「腰が抜けてしまいますよ」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味です。今度出会えたら、骨抜きにして差し上げますからねぇ」
「それは楽しみだな」
酒が苦手なのは口が滑るからだ。理性が弱まり、普段なら口にしないような事を喋り、質の悪い事に自分の脳はその言葉を覚えていない。だから大抵の酒の席の後に周囲からああ言っていたがどうする、こうすべきだろうかと言われ、初めてそこで自分の失言に気が付く。だから酒からなるべく遠ざかっていたのに、祝賀であるからと一杯だけ付き合ったのが数か月前。カワダ・イサオは母国に戻り職務に邁進していたある日、突然ぽっとキングからの連絡が入った。公的な連絡ではなく私的な連絡である。何かあっただろうかと首を傾げていると、いつ骨抜きにしてくれるのかという文言がそこに並んでいる。メールであったのが幸いだ。呆然唖然とした顔が相手に見られないで済む。カワダは顔を押さえて瞬時に理解すると、過去の自分を呪った。酒に呑まれてまた何か言ったのだ。最悪だ。カワダは酒に弱いが二日酔いがない体質で、翌日けろっとしているのだが、周囲と自分に起こした波紋は消えない。だから質が悪い。よりにもよってキングに、ATFで司令官を務めあげたハル・キングに何を言っているのだろう自分は。
国は違えど、苦楽を共にした尊敬の念を抱ける上官である。年齢は少しだけ離れているが気さくな人物だ。とはいえプライベートなことをべらべらと話す口の軽さは無い。彼が私的な事をつぶやいたのは、作戦が一息ついた後のほんのわずかな時間だけだ。それだけが、司令部に許された故郷や家族の事を話せる時間だった。ハルは緊張感を紛らわすために積極的にその時間を作った。故郷の名物や美しい名所、人。この戦争が終われば行ってみたいと思わせるような実感のこもったプレゼンテーションは、直面した強大な危機を目の前にした軍人の頭を休める効果があったのだろう。あれも素晴らしい、これも素晴らしい。この世界はどこも素晴らしい。そうだ、その素晴らしい世界が今、強大な敵によって失われようとしている。その緊張感が彼らの襟を正し、気を引き締めて恐怖によって這いずり寄る狂気を遠ざけていた。そうして生まれた強固な連帯感と絆によるやり取りで芽生えた感情を、よりにもよって本人に吐露するするやつがあるか! 過去の自分を叱り飛ばせるのならカワダはそう言いたい。なんて返そう、とのろのろとした緩慢な動作で彼はメール画面を眺めた。弱った。酒の力を借りてしまおうかと考えたが、そうなると誤字脱字が非常に気に掛かる。それにもっとまずい文章でも送り付ける可能性がある。齢五十二だぞこちらは。今までの人生で積んできた経験即が全てがらがらと崩れ去るような気がして、画面の前てタイピングが出来ない。将官のお嬢さんと結婚し、いつひ孫が見られるかというテンプレート通りの幸せのレールに乗ってきたつもりだった。日本では、そのテンプレートが最上級だと言われている。皆健やかであれ皆優秀であれ皆勤勉であれ皆子を残せの精神によって生まれた幸せに、疑問を抱くのは変わり者と言われる。ただままならなのが軍人のである。いつしか心が通うと感じるようになったのは、過酷な環境下での軍人同士の交流であった。妻は別の世界をカワダにもたらす。仮面が幾つもあるのなら、家庭での仮面と軍人としての仮面とがあって、そのどちらも自分でありながら、心の底に沈めてしまった自分がいる。家族への愛情は変わらない。ただ心はどこかへ羽ばたこうとしていて、それを重い鎖で五十二年繋いできたのが現状だ。その鎖を解くのが酒の可能性があった。だから苦手なのだという事にした。それなのにキングには開放してしまった。そうだと思いカワダはキングに謝絶の言葉を並べると、すぐに返信があった。今度米国に遊びに来ないかという。うわあどうしよう。汗が自宅だというのに零れ落ちてきて、慌ててハンドタオルで拭いた。
家族でお邪魔します。
君一人だと思っていたんだが。
