐が慶によって解かれて、足元にぱさりと乾いた音を立てて落ちた。
 結局、野菜たちにそこそこ味が染みてしまうくらいの時間が経ってしまった。薬味を刻むわたしの横で、慶がパンツ一枚だけ身に着けた姿で鍋の前にたち、フウフウと暑そうに息をしながらそうめんを湯がいている。
「そうめんってさあ、暑い日に食いたいのにできるまでめっちゃ暑くね?」
「そうなの。良い気づきだね。あ、もういいと思う。笊にあけて、お水で洗ってください。火傷しないでね」
 わたしがいつもふんっと力を込めて持ち上げる大鍋を、慶はなんてことないようにひょいっと持ち上げて、流しに置かれた笊に中身をあける。ボコン、という音がして、慶が「おっほ」と小さく感嘆のような、悲鳴のような声を上げる。
 慶がせっせとそうめんを洗っている間、慶がわたしのブラジャーを外す前にかろうじて冷蔵庫に入れておいた南蛮漬けのタッパーから、色が濃くなった野菜たちを八寸鉢に盛り付ける。擦った生姜と刻んだ茗荷と大葉、葱を小皿にたっぷりと盛り付ける。
 たんぱく質が不足している。冷蔵庫から豆腐のパックを取り出して破り、手のひらにあけると包丁で両断する。冷奴づくりの作業に気がついた慶が「えっ」と驚きの声を上げてわたしの方を見やる。
「おっまえ、そんなとこで包丁使うなよ。あぶねえだろ~」
「いやいや、お豆腐はよくこうやって切りますよ。お味噌汁に入れる時とか」
「マジで? 昨日の味噌汁の豆腐もそうやってたのか? あんなに細かく?」
 まじまじと私の手のひらのうえの立方体と包丁とわたしとを見比べる。そして、「あの味噌汁の細かく切るやつ、見せて。見てみてえ」とわたしにねだってみせた。
「これ、冷奴を想定してるんだけど」
「食っちまえばどんな形でも一緒だろ。見てみたいんだってそれ」
「細かくしたら食べにくいよ」
「いいから、早く見せてくれって、おねがい」
 子供のような顔で懇願されては仕様がない。半分に切った豆腐をそれぞれもう半分ずつに縦に切り、そのあとで横に包丁を通す。最後に包丁を横に寝かせて、豆腐の側面からそっと刃を入れる。(ここで慶が「おぉ」と感嘆の声を漏らした)
「はい、一丁上がり」
 ばらばらと小さな立方体となった豆腐を鉢に盛り付ける。さっきまで豆腐が乗っていたわたしの左手をとって、慶がまじまじと眺めてくる。
「すげえ、怪我してねえ。器用なもんだな」
「そうかな。誰だってできるよ」
「んなことねえって。自分の手のひら目掛けて包丁下ろしてんだろ。お前勇気あんな」
 あんまり褒めてくれるのがむず痒くて、口元を不器用に歪めて笑う。慶がわたしの手のひらにそっと唇をつける。「とうふの味」と慶が笑った。「怪我ひとつねえのな。ちっせえ手」と言ってさらに笑った。
「あ、俺明日からいないから」
 たっぷりと薬味を入れた麺つゆでそうめんを啜りながら、慶が言った。「そうなの」とわたしは咀嚼してから答えた。
「どれくらいいないの?」
「ん~わかんね。一週間で終わるかもしれないし、一カ月かかるかもしれないし」
 慶はこうやって時折、「どこか」に行く。「どこか」についてわたしが尋ねても、曖昧に笑って首元に顔を寄せてくるだけだ。
 慶について知っていることはそれほど多くない。一応三門市大に通う大学生であるという。街にそびえたつ、あの要塞の中の人であるという。人あたりが良くて、漢字に強くなくて、セックスは後背位が好きなようだ。硬い野菜も難なく切れる腕がある。
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