なんで俳優を目指したの。
「なんでイーラは俳優やっとるん?」
家中のごみをまとめていると、リビングで石像と化しているセグニティス、正確にはかつてデスドライヴズのひとつであった彼の意識を持ち合わせた人間が尋ねて来た。イーラは振り返って彼を睨む。
「その疑問もゴミ箱に入れといてくれない? 今忙しいんだよ…」
「ワイは暇やもん」
「あのねぇ…」
そう言いながらゴミ袋の持ち手をぎゅっとイーラは握りしめた。彼は今、家中の燃えるゴミを纏めている最中である。名も無き家事だ。毎日台所で出る生ごみは、100円均一の臭いの出ないエチケット袋を二重にしているし、キッチンには大きなゴミ箱があるのでそれを取り出すのは容易だ。あとの問題は、この部屋に暮らすセグニティスが図体が大きい割に面倒くさがって、安くて容量の無い小さなゴミ箱連中を大量に配置していることだ。セグニティスのその時々のブームで、彼らはそれぞれ特色がある。重くて倒れにくかったり、ペダル式であったり、あるいは壁掛けであったりと、様々な仕様で部屋中に取っ散らかっているから、イーラはその中にあるティッシュやお菓子の個別包装の袋などを無心でキッチンから持ってきたごみ袋に入れていく作業をしているのだ。
「またこれか」
イーラが見つけたゴミ箱の中身は、ティシュ、ティッシュ、ティッシュ、飴玉の袋、ティッシュ。家事を効率化するなら一箇所にごみをまとめておくべきである。イーラは内心ものすごく腹を立てていたが、セグニティスとの生活をしていく上ではその手の怒りには少うしだけ耐性が付いていた。それにデスドライヴズのように気ままに死ねない体である。包丁でめった刺しにしたら、後始末が何より面倒だ。逮捕だってされてしまう。だからイーラは壁掛けのごみ箱をひょいと取ってみると、中身が無い事を確認し、そのままセグニティスの頭に振り下ろした。軽いプラスチック製である。かこん!と音がするが、そう痛くはないはずだ。
「あいた!」
「使わないゴミ箱は片付けてよね。ここ、要らないでしょ」
「リモコン入れればええやん」
「リモコン、定位置作ったでしょ。100均で揃えて。それを使ってるの、僕見たことないんだけど?」
「そりゃあ、リモコンちゃんが家出するんやもん…」
「君が変なところに置き忘れるだけでしょ」
定位置を作ろう、物に住所を。そんな断捨離だの片付けの本だのを買ってきては、ふんふん熱心に読み込むのに、三か月後には本の上に食べこぼしが乗っかっている始末。それをイライラしながら片付けて、たまに読むイーラの方が余程実践出来ていた。目立つようにこれまた100円均一でシールを買ってきて、リモコン本体と仕舞うべき場所にラベリング。ひと目で分かるような工夫を凝らしたのもイーラである。だがセグニティスは守らない。
「ワイ、電化製品に嫌われるんやー」
セグニティスから見えている世界ではそうなのかもしれない。だがイーラから見れば、まあいいやで放り出しているのはセグニティスで、むしろリモコンは迷惑していそうだ。これから冷房が必要になって来るというのに、リモコンを紛失されたら命に関わる。そう口酸っぱく言っていたら、去年は案の定エアコンのリモコンを紛失したので、家具も家電も引っぺがした思い出が残っている。見つかって誰よりも喜ぶのはセグニティスで、誰よりもリモコンを触るのはセグニティスだ。流石にその時は、何発かびんたしてしまった。セグニティスは腫れた頬を、カミさんに怒られましてんと説明していたらしい。イーラは殴ったことでほんの少し気分が晴れたけれど、高温多湿の日本で死ぬ気なのかと説教を追加していた。そんな夏の思い出をさておきに、ごみが纏まったのでイーラは袋の口を縛る。もう何も入れなくてもいいだろうときつく縛る。その後ろでちーんとセグニティスが鼻をかんだ。ティッシュのごみが出るだろう。間が悪い、と言うより思いやりが足りない! イーラが睨みつけると、ごめんと言いながらへらへら笑うのがセグニティスだ。
「俳優になったきっかけってあるの?」
