植物が実をもがれるときにストレスを感じるのか、あるいは重く垂れた実を取ってもらえて感謝をするのか。痛覚はあるという前提であれば、人間とそこまで差異は無いのかもしれない。冷蔵庫で見つけた箱に陳列されていた、ずっしりとした果実を手に取って、よく水洗いしたとカワダはしゃぶりつく。瑞々しい果汁が口の中に留まらずに、口の端も汚した。家の中だからべろりと舐め取る。
 「これ、お中元?」
 「そうよ。贅沢な食べ方よね」
 桃に皮ごとしゃぶりつくなんてと妻は笑った。だが農家が親戚にいるので、盆や正月などで遊びに行くと、売りに出さない果実は勝手に取っていいよと言われたものだ。その名残からか、丸ごとかぶりつくのが有名になっているのか、いつもカワダの元には皮ごと食べられる果実が選ばれる。シャインマスカットやりんごもそうだ。子供の頃よりも食べ物のグレードが上がっているけれど、この食べ方が一番である。果実は木からもぎとって、すぐに口に運ぶのに限る。そうしてキッチンで果実にかぶりついているカワダに、妻はリビングで洗濯ものを畳みながら世間話をする。
 「こちらからは銘菓を贈っておきました。〇〇さんには日本酒がいいと思って」
 「浴びるほど飲む方だからな。助かるよ」
 「いいえ。いつもの事ですから」
 カワダは海上が生業となる職種である。地上を踏むよりも海の上に浮かぶ人工的な地面の方に靴は慣れている。自衛官の妻は辛抱強い女性がいいとはよく言われるが、将官の娘である妻はよく心得てくれているようだった。気が利き、優しく、こちらを立てる。彼女との生活に何の不満もない。子宝にも恵まれて、手が離れた時は二人で静かに酒を酌み交わし、静かに泣いたものだ。恵まれた私生活に、国防を担当する運良く自分は生き残っている。だからもう人生において残すことは少ない。子供がいるのなら、もう役目は終わったようなものだ。生きるはもののあはれなり。しみじみと噛み締める余生において、自分が欲する物を正直に告げる相手とするなら日記が妥当だろう。だがそれは良き軍人であり、良き夫であり、良き父である姿からかけ離れる。だから本当は誰にも言ってはならないのに、カワダはぽつりと秘密を打ち明ける相手がいた。
 「大抵の果実は、まるごとがうまいものです」
 リンゴが食べたくなって、どうしても丸ごと一個がかじりたくなって、スーパーに寄ってから会うことにしたらホテルの一室には甘い香りが漂った。白いビニール袋に赤いリンゴが一個。なんだか不思議な買い物だが、この瑞々しさを今口いっぱいに噛み締めておきたくなったのだ。キングがコートを脱ぎ、身支度を整えている間に勝手に窓辺のソファーに腰掛けて、リンゴにかぶりつく。しゃぐ、しゃり。果汁が飛び散って、また甘い香りが漂うのだろうか。種に当たるまで歯でかじったリンゴは次第にそのぷっくりとした赤い肢体をやせ細らせ、ついには無惨な骨のようになる。
 「フルーツが好きなのか」
 「ええ。昔の話ですが、母型の実家で桃を育てていましてね…それこそ、木からもいで食べて良いと言われたものです」
 「贅沢だな」
 キングは最低限にしかカワダに心を寄せないようにしているのか、あまり口数が少ない。元々喋る方ではないが、ことさらカワダと会う時は、どうにも口数を減らした。
 「今食べて大丈夫なのか」
 「食べたくなってしまいましてね。リンゴはいつでも店頭に並んでますが、この時期は蜜柑なんかいい。甘酸っぱくて」
 「そうではなく」
 キングの質問の意図に気付き、カワダはああと頷いた。
 「吐き出してしまうのではと、心配くださったのですね?」
