君を甘やかしたくなかったな。
涙ぐむ瞳がそう呟くのを真正面に置いて目線を受け止めているが、涙のせいで向こうの焦点はぼやけている。
感極まっているというよりも、非難に近い涙か。
こころというものの感情が表に出て来る表現の一つである。
あまりにも大きな感情であるせいか、かえって眠くなってしまいそうな発露である。
「ろくなことがない」
ぽつりと呟いたのが、まるで世界の始まりのようであった。
< そう言って文句を遠慮なくぶつけていた君が死んでしまった! >
ぽつりと呟いたのが、まるで世界の終わりのようであった。
「ろくなことがない」
あまりにも大きな感情であるせいか、かえって眠くなってしまいそうな発露である。
こころというものの感情が失われてまず出て来る表現の一つである。
生きているというよりも死んでいることに近しい状態か。
乾いた瞳を真正面から見据えて目線を受け止めているつもりだが、涙がひいた瞳には蠅が止まってうろうろとして五月蠅い。
君を甘やかしたくなかったな。
「リュウジ、起きられるか」
「ん」
手を揺さぶられた程度では熟睡した人間は起きやしないが、ちょうど覚醒のタイミングだったのでサタケは目を覚ました。手を隣席のプラムマンに握られている。彼が少々心配そうな顔をして、眉をひそめていた。どうしたんだいとサタケがかえって尋ねたほどだ。覚えていないのかとプラムマンは安心したようにしみじみと呟く。手も愛おしいものかのように柔らかく握られた。
「喧嘩をした後だから、無視されたのかと思ってな」
「喧嘩? そんなものしたっけ」
「搭乗時刻に余裕を持たないお前を叱ってしまった」
「ああそうだった。まだ全然余裕があるのに、君はいつもせっかちというか、几帳面で。余裕がないと気になるたちで」
「そら来た。普段はそこまで饒舌じゃないのに、人を責めるとなると口が回る」
プラムマンがあひるのような鳥の口を片手でジェスチャーしてみせたので、サタケは口を尖らせて握られている手をほどこうかと考えた。すると横を、CAが通っていく。ここは飛行機の中だ。世界をたまに旅する二人が利用する移動手段である。唐突な第三者が視界に入ったので気が紛れて、サタケは椅子にもたれた。
「で、どうして君は手を握ってるんだ?」
「お前が搭乗した後、突然眠り始めたからだ。それから小さく唸って、涙を流した」
サタケが自分の頬を触れると、塩からいものが通ったような跡が指に引っかかる。
「CAも持病か何かあるのかと心配していてね。俺も聞いたことがないから、二人しておろおろしたよ。そのうちぐっすり眠り始めたから良かったが…」
プラムマンは深く心配していたのだろう、手を離す気配がない。窓際の二人席であるから誰かに見られることは無いが、固く握りしめ合っている男二人はまだ異端だろう。サタケがふと周囲を見渡すが、こちらに注目している人間はいないようだ。だからといって、やはりプラムマンが手を離す気配はない。
「俺は何か言ってたかい」
きれいさっぱり忘れているらしく、サタケは自分ではない自分の言葉を他人に尋ねてみた。目撃者は、何もと答える。
「ただ苦しげであったから、病気を疑っているし今も警戒している。おそらく、他のCAにも話が行っているようだな」
心配をしてか、そういえば先程から何度も違うCAが二人の席の横を通っていく気がする。
「俺もそれを心配していてな。このまま日本に戻すのが少し恐ろしい」
「ろくなことがない」
「それはどういう意味だ、リュウジ」
サタケは無意識にそう呟いていたので、何だと聞かれても困ってしまった。
「すまない、夢でそう言っていたのかも。不意に出てきたんだ。君に宛てた物じゃないよ」
喧嘩別れなど、この空中の飛行機の中でなんて冗談じゃない。それに本当に無意識だったのでサタケは慌てている。その様子を汲んでくれたのか、プラムマンはふいと目線を窓に逸らした。窓の向こうには青空と白い雲が浮かんでいる。良い天気である。バードストライクが無邪気に起こりそうな、平和すぎる光景であった。恵まれて生まれ育った人間の想像力の中だけの世界のようだ。
「ああ」
「…怒らないでくれ、トム」
うかがうような忍ぶようなサタケの声に、プラムマンは振り返った。
「怒ってはいない。夢の言葉が飛び出す事なんて、誰でも起きうる」
「ありがとう」
「それにしても、涙を流すなんて悲しい夢だったのか」
「覚えてない。でも、もしかしたら君はいたかもしれない」
その短い会話は恋人同士の物と考えれば、熱烈な単語が含まれている。夢にすら出て来る恋人の話を恋人にするのだから、その心のつながりとは如何ほどの深い物か見当もつかない。プラムマンは少し顔をほころばせた。
「それは嬉しい話だな」
「でも泣いていたんなら、君に振られたのかもね」
「そんな不吉なことを」
「俺は思っているよりは面倒くさいよ。君が甘やかすから」
そこで妙にしっくりと口に馴染む単語があったので、これは夢で思ったことかもしれないとサタケは考える。
「私だって、君に甘やかされているさ」
「どうかなあ」
不意に夢の中で口にした単語がちかちかと脳裏にきらめいて、サタケは思い出す。君を甘やかしたくなかった、そんな事を口にする機会は破局であろう。あるいは、プラムマンにそう言われたのならと考えると空恐ろしい。だから彼に言われてもいないのに、否定したくなって言葉を紡いだ。
「甘やかしすぎたと思うなら、ちゃんと叱ってくれ」
「叱らんさ。負うた子に教えられて浅瀬を渡る。だったか?」
プラムマンが発したことわざよりも、日本語を発音したことにサタケは驚いていた。
「わざわざ日本語を勉強してくれてるのか?」
「リュウジだけ不公平だからな。そうでなければ一生よその言語は覚えないだろう、君のためでもあるが俺のためでもある」
手を握る手が不意に強くなったので、サタケは自分の捕らわれた手に目を落とす。じとりとした汗が滲んで、それが数分前のプラムマンの焦りを告げていた。
「さっきは悪かった。俺だけが正しいという事はあり得ないのにな」
「そうだよ、土産物屋の雰囲気を味わうとか空港の楽しみ方はあるのにな」
「リュウジの言う通りだ、俺の負けだよ」
「でも不測の事態もある。君の行動は正しい。だから俺も悪かったよ」
握られている手があたたかい。
「どれだけ心配してくれるか分かったから、もう不機嫌は飛んでいったさ」
「こっちも、心配し過ぎてフラフラするリュウジの姿は忘れたよ」
「ん、まだ完全には忘れてないみたいだな?」
「ろくなことがない、だったか。目に余る事は多々あるものだよ」
「それならトム、俺にだってそういうのはあるさ」
不機嫌が底地にないやり取りは、最後にはお互いに笑って終わった。甘やかしたくなかったというのはふと、自分の事を指すのかもしれないとサタケはうとうとしながら思う。夢の言葉は、夢うつつの時が一番理解できる。ただそれを覚醒した時に覚えていないだけである。自分を甘やかしたら、その分だけ相手に心を預けるのだからいつか共倒れにならないのかという懸念だろうか。でもあの夢は死を危惧していた。蠅が美しい瞳の目玉を這うグロテスクさを覚えている。もう取り返しは付かないのだろうと思いながら、手を握ったまま睡眠という真っ暗な谷底へ意識は転がり落ちていった。なのに不思議と怖くなかったのは、サタケの目が覚めた時にでも答えは分かるだろう。