「イサミ、イサミどうしよう…!?」
目の前で涙を浮かべるルルに即答が出来ず、イサミはただ力なく項垂れるルルの両肩を優しく抱いた。十五歳の娘である。難しい所はあるが、それなりにうまくやって来たつもりだ。だが年を経る毎に娘の交友関係は複雑化し、大人には介入出来なくなっている。そのコミュニティの中で起きた問題に、娘は打ちひしがれて大人を頼りにやって来た。ううう、と泣くルルを胸に抱き、背中を撫でながらイサミは尋ねる。
「ルル。大丈夫だ。大丈夫…俺は味方だから」
「…うぅぅ……」
「スミスだって花屋のみんなだってルルの味方だ。大丈夫。落ち着いて話してくれ。…何があった?」
「ヒワちゃん、…イサミヒワちゃんって覚えてる?」
「クラスで一番可愛いって言ってた子か? ヒワダさんだろ」
去年のルルのクラスメイトの一人である。マドンナ的な存在で、変わった名前であるから憶えていた。確か鳥の鶸が名前に入っているから鶸田。珍しいと思った。去年のルルのいじめに陰で加担していた子だったが、テロリストの学校占拠事件のあとに和解し、何度か遊びに行った仲のはずだ。そのヒワが何かあったのか、十五歳の多感な年齢である。友達を思ってルルは泣いているのか、核心が読めない。
「ヒワちゃん、お父さんが浮気者で、今もたまにしか家に帰らなくて。でもお母さんは働いたことなくて、たまにおばあちゃん家から通ってるんだけど…」
家庭の事情は複雑だ。思春期に酷な家庭環境だが、ルルが泣くのは彼女の身の上を思ってと言うよりも、迫真のものがあった。それで?と促す。ようやくルルは泣き止み始めた。
「ヒワちゃん、マッチングアプリで年齢嘘言ってて、お兄さんと会ったんだって」
「マッチングアプリ? それじゃ、知らない相手ってことか」
「それで、そのお兄さんに何回か人生相談して、今日三回目のデートらしいんだけど」
イサミは時刻を見やる。11時だ。まだ日は明るい。
「体触られた、たすけてって」
ルルが見せてくれたチャット画面では、ひらがな交じりの文章が15分前に送信されている。ヒワはきっと親に何も言っていないのだろう。友達間の秘密だったのだ。だが成人からの危害を加えられ、ヒワが助けを求められるのは子供にしかなかった。ルルを選んだ。それを見た瞬間、ルルは自分で助けに行こうと家を飛び出した。だがそれからが問題だった。見慣れた町は、加害者と被害者を隠すにはあまりにも大きい。都心部に行けば猶更である。ヒワにどこにいるのか尋ねても、カラオケ店としか分からない。無数にあるカラオケ店を選んで飛び込んでみては、店員にあしらわれて時間だけが無情に過ぎていく。その無謀な聞き込みを繰り返し、あてどなくこの世で最も長い15分間を彷徨っていた時に、休日だからとジムに朝から行っていたイサミがふらりとルルの前に現れた。無駄骨に無力感、疲労と絶望があいまってルルは目に涙いっぱい浮かべてイサミに縋りついた。交通量の多い道路であったから、端に寄ってルルの必死の訴えを聞き、イサミは分かったと頷く。
「俺も手伝う。ヒワさんに、何か聞けないか? それとどこで出会うとかは」
「えっと、そうだ。喫茶×××に行くって昨日言ってた」
「じゃあその近くだ。ヒワさんの家の近くから当たろう」
喫茶×××はチェーン店だ。骨の折れる作業である。だが性的暴行が起きている以上、見殺しにもできない。イサミはまずヒワの親の連絡先を探ろうと思い、学校に電話した。最初は若い先生に繋がったが、都合良くカイガ先生が出てくれた。
「いつもお世話になっております。実は、去年ルルと一緒だったヒワダさんの事で」
「あ!? ダメ、イサミ! ヒワちゃんはみんなに内緒って!」
「すみません、ちょっと。…もうこの問題は、ルルと俺だけじゃだめだ。警察だって動いてもらわないといけないし、何よりその方が早い」
「でも…でも!」
あくまで内密に。そう叫びたいルルの気持ちも分かる。子供だから大人に迷惑を掛けたくない、あるいは迷惑を掛けて大人に見捨てられたくない。思春期はその揺れ動く心の中で、大人にいつ頼ればいいのかを見誤りがちである。だがイサミには子供同士の冒険ではなく、成人男性による監禁、暴行、誘拐事件に見えるのだ。だからヒワの母親に電話を掛ける。出ない。
「いないのか?」
「ヒワちゃんのお母さん、お稽古とかたくさんやってるみたい」
「でも娘さんの事なんだ。もう一度掛けてみる」
六回目の着信で、ようやく繋がった。はい、とどこか弱弱しい声の女性が、素直に電話に出たようだった。イサミは自己紹介と事のあらましを説明する。横でルルがヒワに義理立て出来なかったことに顔を歪めながらも、ヒワにメッセージを送っていた。少しでも手がかりが欲しいのだ。
「驚かないでください。お嬢さんがマッチングアプリで何度か会っていた男と今日出掛けていて、出先で体を触られたと」
「あら」
「SOSがうちの娘に来まして。今手分けして探しているんです、突然のことで驚かれたでしょうが、お母さんもこちらに」
「いいんじゃありません?」
「え?」
「その男の人が妊娠でもさせたなら、結婚すれば。そしたら変な血が入って、ヒワダ家の血は途絶えますから」
「…何を仰ってるんですか?」
母親の言葉はあくまで淡々としていて、それでいてヒワダ家と口にした辺りで憎悪を纏わせた。母親が父親の家を嫌っているのは事実として、その事実と娘の安全は別問題ではなかろうか。イサミは慌てる。
「まだヒワさんは15歳ですよ?! 体に何かされては、一生の傷に」
「大げさね。女はもう少し丈夫に出来てますから。それじゃあ切りますね」
「あの! …あの!?」