カワダは頭を抱えた。うわあどうしよう。まさか、キングだってからかうつもりで送ってきているのかもしれない。常識的に考えればその通りだ。それに米国である、ちょっと海釣りに行ってくると言うレベルの外出ではない。入念な準備をしてようやく異国の地を踏める距離なのだ。出掛けるのはいいが、いやどうせなら家族も連れて行って…。というのが一般的な考えである。だがけっして家族を欺くわけではないが、ここでたった一人でキングに会いに行ったのなら、どうなるのか。魔が差すとは、こういうことを言う。
成人男性が異国を一人旅したいと言えば、家族への不義理だの、一人だけ楽しむのは悪だのと言われる。庇護すべき子供の手も離れ、妻が一人で出掛けるのも旅行するのも咎められはしない。ただ男性だけが何故か言われてしまう。アンバランスな性差を抱えた国で、別に世論を気にするわけではないが、突然の衝動としてカワダは一人で行ってみたくなった。もちろん家族には一人旅行だと伝えて、了解を得てからだ。もし了が得られたのなら、あの緊張感で育まれた強力な絆を今一度再確認できるかもしれない。それが慰めになると思った。戦争は当然ながら不要として、不要であるが、もう一度味わいたい強烈な絆と連帯感…これは妻にも家族にも求められない物だ。ともすればキングにだけ打ち明けられる物である。神父の前で義理立てた不滅の愛とはまた違う、一般的な浮気な心とも違う。魂の浮気である。
カワダは暫し考えた。肉体的な浮気よりも魂の方が、なんだか裏切りが強い気がする。肉体的な浮気に心躍ったことはなかったが、魂はすっかり軍人になっていて、非日常をかえって楽しむ気概でなければ壊れてしまう境地をとっくに迎えていた。だから日常の些細な幸せを見出し、梅を愛で桜を楽しみ、新緑に癒され紅葉に小躍りし、雪にはしゃぐ。そうやって積み重なる幸せより、戦艦に乗り込み思考を巡らせ戦局を見つめる事への喜びのほうが、とっくに大きかった。貴方は海図と結婚するのかと思ってました。そう言えば妻に言われたことがあった。そんなまさかと笑って流したが、あの時から心はとっくの昔の海の上にいたのかもしれない。そう考えると、今まできちんと守ってきた家庭をわざわざ天秤に掛けて、裏切りだのなんだのを考えるのは無駄な気がした。裏切るとか、不義理という部類を超えている。カワダは、妻が一人旅行に反対しない気がしていた。
一人でうかがいます。
そう打ち込むと、大きなため息を吐いた。自分が軽薄短小であったことを今更突きつけられた気がしたが、そこまで薄い人生では無かったはずである。思い返せば不遇も幸運も多々あった。だけれど、沈み込んだ心を、底からそろそろ引き上げてもいい頃合いである。もう全てが遅いかもしれないが、あの勇気を爆発させて世界を救ったブレイバーンにあてられたのだろうか。思い立ったことに、いつだって遅くはないはずだ。
「タイムズスクエアを選んだのはなぜ…?」
人だかりが多く、観光地としての見どころは抜群だ。だがキングは静かな場所を好むと思っていたのでカワダがそう尋ねると、隣のキングは答える。
「ブレイバーンが出現した場所を、巡ってみたくてな」
「なるほど。それでは最後までお供します」
カワダは笑った。苦笑いだった。だがキングも苦笑いのち、ほほえみを浮かべる。
「イサオは来ないかと思ったんだがな」
「私が臆病者に見えましたか?」
「骨抜きがどうしても気に掛かってね」
失言を蒸し返され、カワダは少しだけ表情を固くする。
「他に何か言ってましたか? 私は、酒が入ると覚えていないもので」
「私の腰が抜けてしまう、とも」
「はあ」
大きなため息だった。カワダは手で顔を覆うと、過去の自分を呪い始めた。頼むからそういうセクシャルハラスメントは、三十年前に言ってくれ。それなばら冗談だとまだ笑って許し合えたのに。それか、一晩の過ちが許し合える関係でもあったのに。
「日本には、腰を抜かすほどの美しい光景があるんだろう。きっと紹介してくれ」
「それは、勿論です」
うまく解釈してくれたものだ。カワダには、キングの気遣いが染み入る。このタイムズスクエアの景色が、先程より輝いて見えたのは目の錯覚ではないだろう。腰が抜けるほどの世界の絶景を、カワダはこれからこの目に焼き付けていくのだろうと思った。