別に誰に見られてもいい涙だとは思った。透明で肌をさらさらと滑って、おそらく感動した映画や本の内容を思い出すときの涙と言って差し支えは無い。海水と同じ成分というだけだ。ただ流している相手がプラムマンにとっては問題で、場所も問題だった。オアフ島のATF基地である。破壊の限りを尽くされたが、滑走路はかろうじて無事で、建物の支柱も戦争の傷跡を素知らぬ顔で佇んでいる。夕日を眺めながら、人気がまばらの場所で、広くなってしまった演習地を眺める彼の瞳からつうと涙がこぼれたのだ。
 「サタケ二佐」
 声を掛けてからまずったと思う。プライベートであったのなら、声を掛けずに立ち去るべき場面だ。だがもし、今のプラムマンの心情ではプライベートのサタケであっても声を掛けただろう。それ程にプラムマンの心は、大風に揺らされる木の葉のように一斉にざわめいた。サタケは涙を流しながら振り返る。次々と筋が途切れるわけではない。ただ目の縁に溜まった涙が零れ落ちたという生理的反応。たとえば、目にゴミが入っただとかそのような。…先程から、サタケの涙についてプラムマンは言い訳だけをしている。だってそうだろう、彼は有事によりATFが発足されたことで、生き残ったからとTS部隊の指揮官を命じられた自衛官だ。実戦経験のない指揮官である。TSの技術は認められるが、これから未知の敵へと戦い導くのである。涙など流している暇はないし、そんなところを見られたらと焦るのは彼の補佐官であるからであろう。思わず隠すように目の前に立ち、周囲の人間の視線を確認する。泣いた理由が夕日が美しかっただけ、と言われても不安感を与える指揮官であってはならない。だが泣くなとは言わない。せめて人目の付かない所で、と言いたげな瞳で見下ろすとサタケは小首を傾げた。
 「どうしてそんなに怒っているんだ」
 「目にゴミでも入られましたか」
 遠回しに涙を拭けと伝えたつもりだが、サタケはああ、とそこで何故か笑った。
 「昔からそうなんだ。何も考えていないと、涙が出て来る」
 それは心のSOSではないのかと別の懸念が湧き上がるが、とにかく今はTS部隊発足の五日後である。サタケの弱みを見せて良い段階ではない。プラムマンは素早くハンカチを取り出し、サタケの目の下をぽんぽんと拭いた。まるで子供にするかのような動作に、サタケは驚いた顔を見せる。
 「な、に?」
 「いいからじっとして」
 泣き腫らす指揮官を見られるよりも、泥でも付いたかのような大仰な演技は必要だとプラムマンは考えていた。だから涙を拭き切ると、素早くハンカチを懐にしまい、彼は安堵したように息を吐く。
 「これでいいでしょう。あまりそのような御姿は見せないよう。…今は士気に関わる時期です」
 サタケはぽかんとしていたが、すぐにお節介だなあと暢気に笑った。少々マイペースなところがある指揮官殿である。プラムマンは目を離すのは得策ではないと考えたのか、しばらく傍にいることを決めた。心からのSOSが出ているのなら、サタケを一人にするのは幾分か心配が残る。壊れやしない丈夫そうな男だが、のらりくらりと交わす者に限って心はむき出しなことがある。心は見えないからこそ誰にも分からぬものだ。
 「本日もお伺いします」
 「うん」
 サタケはもう涙が出ていないのか、いつものサタケ二佐の顔に戻っていた。補佐官であるトーマス・J・プラムマンを見る瞳だ。さてとタブレットを片手に指揮所に戻っていく背に、二歩ほど遅れてプラムマンも後を付いて行くのだった。
 「もう腕は動くんだよ」
 ここはサタケの個室である。そこで、背中を温水で濡らしたタオルで流してもらいながら、サタケはぽつりと言う。
 先程プラムマンが伺うと言っていたのは、この湯呑の為だった。ブレイバーンが現れる直前、頭を切ったサタケはたまに指先に痺れがあるからとニーナ中尉に診察してもらっていた。結論から言えば骨も無事なので筋の問題か、あるいは神経が障るかなので安静にするようにとのお達しが出る。だがこの戦地において、安静という言葉はむなしく床を滑る埃と同じだ。ニーナも苦笑いをしていた。だから背中を拭く時に不便なんだよとサタケが漏らしたので、プラムマンが拭くようにして、今に至る。もう痺れもないし気のせいだったんだろうとさえ思うが、シャワーを浴びた後にさっぱりとした背を丁寧に拭いてもらうのは、そこまでやぶさかではない。だから今日まで続いてしまっているのだが、今日は思い切ってサタケは口にした。
