閉鎖空間において人々の苛立ちは、手狭な人間関係に向けられる。同種の生物であるのに醜く争い、互いにいがみ合い、弱者に狙いを定めるとよってたかって虐めることでうっぷんを晴らす。国防の為だからと大義名分があったとて、人々の心に渦巻く理不尽な環境への怒りのようなものは消えることはない。むしろ過酷な環境で手に入れた肉の鎧を纏うからこそ、その手足から発する暴力は多大な物になる。純粋な暴力だ。肉と骨を凶器に変えたその威力は人の顔を砕き、血を噴出させ…憎むべきものである。ひとたびその光景を目にすると、この世から暴力というものは無くさねばなるまいと誓う。殴られているのが女性であれ白人であれ黒人であれ黄色人種であれ、男性であれ子供であれ老人であれ、その暴力に晒されていい人間はこの世にいない。ハル・キングは恵まれた体躯を持ちながら、暴力がもたらす利益には懐疑的であった。何回か彼の目は地獄を見て来たかもしれない。だからこそ穏やかに冷静に、彼は力を奮うことを拒んできた。だが、今その巨大な手を他人の首にやっている。指先に力を込める。肌に、骨のないやわらかな首に食い込んでいく。ここには気道がある。人間の呼吸に必要なものだ。そこに指をかけて力を込めると、きゅうと簡単に筒状の気道は締まる。本来なら苦しみもがくところだが、この気道を塞ぐのにはコツがある。苦しみを感じるのか、酸素が供給されず酸欠状態になってふうっと意識を失えるところがある。その見極めも暴力の一環だが、頼まれてしているものだから暴力と名付けていいか分からない。
かひゅ、と呼気が漏れた。その吐息を合図に指の力を緩める。締まっていた気道が徐々に開き、酸素が肺に供給されて危険信号を出していた体は、生きるためにより多くの酸素を求めて胸を激しく上下させる。正気から遠ざかっていた瞳がぐるんと回って前に戻って来たので、キングは安堵した。生きている。
「…はぁっ…は……良かったです」
先程まで死にそうになっていた身として相応しくない言葉のように思えたが、首を絞められていたカワダは満足げだ。唇からこぼれて垂れた唾液を手で拭う。呼吸が元に戻って、脱力したかのようにベッドに横たわった。ATF解散後に二人が会ったのは、偶然仕事でキングが日本を訪れたことから始まる。一人旅の慰みに懐かしさを求めての行動だったが、カワダは快く了承してくれた。肌寒いので街の人間は長袖で、カワダもマフラーをして待ち合わせ場所に現れる。それからどうして、借りた部屋のベッドの上でカワダの首を絞めることになったのか。思い返してみると、苦手だったはずの酒が少々だけ入ったカワダが頼んで来たことが始まりだった。
「首を絞めてくれませんか」
「何かの隠語か?」
「いいえ、直接的な意味ですよ。貴方の手は大きいから、さぞ気持ちが良いんだろうなあと…」
酔った戯言かと思ったが、宿はどこかと尋ねられて答えると、飲み直そうと言うので宿に戻ると、部屋に入るやいなやキングの両手を掴み、自分の首に持ち上げて、ぴたりと当ててみせた。
「大きいな、やっぱり。人種の差ですかね、同じ身長の日本人よりも、ずうっと大きい」
「イサオ、酒の席の冗談だろう?」
「違いますよ。私は、貴方に首を絞めてもらいたいんですよハル」
冗談と流すのにはほほえみがあまりにも綺麗過ぎた。嘘の混じっていない混じりけに、寒気が来る前に何故か高揚が、酒のせいか体を巡った。咄嗟にカワダから目を逸らしたのに、その一秒にも満たない間を見逃さなかったらしくカワダはにこにこと笑う。
「ほぉら。思った通りです。貴方にも少しだけ兆候がある」
「兆候?」
「暴力を毛嫌いする人間は、心の底では暴力を肯定しているんですよ。だから、心と世間のずれを起こさない為にわざと嫌う。違いますか」
「違うな。私は暴力による解決は、何も生まないと信じている」