同じ劇団の仲間が尋ねて来る。若い女性の仲間である。年齢が少しずつ変わる劇団員の中で、下っ端なのはイーラとその女性と中年の男性だけだ。夢を追って社会的地位を捨てたらしい。女性は高校卒業後に上京してしばらくは別の劇団にいたことから、年は同程度でもイーラよりはこの世界では先輩だ。演劇の椅子が少ない世界の場末で、そんな世界に少々慣れているからこそ、彼女は他人の夢物語をずけずけと消費し合うきらいがある。一握りの天性を誰かが見出してくれなければ、一生端にいて死ぬ世界だ。自分は凡才である事実に焦りながら、じゃあなんでなろうと思ったのかという夢は、同業者だからこそ分かる格好の酒の肴である。つまみか、あるいは話の種にされるかだ。他人に踏み荒らされることを見越して話す馬鹿がどこにいるのかとイーラは考えるものの、この世界は上下関係に厳しい。だから当たり障りのない事を言って、流す。それが得策であると分かっているのだが、今日のイーラはセリフのある役を務めることになっていて、その大役のおかげで少しだけ口が滑った。
「笑う男ってありますよね」
「ああ、15分間笑う演技をするやつ」
「あれ見て、いいなって思って」
簡潔に感情を込めず、イーラはそれだけ言うとペットボトルの水を飲んだ。ふうん、と彼女はどこか鋭い目線を寄越しながら自分もお茶のペットボトルに口を付けている。彼女は妬んでいるようだ。イーラの配役に納得がいかないのは、誰が見ても明らかであった。とはいえ下っ端の彼が演じるのは、主演まではいかない役である。だが演劇の中では非常に重要な役回りだ。イーラ演じる”男”は、昼は常ににこにことして朗らかであった反面、夜は愉悦に顔を歪ませる殺人鬼の顔を持つのである。その夜の顔を、イーラはリハーサルながら見事に演じ上げた。これは劇の核心であるから話せないが、ある物に対してだけ持つ強烈な怒りを腹に飼う”男”の役なのだ。憤怒のデスドライヴズであった彼は、人間になった後も正体不明の怒りに悩まされているので、当然ながらはまり役である。小道具のナイフを片手に、怒りに満ちた顔でヒロインを追い詰めるシーンでのイーラの殺気に、その場の誰もが息を呑んだ。本当に殺してしまいかねない怒りに、同業者である彼らは心を揺さぶられた。これはいけるぞと、口々に先輩方や脚本家が満足げな中で、彼女が尋ねて来たのである。だから嫉妬であることは間違いない。そう顔に書いてあった。イーラの言っていたことは本当だった。笑う男は、15分間役者が笑い転げなければならない過酷な演劇である。だからこそ腕の見せ所でもある。それをたまたま、高校生のまだイーラとしての記憶がない人間だった自分が見ていた。その記憶がぽっと出て来た時、もし演じてみるならと自宅で誰もいない時にやってみたことがあったのだ。笑っている間は何かに取り憑かれているかのように爽快だった。本当は存在しないはずの笑う男が憑依し、原因不明のイーラの怒りを和らげたかのように。演劇で誰かの仮面をかぶっている時は、イーラは怒りの向こう側にある心の平穏を得ることが出来るのだ。それを知ったから、イーラはもう演劇以外の道を探しはしなかった。
「自宅でやってみたんですよ、一度だけ」
「へえ。あの笑う男を?」
「楽しかったですよ」
あえてイーラが敬語を使うのは、彼女をこの場では立てねばならないと思ったからだった。嫉妬で飲み物に毒でも仕込まれたらたまったものではない。そうなのとだけ呟いて、彼女は席を立ってしまった。これから大道具の片付けがある。イーラは下っ端なので行かねばなるまい。重たい背景を数名の劇団員と汗を垂らして運んでいると、同期の中年の男性がタオルで顔を拭きながら通りがかり、耳打ちした。
「よかったよ」
そんな言葉で喜ぶほど、イーラは単純で純粋ではない。ただまあ、演劇は続ければはみ出し者にはならないだろうと思っている。犯罪の道で発散してもいいが、どうせ空しいしセグニティスと離れてしまうだろうから。ああ、明日不燃ごみじゃん。そう言えばセグニティス、最近使わなくなった収納家具やらボックスやらを解体してなかったっけ? 粗大ごみか? イーラは急に苛立ちを覚え、担いでいた背景を抱え直すと一人で運びそうな勢いで持ち上げた。力こぶに怒りが詰まっている。張り切ってるな!とその光景を見かけた先輩からは褒められたが、実際はそうではない。頷くのだけ返しておくのだった。