 「だからもう、君に面倒を掛けるのは申し訳ない」
 「そうですか。でしたら、今日で終わりにしましょう」
 プラムマンはそう言って暖かいタオルを引っ込めた。背中に入浴とは違うぽかぽかとした熱が皮膚の間にこもる。温かいのは気遣いか、あるいは期待か、それとも獣欲か。サタケの清潔になった背を見ながら、プラムマンは唐突にからだを寄せて、もたれかかった。肩の辺りに顎を置く。だが腕は抱き締めずに、汚れたタオルをぎゅっと掴んでいるだけだ。抱き着かない。だがほぼほぼ体はくっついていて、抱き締められているような物だ。サタケは俯く。プラムマンは、この温浴の初日から抱き着いて来た。その時は腕を回してきた。半裸だったサタケは抵抗もせずに、ただその力強さに少々混乱しつつ、確かな意図を感じていた。実は二人はこの合同演習で初めて会った間柄ではない。一度は諦めた恋の相手だ。もう互いに年齢を重ねてベテランになったというのに、まだプラムマンがその感情を持ち合わせていることにサタケは驚いた。だからサタケは振り払うことはしなかった。ぎゅっと目を閉じて、うぶな若者のように次の手を待っていた。だがその日のプラムマンの腕はそのままするすると離れ、振り返ると何事も無かったかのようにタオルを絞っていて、終わった。
 先程涙を見せたサタケに、プラムマンが必要以上に動揺したのはこの関係性もあるからだ。心穏やかとはいかぬ関係である。焼けぼっくいに火が点くとはこの事だろう。あまりいい燃え方をしていないせいで、サタケの涙に何の意図があるのだろうと案じた。真っ先に自分との関係性を心配した浅ましさを深く恥じ、サタケの名誉のために必死に動いたのはプラムマンの人間らしい部分が成させたのであろう。その人間らしい少々浅い部分が、サタケの体を抱きしめるものの、それ以上進めようもしなかった。今日はサタケが自分の肩の方を見やって、プラムマンの顔に自分の顔を寄せる。だがすぐにプラムマンは離れてしまって、指の感触さえ分からない。
 「今日でおしまいか」
 この素肌を堪能するような機会はこれで最後だぞ、とサタケは警鐘を鳴らすつもりで言った。だがプラムマンはタオルを片付けに立ち上がると、そうですねとだけ言う。これ以上に彼は何も言わない。変なところで頑固で、妙なところで欲を出す。君が分からないよとサタケが漏らすと、プラムマンは本日初めて笑った。
 「貴方に言われるのは、面白いな」
 「どういう意味なんだ、それ」
 「そのままの意味さ。貴方は面白い。それに、美しい」
 まだサタケは着衣をしていない。だから短い単語に、繋がりに、希望に、向こうの気分を表すものに一喜一憂して頭を上げる。
 「美しい物なら、手に入れてくれればいいのに」
 「壊せないものもあります」
 「頑丈だよ、私は」
 サタケはプラムマンをその意気や良しと受け入れるつもりではあるし、それよりまるでうぶな自分を恥じた。その点はプラムマンと同じ人間味である。だから今日は積極的に言葉を投げかけるが、プラムマンはのらりくらりと交わしている。
 「見ているだけで、満たされる美しさもある」
 「…私は満たされない」
 「リュウジ」
 「今日は退きたくないんだ。撤退は許されない組織だからね」
 ATFは撤退してはならない。彼らこそ人類の救世主である。この世界を守るヒーローである。ブレイバーンと共に、撤退など許されない。
 「君も撤退は禁じる」
 「やれやれ、面倒な上官に捕まったものだ」
 もう一度プラムマンが笑った。二人の撤退がこの夜に起きたのか、それは夜の闇の向こうですっぽりと覆われているお話。ただ忘れてはならないのは鉄人である彼らの、ほんの少しの人間味だ。きっと良き夜を。
 
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