イサミは切られた通話音を聞きながら呆然とした。危機は伝えたが、このままではヒワの味方はいないのではないか。だがルルは、ルルはヒワの味方だ。イサミも同様である。カイガ先生から電話がかかって来た。
「今先程の事を通報いたしました。10分後に、喫茶店から近いカラオケ店に向かってくださるそうです」
「ありがとうございます! でも、でもヒワダさんは…」
「…分かっています。ただ、今はヒワダさんのお母さんは、自由な身ではないのかもしれません」
カイガ先生の言葉にイサミは首を傾げる。
「どういう意味でしょうか?」
「おそらく、二時間後とかなら。ヒワダさんがお話してくださるはずですよ。私から申し上げられません、ごめんなさいアオさん」
不思議な言い方であったが、カイガ先生は非協力的な人ではないという確信がある。だから今は従っておくことにした。ルルが腕を引っ張るので、先程追い払われたカラオケ店に行くと言う。
「イサミも来て。大人がいたら違うから」
「わ、分かった。行こう」
まだ昼前である。休日であるため人通りは多く、通りにヒワがいるのかを注意深く見ながらも二人は駆け出した。
「また君か」
カラオケ店の受付にいた店員が、うんざりした顔でルルを見やる。入るなりその顔だ。どうやらしつこく食い下がったらしく、ルルは不機嫌な大人に怯みはしたもののイサミの腕を掴んで、スマホを握り締める。
「大人。連れて来た」
「だからって、個人情報とか守秘義務とかがあるの! そう簡単に教えられない」
「あの、すみません」
店員はルルしか見えていないのか、ようやくイサミに目をやった。ほんの少しだけ表情を変えるが、不遜な態度は変わらない。
「あんた誰」
「この子の親です。この子の友達が、成人の男と一緒に来てたはずですが、見かけませんでしたか」
「知りませんね」
興味を失ったとばかりに顔を背ける店員に、ルルがスマホを突き出した。ルルとヒワが写っている。心底面倒くさそうに店員が言った。
「これが何?」
「この子を見かけませんでしたか。男の人と一緒だったはずなんですが」
「知りません。もう営業妨害なんで帰ってください」
店員にもマニュアルがあり、そういった答えは出来ないのだと頭では分かっている。だが先程から、店員はルルへの悪感情を表に出して隠そうともしない。何か言ったのかと小声で尋ねると、最初からそうだったとルルから返って来る。社会に出た経験上、特定の客に敵意をむき出しにする店員は残念ながら存在する。隣に気弱そうな店員もいるが、こちらには目を合わせない。これじゃあ探しようが無いので出ようと諦めると、店に警察の制服を着た若い男が入ってきた。
「通報を受けまして、15歳の女の子が成人男性に連れられていると聞いたのですが、お心当たりはございませんか」
「! それ、ヒワちゃんの!?」
ルルがカウンターと警察の間を割って入る。若い警官だったがすぐにルルに笑顔を見せてくれた。
「もしかして、ヒワダさんと仲良い子かな?」
「そう! ヒワちゃん、この近くで無理矢理連れて行かれたって…ここが一番近いんだけど、でも」
店員があまりにも非協力的すぎると言いかけて言わぬようにして、しかしルルの目は店員を見やっていた。店員が警察の視線を受けてぎょっとしたような顔をする。
「何か変わった事や目撃情報などはありませんでしたか」
「あー。あー…これはお客様の苦情だったんですけどね。若い大学生の女の子が、トイレで泣いてる女を見たって」
「それはいつですか」
「20分…ぐらい前ですかねー」
「それ、ヒワちゃんじゃないの?!」
「そんなの巡回するほどじゃないし、見てません。その後他のお客様から、一室がいやに騒がしくて苦情が入りました。多分、中学生ぐらいの子供と背の高い男だったかなー。でも退出時間前に出て来たから、見てません」
「その中学生、この子の隣の子ですか」
警察がルルのスマホの画面を指差す。店員は素知らぬ顔をしながら頷いた。行動はしなかったのか!? そう咎めるのは簡単であるが、面倒事を極端に嫌う性格なのかもしれない。平時ではその性格で自由に生きればいいが、有事の際には役に立たない。
「その子供と大人はどこに行きましたか」
「どこって、知りませんよ」
「防犯カメラはありますか」
「ルル見てくる!」
待ちきれずにルルが表へと飛び出し、左に行った。イサミも慌てて追う。ルルだけで対峙するとなれば危険だからだ。警官は防犯カメラの映像を見られないかと隣の店員に持ち掛けている。すると、件の店員が何故かひどく追い詰められたような顔をして頭をがりがりと掻きだした。
「左に行きましたよ、左に!」
素直に言わないと爆発する爆弾でも腹に飼っているのだろうか。警官は嘘が無いことを念押しして店を出ると、左に自転車を走らせた。
「ヒワちゃんからメッセージ来た!」
ルルが突然立ち止まるので、スマホを覗くとどうやら今はファミレスにいるらしい。ファミレスったって、東京にはたくさんある。ヒワが無事なのかも分からないが、まずは見つける事が先決だ。だがぐるっと回っても繁華街。見渡した各ビルの一つには飲食店があるんじゃないかと思う場所だ。咄嗟にスマホで「近く ファミレス」と入力していると有名チェーン店が三軒ほど出て来た。これを一軒、一軒巡っている間に見つけられるのだろうか。そう考えているうちに、きい、と自転車のブレーキ音が真後ろで聞こえた。
「お父さん! あとご友人の方」
