「今、今見ました!」
本番前の通し稽古のあと、演者も脚本も演出も一息ついて各々大きな息を吐き出した時だった。まるでつい先ほど主演であったかのような張り上げた大声に、全員がそちらに目を向けた。イーラも向けた。彼が所属する劇団の演目が決まり、演出が決まり、チケットを立ちんぼうよろしく手で売って、ようやく開催に漕ぎつけた初日である。そんなめでたい日に似つかわしくない、まるで非難するような声である。イーラと同期に入って来た中年の男性が、同じく同期の若い女の手を掴んで高く高く掲げていた。何がだ、何事だと誰かが尋ねると鼻息荒く目力強く、彼は彼女がペットボトルに薬を入れたの見たと言い切った。劇団員であるから、声を張り上げるのは一人前である。掴まれている彼女は、違う!と叫びながら身をよじっていたが、中年男性の方は背がかなり高いので小柄な方の女性ではどうにもならないようだ。イーラは彼女の前のペットボトルに目をやる。そこにあるのは明らかにイーラのペットボトルだ。横には水筒や持参したボトルばかりが並んでいて、駆け出しらしく飲料に気を遣えないのはイーラしかいなかったから、明白である。演出家が厳しい声を出して彼女に尋ねた。
本当なのか。
「違います!」
「往生際が悪いよ! ほら」
まるで警察の手荷物検査のように中年男性が、女性のポケットに手を突っ込む。そこには薬とおぼしき個別包装が出て来て、それを小道具の様に中年男性は掲げる。
「これを、入れてたんです。粉殻(こぬが。イーラの人間としての名前である)くんのペットボトルに…!」
刑事ドラマの主演さながらに彼は息を荒くし、彼女の行動がいかに醜いかを滔々と説くかのように目をぎらつかせた。異物混入であればまあ生易しいが、薬物を混入となればその醜悪さは増す。ざわざわと劇団員達に不安の声が広がり、彼らは顔を見合わせてひそひそと喋り出した。犯行動機など聞かなくとも分かっている、嫉妬である。イーラは下っ端だが、今回の演目の助演である”男”の役に抜擢された。もちろん駆け引きも無く、わいろなども無い。イーラの実力である。たまたま”男”が強烈な怒りを飼う役だったから、イーラには容易いだけだ。だが同じ下っ端の女性は、イーラよりも演劇の世界に先に飛び込んでいて先輩のようなもの。彼女はセリフが与えられなかったのに、イーラはかなり重要な役柄。この不公平さに、嫉妬を燃やしての凶行だろうと皆すぐに思い当たったらしい。
粉殻くん、どうする。
そんな事を聞かれたって、僕だって困る。もうあと6時間後には本番なのだし、公演を中止にする義務も要望もイーラには無い。未遂なのだ。中年男性のおかげで未遂で済んだのだから、もう流してしまってもいい。ただイーラはそう考えていても、劇団員は不安そうに泣きそうな女性に冷ややかな目と同情を向けていて、積極的に関わり合いになりたくないらしい。志だけは一人前だけどねぇ、と誰かが言ったのでイーラは面倒だなと腹に怒りの炎が灯った。
つかつかとイーラが歩み寄って来たので、若い女性は顔を咄嗟に引きつらせる。彼女の本性を暴いた中年男性も、まさか危害を加える気なのかと咄嗟に彼女を庇った。僕がそんな事するわけないじゃないか、ばかばかしい。そんな事をイーラは口には出さないで、件のペットボトルを手に取って持ち上げると底を見た。中身は水である。その透明の中に錠剤が沈下していて、騒動など素知らぬように静かに溶けているようだ。せめて粉を使いなよと思いながら、そこまで気が回らない事にも小さな怒りが灯る。ああもういいよ。それも口に出さないで、苛立たしげにどすどすと劇団の中にある洗面所に向かうと、そこで蓋を取って中身を一気に洗面台にぶちまけた。錠剤はまだ残っているようだから、水道水を入れて振る。何度かそれを繰り返し、綺麗になったペットボトルを劇団員用のごみ箱へ。蓋も取って分別。ラベルも取った。そして捨てると、女性の方を見て、イーラは目を細める。
「分別。僕こういうの気になるんだよねぇ」
ぽかんとしていた劇団内に、どかんと爆笑が起きた。緊張の糸が解けたように皆大笑い、大笑い。分別かあ!と納得したように先輩方が笑っていた。イーラはそれで何事も無かったかのように自分の立ち位置に戻ったので、脚本と演出が笑いながらよしよし、それじゃ解散! 二時間後に集まるようにと言うと、皆朗らかに笑いながら返事をする。中年男性もぽかんとしていた。若い女性もぽかんとしていた。中年男性の手を、団長が取って若い女性を別室に促しているが、飲み物を買い直すために急ぐイーラの目に入ったが、彼はすぐ忘れてしまった。
演劇の評判は好調であった。皆妙にすがすがしく、一致団結していた。人間の醜さに触れて気が滅入ったところにイーラの奇行に心を掬われたのである。肝心のイーラは、褒められもしたがそれより120円返して欲しいとこぼした。先輩がお駄賃だと千円札をくれた。だからまあ、イーラがこの事件に口を出すことは何も無くなったし、あとは団長の仕事だろう。反省会を終えてイーラが家路に急いでいると、誰かが呼び止めた。同期の若い女性だ。彼女はとりたてて美しくはないが、演劇の情熱は人一倍あるのだとイーラは勝手に思っていた。だから、まさか飲み物に盛るなど馬鹿げた真似をしないと思っていたのだが、彼女は謝って来た。
「ごめんなさい」
「いいよ、別に」
気にされない方が傷付くのだろう、彼女は泣きそうな顔で微笑む。その顔を見て、もしかして彼女は劇団を辞めるのではないかとイーラは思った。人間になって早数年である。デスドライヴズの記憶は色濃いが、人間の事がだんだん分かって来ているようだ。
「僕さ」
「え?」
「嫉妬を燃やす、ってのは好きじゃないんだよね。どうせならさ、強い怒り。誰かを簡単に殺せるぐらいの強い怒りとかさぁ」
「何を、言ってるの?」
「君が強い怒りを持ってたら、僕は君を称賛したと思う。ただ、それだけ」
ここは慰めの言葉を述べるのだと思うじゃないか、あるいは君がいてくれて良かったとか。そんな顔をしていたが、イーラの憤怒論が理解できなかったのか、彼女は唖然としていた。言いたいことは終わったので、イーラはふいと彼女に興味を無くして背を向ける。そのまま家路に何事もなく向かっていると、セグニティスがいつの間にか道に現れ、手をぶんぶんと振っていた。
「イーラー! おめでとうなぁ。どやったん、満員だった?」
「五割行けばいい方だよ。まあ、あとは評判次第かな」
「あんな、ワイエゴサしてみたんよ~劇団の名前で! そしたらなー」
「なんで君の方が喜んでるんだい…」
「イーラの演技、評判ええで~このまま芸能界入りとかするんちゃう?」
「興味ないな」
金が欲しいとか名声が欲しいのではない。ただイーラは、演劇の仮面を被っている時にデスドライヴズ時代の遺物である憤怒がやわらぐ。それで発散出来るのなら安いものだ。セグニティスは何やら興奮してエゴサーチの内容を告げて来るが、耳に入らず通り抜けるばかり。良質な怒りに出会いたかったなあとイーラは考える。自分より怒っている人がこの世にいたら、きっと救われるのに。そんな事を考えて歩く月夜である。