 カワダは何故か嬉しそうに笑った。この二人にはある秘密がある。人生の終わりに差し掛かるような年齢である。抱えた秘密は墓場までか、日記に吐き出すか、あるいは哀れな同士を見つけるかだ。カワダはキングに、首を絞められることを望んでいる。だがそれは自殺ほう助ではなく、あくまで気分が良くなるところで止めて欲しいと言うのだ。キングはカワダにとって、理想的な手の持ち主らしい。あとは性格も申し分ない。首を絞められるのなら尊敬できる男であってほしい、殺されてもいいと思うような相手でありたい。その条件に合致するのがハル・キングだったわけだ。カワダは続ける。
 「苦しくて吐き出すことはあまりないと思いますよ」
 「しかし、噎せたら分からないだろう」
 「どちらかといえば、失禁を心配していますがね」
 冗談じゃないとキングは思った。ここはキングが使用している宿なのだ。勝手に失禁でもされてホテルに迷惑を掛けたくない。不安げに目を細めるキングに、カワダは大丈夫ですよと笑った。
 「先に済ませますから」
 「…まあいい。君の気が済むのならとっとやろう。細君も心配するだろう」
 「それは大丈夫ですよ。海自の妻ですから」
 私が大丈夫ではないという単語をキングは飲み込んだ。彼は恵まれた体格をしている。必要とあれば暴力は、怒りと共に彼の身を衝いて、周囲をめちゃくちゃに出来るだろう。その暴力を忌避している。キングはあえて毛嫌いしている。神から力を与えられはしたが、その力に溺れ、支配されてはいけないのが加虐を楽しむ愉悦であると己を律している。対する首を絞めてくれと言うのは、カワダは被虐を楽しんでいるのだろう。それを否定する気はない。だが被虐は加虐の元で成り立つのだと考えると、キングは毛嫌いしている”意味もない暴力”を認めなければならなかった。苦しい作業である。だからすぐに終わらせてしまいたいのだ。
 「跡が残れば、きっと細君は心配するのだろうな」
 「大丈夫です。彼女が寝静まる頃には帰りますから」
 酒が苦手なカワダである。それまでどこで時間と潰すのかと疑問は浮かんだが、そんな些末な事よりも今は目の前に集中しなければならない。一度了承してしまったので、二度目をやらなければ。そんな律義さを持ち合わせなくても良いのにとカワダは思う。だがそこに遠慮なく甘えられるのがキングの良い所だ。昔懐かしい、海で散った父の手をいつも思い出す。頬を包み、頭を撫でてくれるのも気分が良いが、首を絞めて天国の手前で止めてもらえるのは格別だ。ベッドに横たわるカワダの上に、キングが乗る。大きな手が、首に掛かった。どきどきと心臓が高鳴り、先程のリンゴが期待して登って来る胃液と混じってとても酸っぱい物となり口いっぱいに支配する。その不愉快さを消してくれるのが、今からなのだ。まだ始まっていないのに、とろんとするカワダの目を見つめながら、それを一瞬だけ忌避するような軽蔑するような目をして、キングは一気に指先に力を込める。
 「あ、が…ぁ…」
 首の中に指がめりこみ、酸素の行道が断たれて、苦しみが一気に頭を破裂させんとぼんと膨らむ。だがだんだんと脳内物質が天国への階段を作り出して、ぼんやりとした意識に唐突に快楽物質が流れ込んで、ふわあ…という浮遊感が包むのだ。
 苦しい時、締めている加害者の指は無情な暴力でむごたらしくてひどくて敵なのに、このあまあい時間ではこの指は仏様が誘ってくれるような優しい指なのである。最終的にキングに締めてもらえて幸せになる。全身が脱力し、心地よさでうっとりとして、重い肉体を捨てて魂が空に飛び立つような気がする。だがふっと指の力が緩むと、酸素が入ってきて途端に噎せるのだ。より多くの呼吸を取り戻そうとして、必死に動く肺が胸の奥で痛い。その帰還を経て、まだ首に掛かる手の大きさと温かさに、もう一度カワダは顔をとろけさせた。
 「きもちいいです」
 「…」
 戻って来たカワダを案じるでも、良かったと同調するでもなくキングは黙る。この両手が次第にカワダの首の感触を覚えているのが、今は煩わしかった。
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