警官である。ルルがこれ幸いとばかりに説明した。近くのファミレスと呼ばれるのは三軒ほどだともイサミは言う。だがチェーン店ではなく、あくまでヒワの主観のファミレスを指すのであれば分からない。こじんまりとした洋食店もファミレスと勘違いしていたら、検索のしようもないが、ひとまず三軒当たります、と警官が言うのでルルはこっち行く!と飛び出していく。イサミも後を追おうとしたが、三軒なら一人一軒が効率が良い。イサミは逆方向に向かうとして、警官が残った方に行く事になった。
ファミレスにはいなかった。ルルが案内板にも目もくれずに中に飛び込んだので、少々変な目で見られたがいなかった。イサミも同様である。戻って来たルルにイサミが声を掛けると、首を振る。もう移動したのかと思ったが、休日でとにかく人通りが多いので逃げることは容易だろう。警察官も収穫が無かったように自転車に戻って来た。もう移動したのだろうと言うのが見解だ。
「ヒワちゃん…」
「とにかく、ファミレスがダメなら飲食店を当たろう。消えるはずなんてない」
イサミの一言に、スマホを不安げに握りしめていたルルがうんと頷く。一方のヒワである。男に連れられ、何の注文もしていないがファミレスを出た後に電車に乗って一駅先の駅前広場に来ていた。そこにはキッチンカーが沢山出ている。時刻は12時ごろで昼時は賑わっていた。ポーパルチープムもその祭りに参加しており、ゴミとして串を片付けに来た少女がふらりと現れて、彼の陰で座り込んだのに気が付いた。
「いかがした、お客人」
「…?」
「こっちこっち。キッチンカーだよ~」
陽気にそう言うので、顔面蒼白だったヒワは少しだけ顔を上げて周囲を見渡す。隠れているのだ。男は近くのテーブル席で寛いでいる。陰や死角を見つけるのはヒワにとってお手の物で、男に見つからぬようにうずくまっていたのだが、まさか車に話しかけられると思っていなかったようだ。
「車…?」
「そうだよ。どうしたんだお嬢さん。気分でも悪いのかい」
「怖い。怖いの。あの男に連れ回されて…」
「連れ回された?」
穏やかではない単語に、ポーパルチープムは緊急通報を考える。そうこうしているうちに、少女を探すように男が立ち回っている。ポーパルチープムカレンを呼び寄せた。彼女は普段は農家とのたい肥の調整や契約を進めるのだが、たまたま本日はキッチンカーの盛況ぶりを見に来ていた。休日返上の出勤だが、ポーパルチープムの売り上げを見て満足している。そこに呼び寄せられ、カレンは不思議そうな顔である。
「なあに、どうしたのよポーパルチープム」
「今から通報する。その子が男に連れ回されているらしい」
「え?」
穏やかではない単語に、カレンの顔色が変わる。ポーパルチープムが言うのには、今から通報するので男と少女を足止めして欲しいと言う。了承する間もなく、男が見つけ出したのかつかつかと歩み寄って来た。カレンよりも長身で、どこにでもいる男性のように思える。前髪が少々長いがそれも一つのヘアスタイルだと思えば、本当に普通の男性である。この男が中学生を連れ回しているのか、一瞬面食らったがカレンはすぐににこやかな笑みを見せた。だが男は無表情で、少女に手を伸ばす。
「ほら、行くぞ」
少女の肩を無理矢理掴み、逃がさないように手をつなぐ。少女が怯えていなければ恋人か家族と思しき行動だ。ポーパルチープムはイーラに繋いだ。緊急通報先は基本的に通話になるので、通話を避けるのにはパトカーであるイーラに言うのが手っ取り早い。なんだい、とイーラが返したので今どこどこにいるのだと告げた後、少女と不審な男がいると伝える。今足止めをしているからと言うと、すぐ向かうと約束してくれた。公的な通報ではないが、イーラは警察車両であり、警察に登録されている高性能AIである。AI同士の通報は公的な物とはならないが、だからとって非公式でもない。ホノカを連れて偶然パトロール中に見つけたことにするのだ。交通状況から考えるのに、五分程度はかかるだろう。運転席のホノカに通報だと告げ、イーラは急遽左に曲がった。
「あの、お兄様? お父さんかな? 随分お若いのね」
カレンは人懐っこい顔で少女と男の間に割り込んだ。少女が助けを求めるような目でカレンを見やる。これは緊急事態だとカレンにも感じたようだ。
「お嬢さん? それとも妹さんかしら。可愛らしいですね、とっても!」
「なんなんですか、あなた」
男は強引なカレンの行動に少し警戒しているようだ。だがここで足止めをしなければならない。カレンは社会人で身に着けたにこやかなスマイルで接客を続ける。
「実は今、来場者の皆様にアンケートを取っていまして。ね? あなた書いてみない? 書いてもらえると、農家の皆さんが喜ぶんだけどなー。うちはね、こういう串も再利用可能な素材を使っててね。これをこのキッチンカーに入れると」
「なんなんですか、もういいでしょ」
男は後ろめたいことがあるのかもしれない、足早にカレンの営業トークを交わそうとする。その様子がポーパルチープムからもよく見えた。内蔵されたカメラで映像をリアルタイムでイーラに送っている。到着まであと四分二十秒ほど。カレンは売り込むような文言を崩さない。
「そんな冷たいこと言わないで。ね? お嬢さんとっても可愛らしいし」
「娘じゃないです」
「じゃあお兄さんかしら? 妹さんみたいな子に、代表でお願いしたいんです。写真も撮りたいな。ね、うちの会社で社内報があるんだけど、その表紙になってみない?」
「お断りします。急いでるんで」
「そんな事言わないで。ね、妹さんはどうかしら?」
ここでヒワが兄ではないと言えば事は進むのだろうが、彼女は怯えてしまって力強くそういうことを言えない気質だった。だから怯えたまま何とかしてくれとカレンを見つめるだけである。だが頷いた。
「ほら、妹さんは了承してくれたしちょっとだけ。そんなに時間は取らせませんから」