「それじゃあ狂人の頼みを聞いてくれませんか。いいなあ、あたたかくて大きくて…子供の頃の父親の手みたいだ」
酒が狂気を後押ししているのだろうか、カワダはうっとりとしてキングの手を評価する。締め方は教えるからと言われた。そこで了承してしまった。断りきるほどの正気が、キングには無かったのかもしれない。夜の闇の中で、手がぽつんとこちらに手招きするかのような、不気味さと同時に艶めいた誘惑がそこにはあった。夜の狂気が見せる幻のようなものかもしれない。力を奮うだけが暴力ではないのだ。この逃げられぬ誘惑もひとつの暴力である。それに、抗えなかった。そうして首を絞めてやって、満足したカワダがマフラーを首に巻き付ける。まさか長袖の季節に会おうとしたのは、この為だったのだろうか。ぞっとしたものが背を走る。ずっと付け狙っていた機会だったのかという疑心でカワダを見やるが、彼はにこにこと屈託なく笑うだけだった。まるで昔からの親友であったかのような気さくさである。
「やっぱり貴方は私の見込んだとおりだった」
「…褒められている気がしないな」
「褒めていますよ。あの時、うちの三尉に尋問を許したのは、貴方の慎重さだと言う人間もいたが、私は違う。貴方は暴力を知っているから、その怖さを持って解決に導こうとしたのです」
「根に持つのは当然のことだろう。日本国が、私に不信感を持つのは致し方ない」
「不信感は最初はありましたが、それも無くなりました。その代わり、私は貴方に首を絞めてもらいたくなった」
「それは、アオ三尉の復讐の為に?」
「いいえ。私はいつか、この男の為に死んでもいいと思える者が見つかれば、その男に首を絞められるのを願っていたのです」
「…子供のころから被虐趣味が?」
「いえ。入隊してからです。柔道の締め技を上官がふざけてかけてきましてね…その時の感覚が忘れられなくなった。でも、首を絞められるだけじゃ物足りなくなったのですよ。妻にも頼んだことはありません。私が望むのはもっと、私よりも強くて大きく、尊敬できる相手でなければ」
カワダにとって尊敬できる相手、殺されてもいい相手。それが自分だと、キングの中に浸透するのには少々時間が掛かった。
「夢見心地ですよ、今は。このまま捨て身の護衛艦に乗れと言われれば、私は喜んで海の藻屑になるでしょう」
明確な受け答え、明確な理由、明確な意識。それなのにどれを取っても狂気にしか感じられないのは、自分の経験不足だろうか。人間は心理として、自分が知らぬものを拒絶する傾向にある。だからカワダを突っぱねてもいいのだが、それが難しいのはあまりにも密度の濃い時間を共に過ごしたからだ。
「肉体的に繋がれる年齢じゃない。それに立場もある。このくらいは、許されたっていいでしょう」
「私は満たされてはいないのだがな?」
「それも、じきに満たされる。私は貴方をよく見ていましたのでね」
さあ檻を解き放ってやる、口輪を外してやる、さあこちらを襲って来い、だってお前は獣なのだから。飼いならされた、否己が飼いならしてきた本能の奥にいる獣に、カワダは無邪気にそう言って笑うようである。マフラーを巻き、身支度をすっかり整えるとそれではまたの機会にと言い残して部屋を出て行った。彼がいなくなった部屋は、急に狂気の色を失って、ただのホテルの部屋に戻った。だがキングは彼が寝転んでいたベッドに腰掛ける気になれず、窓辺のソファーに息を吐きながら腰掛ける。また来るのだろうか、彼は。手を見やる。科学的な検査をすれば、カワダの皮膚片が残されているかもしれないが、何の変哲もないいつもの自分の手である。キングは手を握りしめた。暴力にはこれからも頼る事はしないつもりだと、改めて誓いを立てるがまたあの狂気の色に包まれたら、今度はどうなるか分からなかった。