「いい加減にしてくれ!」
男が突然激昂する。そのままカレンを突き飛ばした。テーブルが背後にあったので、背に椅子が当たり、地面に直接叩きつけられはしなかったが、がくんと曲がった体が地面に転がる。かなり強い勢いだ。周囲からは驚いた声が聞こえた。ポーパルチープムもだ。
「カレン!」
「だいじょうぶ」
「大丈夫ですか?!」
近くにいた若いお父さんと見られる男性や中年の女性が駆け寄って来る。椅子にぶつかった痛みはあるが、動けない程ではない。周囲を見渡すと、男性が少女の腕を引いて逃げていた。追い掛けなきゃとカレンは思うが、背中が少し痛む。ロボットアームが伸びて来て、カレンの背をさすった。
「ポーパルチープム…ごめん。逃げちゃった」
「それよりカレン、大丈夫なのか。私のせいだ…」
「貴方のせいじゃないわよ。あの子、大丈夫かしら」
「今警察に再度通報している。カレンも、傷害事件になるだろう」
「そう。あとは見つかるといいんだけど…」
イーラとホノカが到着したころには、二人は人込みに紛れてしまっていた。ポーパルチープムの録画した映像を見ている横で、救急車でカレンが運ばれていく。
「向こうに逃げてますね。追います」
ホノカが署に応援の通報をし、一人掛ける。広場を抜ければ、大きな川がある。川べりに沿うようにして巨大な歩道が作られ、ランニングやウォーキングスポットでありながら休日はイベントを行っていることもある。カメラの映像から二人を探すのは困難だが、ホノカは走り出した。
「ペシちゃーーん!」
元気なミユの声を聞きつけ、ペシミズムはライトを点滅させた。川べりの傍には巨大な建築物があり、そこではよくイベントが行われている。その帰りという風貌で、ミユは川べりにやって来ていた。そこでは粉砕機となったペシミズムを引き連れた清掃業者がおり、ゴミの分別を考えるというファミリー向けのイベントをしていたのだ。除雪機としても使えるペシミズムが上京すると知り、ミユは顔を店に来たのである。両手いっぱいにビニール袋を抱えたミユは、どうやら大量の鉢植えを購入したらしい。彼女が参加したイベントは植物市だったようだ。
「見てよこの大量の戦利品! くーたまりませんな!」
「それはいいんだが、買い過ぎではないか? 植物は言葉を喋れぬことから静謐に枯れていく…うら悲しい」
「その代わり、植物はちゃんと愛情に応えてくれるからいいの。それより、あれ社長?」
ミユがイベント会場で、ほとんどの人員が清掃員らしいつなぎを着ている中で、一人だけ高級スーツの男を指差す。四十代くらいの男だ。ペシミズムは民間の業者に所属しており、今回のイベントも社長が企画したらしいとミユは聞いていた。うむとペシミズムは頷く。
「私を使って各方面に売り込んでいるらしい。イケイケだ」
「イケイケ…」
囁き合うように二人が社長を見ていると、いつもペシミズムを運転している青年と目がかち合った。彼はミユと同級生である。ミユに向かって手を挙げてわざわざこちらに来てくれた。
「カトウ、久しぶり」
「うん、お久しぶり。今日は上京お疲れさま」
「まあービルが多くて疲れっちまうよ。田舎もんには眩し過ぎて」
ふと、同級生達の横を男と少女が横切った。イベントには目もくれず、堤防の階段を駆け上がるとすぐそばに停めてる真っ赤なスポーツカーに向かって一目散だ。あれは社長の車だ、と同級生が呟いたと同時に、少女がその中に押し込まれ、男が乗り込む。え、と二人して顔を見合わせた瞬間に発進した。
「え、行っちゃった…!」
「社長、車! 車が乗り逃げされて」
「えええ!?」
イケイケと称されていた社長が血相を変えて車を追い掛けようと階段を駆け上がる。とそこに、ホノカがやって来た。
「お、おまわりさーん!」
これ幸いとばかりにミユが説明していると、社長が肩を落として戻って来る。彼はホノカに泣き縋った。ホノカはなんとか宥めると、署に通信する。
「こちらスズナギ巡査。現在通報を受けた少女連れ去りの犯人とおぼしき男性が、スポーツカーに乗り逃げし逃走中。ナンバーはふ 22-77。ナンバーはふ 22-77。応援願います」
イーラもその通信を聞いていた。そこで彼は、他の高性能AIに通信を図る。
「もしもし、僕だけど」
「いかがした」
スペルビアが答える。
「今から言うナンバーを探して欲しい。都内にいるはずだ。ふ 22-77。赤いスポーツカー。少女連れ去りの主犯格が乗っている」
「了解しました。今出先なので、探して見ましょう」
そう言ったのはクピリダスで、消防車として出動した後だった。現場から帰還するのに、アキラの操縦を無視して道筋を変える。
「おいおいおい! 何してんだお前!」
「ちょっと友人に頼まれごとをされましてね、ちょっと寄り道を」
「目立つんだから寄り道なんかするなー!」
アキラがそう喚いてもハンドルの自由は効かない。消防署に戻らずに幹線道路に向かう羽目となった。
「むう、人探しか」
ヒワがルルの友人だとは知らないが、それならば手助けしたいのが常だ。高慢である彼は誇り高くあらねばならない。だがスペルビアの運転を任せられるのは、この世でルルだけだ。
「うぬ…」
「どうしたんだスぺルビア」
畑仕事をしていたルルの祖父が気付き、声を掛ける。穏やかな顔つきで休日に畑仕事をする、平均的かつ平凡な男性のようだ。
「何やら助力が必要のようでな…友人から頼まれたのだが、都心の話であるし、我は見過ごすほかあるまいと」
「へえ」
「都心で少女を連れ去った男が現れたらしいのだ」
孫が中学生の身である。どうにもそれは他人事ではない。祖父は手にしていたホースの栓を止めると、大本の蛇口を止めに向かった。きゅっと小気味よい音がする。
「どこに行けばいいんだ」
「それが分からぬらしい。警察でも追っているが、まだ見つからぬようでな」
「それじゃあ、ドライブがてら行こう」
「ぬ?」
「名義は九年前に私に変えてるし。スペルビアが乗せてくれるのなら、私が運転する」
「しかし…」
「これでも君の所有者の父親なんだよ、私は」
穏やかに笑う皺の寄った顔は、国産スポーツカーのスペルビアを乗りこなせるとは到底思えなかったが、その笑顔の奥にある何やら炎のようなゆらめきが、ただの凡夫ではないと思わせた。
「若い頃は、レーサーになりたくてね」
その男の車好きが、ルルの母にもうつったのだろう。祖母を呼んでくると、スペルビアは発進した。目指すは都心部である。
「ポーパルチープムの通報と方角、そこまで遠くに逃げてるわけじゃなさそうだ。この交通量なら、乗り捨てさえしなければ」
イーラに乗りながらホノカはその分析を聞いている。スポーツカーが乗り捨てられているという通信は先ほどから聞かない。ならば車で逃げていると考えるのが普通だが、少女を連れ回して車を奪い、行きつく先はどこなのか見当もつかない。
「ホノカさんならどうする?」
「私なら…私なら、人のいない所に行きますね。そこで車を乗り捨てて、電車の方が安全ですから」
「そうだね。多分アイツもそうすると思う」
休日の東京である。人でごった返す中で目に付かない場所、たとえば工業地帯だとか立ち入り禁止の場所だとか…。ナビについている地図を見やると、近くには工場がある。だが24時間稼働しているようなら人目はある。あまり現実的じゃないように思われたが、妙に気になった。警官としての勘だ。
「ここはどうでしょう」
「いいと思う。行こう」
イーラはホノカに反対意見を述べないと分かっているが、同意を得られると安心する。ホノカはハンドルを切った。自転車の警官も、関係のないあ通信が飛び交う中でホノカが目撃した情報を聞き、問い合わせていた。イサミとルルは走り通しだが、見つからずに地下鉄三駅分は歩いている。ヒワのメッセージが途絶えたので、ルルは顔面蒼白でも走り回っているし、イサミも危機感を覚えていた。ホノカの通信を聞いた警官が、分かりましたと言う。
「何かあったんですか」
「××駅の広場で、おそらくヒワダさんと思われる少女と男性がいるのが確認されました。ただ、車を奪って逃走中だそうで」
「ええ…」
ルルがさらに青い顔になるのを見て、警官も息を切らしながら笑いかけた。
「大丈夫、今仲間が助けに向かってる。すぐに見つかるから」
「イサミ。イサミ、どうしよう…」
ルルはイサミに縋る。だが娘に頼られても、イサミもこのままではあてもないし、いたずらに時間を消費すると分かっていた。警察に任せるのが一番だが、どうしても心は心配で駆け出していく。だがせめて居場所が分かれば。
「ブレイバーン!」
まさかの声にイサミが顔を上げる。彼が休みの時はサタケ店長がブレイバーンを運転すると聞いていた。運転席にサタケがいる。だが苦笑いだ。
「急にハンドルが利かなくなったと思ったら、やっぱりか」
「サタチョ~!」
「お知合いですか?」
警官に聞かれ、イサミは勤め先の店長だと説明する。どうやらブレイバーンが、いつものようにお節介を発揮してサタケのルートを無視してイサミ達の元に現れたらしい。
「俺達は、車で探してみます。あの、ありがとうございました!」
「いえ、お役に立てずすみません。必ず俺達の仲間が友達を見つけるからね、諦めちゃダメだよ」
警官はルルに優しく希望を持たせてくれる。イサミが頭を下げて発信すると、自転車にまたがってどこかへ向かった。次の通報に備えるのか見回るのか、職務に戻ったのだろう。
「さっきブレイバーンに協力要請が来ていた。なんでも、警察車両に友人がいるらしい」
「うむ。ふ 22-77だ。それが少女連れ去りのナンバーで」
「ヒワちゃん…!」
ルルが悲鳴のように声を上げたので、サタケは眉を顰めた。
「まさか、知り合いなのか?」
「ルルの友達です。さっきから探し回ってたんですが、全然見つからなくて。さっきまでチャットで繋がってたんですが、それもぱったりと」
「…心配だな。少し回ってから戻ろう。ブレイバーン、新規の注文は来ていないな?」
「ああ、サタケ店長。もちろん確認済みだ。今は既存の注文三件のみだ」
「よし、手分けして探そう」
サタケの声に、イサミとルルはそれぞれ反対の窓に貼りつく。そこでしばらく街並みを眺めていたが、該当の車は見当たらない。ふと、ルルが大声を出した。
「止めて!」
そう言うが早いか飛び出していく。イサミが慌てて追おうとするが、ルルはいいからと手で制した。
「後で合流するから! ルル先に行くとこあるの、行って!」
ブレイバーンが扉を閉めてしまったので、イサミはそれ以上何も聞けなかった。だがルルはビル街の中を確信を持って走り出したので何か考えがあるのだろう。イサミは再び窓の外を眺め始める。
ルルはあるビルの前に来ていた。確かこのビルまるごと一棟が持ち主だとヒワが言っていたのだ。そこにいつもいるみたい、愛人と。そう悲し気に言ったヒワの顔を思い出し、ルルは怒りを堪えてビルの受付に向かう。どっしりとした石造りの床に高い天井。古臭くはない。受付に向かうと、鶸田さんを呼んで欲しいと言った。休日なのに普段通りである受付は、流すようにほほえみながらルルを見やる。Tシャツにジャンパー、短パンにキャップの小柄な女の子。大人のいるであろう会社に不釣り合いなので、ご用件はと聞いてみることにしたようだ。
「ヒワちゃん、…じゃなかった。鶸田さんの娘の、同級生です。ヒワちゃんのお父さんに会いたいんです」
そう騒いでいたのが功を奏したのか、運命のいたずらか。エレベーターを降りて数名を従えながら歩く四十代ごろの男性に、受付が立ち上がると声を張り上げた。
「鶸田部長! …お客様です」
怪訝な顔をした男性の前に、ルルは飛び出した。
「あの、自分はヒワちゃん、ヒワダ・ワカナさんの友達です。ルル・スミスといいます。あの、それで」
「お友達が何のご用で? 失礼だが、今から得意先の所に出掛けなくてはならなくて」
「あの! 怒らないで聞いてください。今ヒワちゃん、大変なことになってて」
ルルはスマホを取り出し、チャット画面と今まで見聞きしたことを伝えた。ヒワが愛人といつも会社にいるのだということもうっかり喋ったのだが、それよりも父親は血相を変えてルルに尋ねる。
「今ワカナは?!」
「警察が探してる。ルルのお父さんも…でも、おかあさん来てくれない! だから、ヒワちゃんのお父さん一緒に探して!」
呆然とした大人の顔を見て、ルルはもしかしたらだめかもしれないと思った。ヒワの話を聞く限りは、愛人と会社で暮らすような男である。ヒワのことなど気にも留めないかもしれない。だがそんな予想を外れ、ヒワの父親は意を決したようにつかつかと歩き出した。玄関を出ると一台の高級車が停まっている。そこに乗り込んで得意先とやらに行くのだ、そう思った時、部下を振り返って彼は頭を下げた。
「得意先に連絡してくれ。娘を探すと」
「え、いやしかし」
「娘を見過ごせん。私も探す…ありがとう、教えてくれて」
ルルにも頭を下げて、急ぎアクセルを踏んだのだろう急発進して車は消えていった。ルルは予想が外れて驚いていたし、部下たちもぽかんとしている。だがすぐに得意先に連絡せねばと踵を返したので、ルルもはっとした。やれることはやったが、それでもまだ立ち止まってはいられない。とぼとぼと歩き出そうとした時、クラクションがルルに向かって鳴った。見ると、スペルビアだ。
「え!?」
なんでと駆け寄ると、助手席から祖母が下りて来る。
「ルルちゃん! ばあばですよ」
「おばあちゃん!? それに、おじいちゃんも…!?」
サングラスをかけた祖父が、運転席でにかっと笑った。ルルは急いで後部座席に入り、とにかく乗り込むと車は発進する。
「おじいちゃん、スペルビア乗れたんだ…」
「特別にオッケーもらってね。それに、たまには走らないと、なまっちまうもんなあ」
「うむ。ルル。ちなみに我は今、人探しを頼まれておる。赤いスポーツカーで、ふの22-」
「77!」
「あらルルちゃん、知ってるの?」
「ルルの友達、その車でさらわれた…!」
「そりゃあいかん。すぐに見つけなきゃ」
スペルビアも応えるように速度が上がる。次々と高性能AIが街を繰り出し、決して狭くはない都内を走り始めた。
「クピリダス、中野方面は該当車両なしです」
「スペルビア、赤坂方面は該当せず」
「ブレイバーン、新宿方面に該当なしだ!」
「あら、騒がしくなってきたわね」
ヴァニタスはディスプレイ用の場所を割り当てられ、まるでオブジェの様にオフィスに飾られている。だから緊急と都内をすぐに走る事は出来ない。だがポーパルチープムの提供した映像に、見覚えがあった。AIの見覚えがあるは百パーセント知っている。だからヴァニタスのいる会社ーフォース社のPCに潜入していると、本来点いていないはずのPCの灯りに気が付いてカワダが様子を見にやって来た。
「こら、ヴァニタス! 勝手に人事用のパソコンを漁るんじゃない」
「いいじゃないの。それより、やっぱりそうだわ。カワダ、まずい事になるわよ」
「なに?」
「フォース社の社員。間違いないのかい」
イーラがヴァニタスから送られてきたデータ上の履歴書を、ホノカにも見えるようにナビ画面に映し出す。信号待ちなのでホノカは少しだけナビに顔を近付けた。
「確かに、似てますね」
「うちの総務の社員よ。身元は間違いない。あとはどこにいくかの見当よねぇ。心配だわ」
「あ、この子…ここの近くの大学に通ってみたいですね。もしかしたら、土地勘があるのかも…」
「そうなるとこの先の工場。怪しいね」
「急ぎましょう」
ホノカが通信で仲間に呼びかける。その中には、最初にヒワを探してくれた自転車の警官にも届いていた。ここから自転車だと十五分ほど。急げば十分。車よりは機動性があるので、疲れ切った肺と足に鞭打ち、彼は自転車をこぎ始める。
「セグニティス、起きろ」
セグニティスは大型トラックに積まれた高性能AIである。新人ちゃんの声で心地よい眠りを堪能していたのに、起こされてしまった。セグニティスがなんやあと間延びした声を出していると、ふと、後方カメラに車が写っているのに気付く。先程までは無かったものだ。工場の中の寮に荷物を届けていたから、普通の配達で終わる筈である。だが工場の入り口は大通りから一本入った道で、知っている者以外はめったに通らない。恐らく退勤時間と出勤時間には賑わうが、そのほかの時間は守衛さんもそこまで気を払っているかと言うと難しいだろう。セグニティスに隠れるようにしてその車は止まっている。そのナンバーが見えた。ふ 22-77。
セグニティスは発進させようとする運転手に声を掛ける。
「あんな。さっき警察にいる友達から聞いてん。ふ 22-77の盗難車に、女の子が連れ去られたんやって」
運転手が怪訝な顔で振り返ろうとして、止めた。気付かれるかもしれないと思い、バックカメラを起動するとナンバーを確認する。
「通報するから、ちょっと様子見て来てくれん? ワイもなんかあったら手伝うわ」
「分かった」
新人は緊張した面持ちとうよりも、真顔のままトラックを降りた。一方の車内である。ようやく安心できると思ったのか、男はヒワに覆い被さろうとした。咄嗟にバッグを間に入れ、ヒワはシートベルトを外すのも忘れて身を縮める。明らかに拒絶の意思を示しているのに、男はかえって面白がってヒワの肩を掴んだ。
「やめて…!」
こんこんこん。
「あのー。前のトラックの運転手なんですけどぉ」
男は興ざめしたような顔で叩かれた運転席の窓を見やった。愛想笑いで淡々と、新人は言葉を紡ぐ。
「あのですね。今から大型の荷物出したいんですけど。ちょっとだけ下がってもらえません?」
窓を開けると、男は吐き捨てるように言った。
「はあ?」
「いやーこの車お高いでしょう? ちょっと傷が付くかもしれないもんですから…僕、あんまり荷下ろしが上手じゃなくって」
「知らねえよ。どっか行けよ」
「いやーでも後で言われても困っちゃうんでー。出来れば、もうちょっとバックしてもらいたいんですよぉ」
必要のない作業である。だが今思い付くのはこれくらいしかない。時間を稼いで、警察に来てもらいたい。そう考えていると、男は目に見えてイライラし始めた。
「お前どこの運送会社だよ」
「あ、こういうもんですー」
間延びした喋り方は、時間稼ぎだ。緊張で生唾を飲みながら、あえてへらへらと笑う。その緊張感を拾って、ヒワはもしかして味方かもしれないと考えた。
「うち、クレームに弱くってですね。僕先月も怒られたんですよ。だぁから、下がってもらえると嬉しいんですよね」
「知らない。知らないそんなことは! 邪魔だからどっか行ってろ!」
「いやあでも、荷下ろしできないと配達できなくってぇー」
早く来てくれ警察! そう願っていると、パトカーのイーラがサイレンを出さずにやって来た。はっとした運転手の顔を見て、男は察したらしい。激昂して突然運転席から飛び出してきた!
「危ない!」
ヒワの叫び声と共に、男と新人がもみ合いになる。だがセグニティスのロボットアームが伸びて、振り上げた男の腕を掴んだ。イーラのロボットアームも同様に伸びて男の脇腹辺りに巻き付く。自由を利かなくさせている間、ホノカが走り寄って来た。と同時に、ブレイバーンが到着する。
「いたぞ!」
イサミが真っ先に走り寄った。男は地面に伏せながらもがいている。ホノカを蹴り飛ばそうとしているところを、新人と二人がかりだ。だがヒワが助手席にいることを確認して、急いでそちらに向かった。ヒワは車内でぐったりとしている。糸の切れた人形のような顔に、汗で貼りついた髪が絡んでいる。
「ヒワさん! ヒワダさん!」
助手席が空いたので急いでイサミは彼女を抱きかかえて下ろした。地面に置くしかなかったが、あの車の中よりはましだろう。ブレイバーンにほど近い所で必死に呼び掛けると、息を吹き返したように急にヒワの目がぐるりと動いた。
「…ルルちゃんの…おとうさん…?」
「もう大丈夫。大丈夫だ。もう警察が来た。ルルも来るよ。大丈夫」
そう必死に呼び掛けると、みるみるうちにヒワの両目に涙が溜まる。うわあああとそのまま泣き出したのを抱きしめていると、あろうことかホノカを蹴って男が逃げ出した。だがブレイバーンが飛び出して道を塞ぐ。サタケが運転席から下りて来て、男を囲んだ。サイレンの音がする。
「観念なさい!」
警棒を構えたホノカに真っ先に男は向かって行った。だが隙だらけの動きに警官の彼女は的確に蹴りや警棒で攻撃を加える。無効化された男は地に伏せた。ブレイバーンが退くと、どやどやと警官たちがやって来る。確保、確保! 少女は!と様々な声が聞こえる中で、ヒワの元へホノカが駆け寄った。
「もう大丈夫。もう大丈夫だからね、怖かったね」
ヒワは泣きながら頷く。スペルビアがパトカーの後ろに停車したのが見えた。イサミが驚いていると、中からルルと祖父母が出て来る。
「ヒワちゃん~!」
「え、××さん!?」
だが驚いている間に、ヒワにルルが突撃してきた。
「ヒワちゃん! ごめん!」
「え…?」
「ルル、一人で助けに行くつもりだったの。誰にも言わないでってヒワちゃん言ってたのに。一人じゃ無理だった…約束破って、ごめんね?」
ルルは泣きそうになっている。その手をヒワが掴んで首を振った。
「そんなことない。だって、たすかったもん。ルルちゃんがいなかったら、あたし。しんじゃって、たかも…」
込み上げる恐ろしさにぼたぼたと涙が零れたのを見て、ルルもつられて涙を流す。無事でよかったと喜び、謝罪を受け入れてくれたことに安堵したのだ。続いて、パトカーの向こうから一台の高級車がやって来た。
「ワカナ!」
「ワカナぁ!」
父親と母親である。二人とも心底心配している顔だ。ヒワの言うように冷え切った家庭でもなく、ごく普通に愛し合っているかのように娘の安否を案ずる顔が似ている。おかしいなとルルは思ったが、ヒワを二人に任せると父母はかたくかたく娘を抱き締めた。本当に大切な物であるかのように。なんだ、おかしいなとルルは思うがイサミが近寄って手を貸してくれたので、立ち上がる。イサミに体を寄せた。色々と子供の頭で考えたのだが、それが正解だったのかは確証が持てない。だからイサミに抱き着いて、守られていたいと思った。ルルの頭をぽんぽんと撫でて、イサミはよく頑張ったなと言う。正解がそこにある気がして、ルルは頷いた。
「すまないが、リオウ達が待っている。帰る事にするよ」
そう言うサタケを乗せてブレイバーンが店へと戻る。クピリダスも消防署に戻り、ペシミズムは車が見つかったと聞いた社長の崩れ落ちるのを見た。セグニティスの運転手は功労者であるだけに事情は聞かれたが、配達の時間があるのでその場を離れた。イサミが軽く会釈すると、向こうも会釈する。そうだ。アルバイト先のトラックだと思うが、それ以上の会話をしなかった。カレンは幸いにして軽傷で済んだので、ポーパルチープムは安堵した。ともかくとして、ヒワの身の安全が第一である。病院に付き添ったところで、母親に深く頭を下げられた。
「頭をお上げください。何もしてません、警察の功績です」
「でも、お嬢さんが通報してくださらなければどうなったか…」
「カイガ先生の通報です。俺達は本当に、何も」
母親は首を振った。ヒワに似て美しい顔立ちだった。彼女は診察を待つ間、ぽつりぽつりと話し出す。父親から事情を聴いているらしい。父親は謝罪に出向かねばならないので泣く泣く病院を離れている。だが、母親はすっきりとした面持ちで、なんだか電話での印象と大分違った。
「あの子、父親が愛人を囲っていると言ったんですってね」
イサミがルルを見る。
「ヒワちゃん、そう言ってた」
「それは誤解なんです。あの人、愛人なんていないの」
「え?」
「で、でもヒワちゃん聞いたって。おばあちゃんから」
「それがね、少しだけ話すと長くなるんだけど。私の実家は家業をしていて。夫の家も事業をやっていたの。それで、部門を合併したくて結婚した。政略結婚みたいなものかしら」
鶸田家に嫁いできたから一人娘のワカナが生まれ、夫とは互いに愛し合い、幸せであった。だが、その幸せを願わぬ者がいた。
「私の母がね。鶸田家を憎んでいるの。…大昔なんだけど、夫の叔父、夫の父親の弟がどうしようもない人だったらしくて。もう勘当しているんだけど、私の母に暴力をふるったの。…それも性的な方を」
なんとなく浮かんだ最悪の事態を飲み込んで、とにかく話を聞くことにした。
「それ以降私の母は鶸田家を憎んでしまっていて。…夫の父、私の義理の父も母もとってもいい人でね。それでも憎しみの炎は消えなくて。未だに会えば二時間はお説教。義父はただそれを黙って聞いているだけ。だから、母は私の幸せが気に食わなかった」
「ワカナを妊娠して実家に戻った時から、夫には愛人がいるってある事無い事言いふらして。初めは嘘だってわかってたけど、だんだん私も参ってきて。初めての妊娠で不安だったから、だんだん信じるようになってしまったの」
「そのせいで、夫に冷たく当たって。それから気まずくなって…帰って来なくなった。私が悪いの。母に、勇気を出して幸せだから邪魔しないでって言えたら…こんなことには…」
母は呻く。ワカナの病室に来るやいなや、父親は土下座したらしい。
「本当にすまなかった。私が愛しているのは、妻とワカナしかいない。愛人なんていない。それだけは信じてくれ…帰ってこなかったのは私の臆病だ。責められても仕方ない。だけど、本当に、愛人なんかいない…!」
「そう言って、手帳もスマホもパソコンも見せてもらったの。でもさ、本当に無かった。取引先とゴルフ行くぐらい」
ヒワは見舞いに来たルルにそう話す。誰もいない屋上で、ヒワの美しい髪が風に吹かれていた。
「あたしバカだった。おばあちゃんの所にばっかお母さんが行くから、すっかりおばあちゃんを信じちゃって。…でも嘘だった。よく考えたら愛人と会社にいるなんておかしいんだよね。普通愛人の家にいる、とかなら分かるんだよ。でも会社って。幼稚だよねー」
「そんなことない。ヒワちゃん悪くないよ」
「ルルちゃん、ありがとね。ルルちゃんがいなかったら、やっぱり殺されてたかもしれない。お母さんとお父さんだって、本音で話さずに終わってたかも」
「まあイサミに話したのは失敗だったかなー。まさかカイガ先生も巻き込むとかさー」
「仕方ないよ。うちの連絡先知らないんだもん」
「あーでもね、おばあちゃんおじいちゃんが久々だからって、お寿司取ってくれたの。だから結果オーライ」
スミスは出張で夜19時を回らなければ帰宅しなかった。大忙しのイサミとルルは疲労困憊していたし、久々に一緒に食事をしたいからとスペルビアに乗って自宅で出前の寿司を取り、今日の出来事を話しているうちに盛り上がり、結局祖父母は泊まりとなった。充実した休日と言えばそうだ。翌日は流石に起きられず、イサミとルルは起きるのが遅くなったけれど。
「だからヒワちゃんも気にしないで。笑ってる顔が世界一可愛いよ!」
「ルルちゃん、私以外にそういうこと言わないでね。勘違いする子いるから」
「がぴ?」
ヒワは今の所ルルが出会った中では一番顔立ちが整っている。だから心からの賛辞を述べたのだが、ヒワは苦笑いだ。
「ルルちゃん、なんでそんないつも勇気出せるの?」
「え?」
「学校にテロリストが来た時もそうだった。ルルちゃんだけ立ち向かって…どうやったら、そんな勇気が出るの?」
「んーーー? わかんない。ルル考えたことないや」
「そっか、すごいね」
「あ、でも。イサミとスミス、いっつもルルがピンチの時に駆けつけてくれたんだよね。だからあの二人のエイキョ―? かな? あ、二人には言わないでね!」
言わないよとヒワは笑う。男は逮捕されたと聞いた。もうヒワに関わる事の無いように大人が尽力しているらしい。身体を触られただけだが、密室に連れ込まれ体格で敵うことのない相手に手を引かれて、恐怖はどれだけの物だっただろう。カウンセリングにも通い、ヒワは再度学校に来られるようになった。ルルと教室は違うけれど、今も仲良くしているらしい。
「ひとまず結果オーライだな」
一部事情は伏せた顛末を話し、協力してくれたサタケに礼を言ってから帰って来た言葉に、イサミは満足げに頷いた。